SS3 薔薇園の像
もと高級宿泊施設というだけあって、“暁の鞘”の本部は居心地のよい空間となっている。それは屋内に限ってのことではなく、敷地内の半分ほどを占める庭園には様々な樹木や草花が植えられており、天気のよい日には大日傘の下で草木を愛でながらお茶を楽しむこともできる。
「……さて、そろそろですかな?」
淡い桃色のお茶が、ポットからカップへと注がれた。
「砂糖とミルクをたっぷり入れてお召し上がりください」
そう言ってお茶を差し出したのは、銀色の髪を後ろに撫でつけた初老紳士、ハリスマンである。
庭師と御者と剣術指南役を務める多才な男だが、もと執事ということもあり、その動作は実に洗練されたもの。
「ありがとうございます」
言われた通りに砂糖とミルクを入れて口に運んだシズは、豊かな風味と爽やかな香りに、思わずほうと息をついた。
「美味しい」
シズはクラン“暁の鞘”の代表だが、ハリスマンはボルテック商会からの派遣という立場である。クラン内における上下関係はない。ハリスマンも自分のお茶を入れて、シズの隣に腰をかけていた。
「少し変わった風味ですね」
「ザラール地方から取り寄せたヘグ茶です。精神を安らかにする効果があるそうで」
「なるほど」
「とはいえ、お茶だけではそれほど意味はありません。周囲の環境によって、ひとの感じ方は大きく変わるものですから」
またもやなるほどと、心の中でシズは納得した。
クラン“暁の鞘”が発足した当初、この庭には雑草を防ぐために小石が敷き詰められており、味気ない装いだった。
大きな庭園を維持するためにはお金と人手がかかる。“暁の鞘”の本来の目的――地下八十階層へ到達し、その階層主を撃破して、ユイカを助けること――を果たすためには、他の部分を犠牲にするしかない。
そういった理由から、シズはこの庭園の改修の必要性を認めなかった。
しかしハリスマンが“暁の鞘”のメンバーに加入してから、状況は変わった。
執事を引退したあとは自分の庭園を持ちたいと考えていたハリスマンと、本心では少女たちやミユリが生活する場として、その環境をよいものにしたいと考えていたシズの思惑が一致し、クランの影の支配者たるロウの許可を得て、庭園造りが始まったのである。
ロウ、マリエーテ、カトレノア、ティアナ、トワの五人は迷宮内で過ごすことが多い。その間、ハリスマンには時間的余裕がある。彼はコツコツと庭づくりに勤しみ、数ヶ月かけて素晴らしい庭園が完成――しつつあった。
色とりどりの草花、時おりそよぐ風、柔らかな日差し、そして風味豊かな紅茶の香り。
五感に訴えかけるそれらの刺激は、このところ張り詰めていたシズの精神を解きほぐす効果があったようだ。
「このようなゆったりとした時間は、久しぶりです」
「それはよかった」
“暁の鞘”発足以来、根っからの仕事人間であるシズは、まるで自分を追い込むかのように、代表としての責務に邁進していた。
その内容は、クランの資金集めと冒険者に関する情報収集だが、年頃の少女たちの面倒も見なくてはならない。
「そういえば、今日は迷宮探索はお休みだったはずですが、あの娘たちの姿を見かけませんね」
“暁の鞘”のパーティは、パーティ強化計画の第二段階に入っている。
第一段階では、人型の魔物やグロテスクな魔物と戦うことで恐怖心と嫌悪感を克服するとともに、重い荷物を担ぎながら迷宮内を駆け回り、とにかく持久力を鍛える。
第二段階では、“死の階層”と呼ばれている地下二十一階層に潜行して、尋常ならざる手法で追跡蟻の群れを殲滅し、一気にレベルアップする。
そして最終段階である第三段階では、いよいよ深階層に潜行し実戦経験を積む予定なのだが、そのための武器が足りない。
具体的には、遺失品物である。
「マリン殿、ティアナ殿、カリンお嬢様は、地下室で自主訓練をしていますな。トワ殿は見かけませんでしたが」
「まったく、あの娘たちは」
仕事人の顔に戻って、シズは文句らしきものを呟いた。
「せっかくの休日なのですから、もっと有意義に過ごすべきでしょう。せめて身体を休めるとか」
第二段階に入ってから、約半年。信じられないスピードで冒険者レベルも上がり、それにともない上昇した基本ステータスのおかげか、最初はベッドで粘液玉のように横たわっていた彼女たちにも、少し余裕が出てきたように思う。
しかし、年頃の女の子らが迷宮探索以外に関心を示さないというのは、教育上問題があるのではないか。
身内以外の者がいると表情を隠し無口になるマリエーテ、普段は上品だが時おり発狂したように高笑いを上げるカトレノア、すべての物事を戦いに結びつけようとするティアナ、感情を抑制する術を知らない浮世離れしたトワ。
考えてみれば、今のパーティメンバーは、冒険者というよりは人として、欠けている部分が多いように思える。
「今後、冒険者番付表の上位を狙うのであれば、世間の関心も高まり、自然と露出も増えていきます。報道関係の取材にも対応しなくてはなりません。もう少し世間というものを知って、常識的な言動というものを――」
今後のパーティ育成方針について考えを巡らせていたシズは、思わず赤面した。
「す、すみません」
このお茶会は、事務室にこもって書類と格闘していたシズのことを気遣い、ハリスマンが提案してくれたもの。
その趣旨をあっさり忘れてしまった。
「ダメですね、私は」
仕事一筋に生きてきたシズを、ハリスマンは年季のこもった柔和な笑顔で慰めた。
「お気になさる必要はありません。仕事に精を出す女性というのは美しいものです」
だが、時おり立ち止まり、周囲の人々や自分の心と向き合わなければ、大切な感覚を見失ってしまう。
それは、相手の気持ちを考えること。
仕事という物差しだけですべてを推し量ってしまえば、心ない言葉が飛び出し、他人と、そして結局のところは自分自身をも傷つけてしまう。
そのことを、過去の苦い経験から理解したはずなのに。
自らの言動に恥じ入り、また美しいと評されて不覚にも動揺してしまったシズは、やや不自然に話を変えた。
「そ、それにしても、素敵な薔薇ですね。ここは、もう完成したといってもよろしいのではありませんか?」
二人がお茶をしているのは、庭園の中央部にあるやや開けた場所だった。そこには赤や黄色、白といった、鮮やかな薔薇が咲き誇っていた。
しかしハリスマンは満足していないようだ。
「この庭には一か所だけ、欠けている部分があります。お分かりになられますかな?」
答えはすぐに分かった。
「広場の中央に、台座がありますね」
その台座だけが寂しく佇んでいる。
「ご明察です。実は、あの台座の上に大地母神ガラティア様の石像を飾る予定なのですが、間もなく納品されるのですよ」
ハリスマンは悪戯っぽく笑った。
お茶に誘ったのは、仕事に根を詰め過ぎているシズを心配したということもあるが、この庭の完成形をシズに見せ、自慢したかったというのだ。
石像の製作者は、とある有名な工芸家。ボルテック商会の伝手を使って発注したのだという。
壮麗な大地母神の像と美しい薔薇は、互いを引き立て合うでしょうと、ハリスマンは嬉しそうに語った。
ほどなくして、石像を運ぶ荷馬車が到着した。
庭の隣にある馬小屋で積荷の木箱を下ろす。かなりの重量のようで、地面に丸太を敷き詰め、その上を滑らせながら、数人がかりで搬入してくる。
「ほら、揺らさない。そこ、段差があるから気をつけて。よーし、よし。到着ぅ!」
木箱の上で搬入の指揮しているのは、何故かトワだった。
この少女は、クラン加入当初は腰まであった灰色の長い髪を、ただ動きづらいからという理由だけで、ばっさりと切ってしまった。ロウなどは掌の上で上手く転がしているようだが、その言動は予想がつかない。
トワは木箱から飛び降りた。
「だいひょー様、ハリスししょー、ちっす」
組織内における立場を理解させるために、ロウはトワへの“ご褒美”を、シズから与えるように指示を出した。
そのせいか、この気まぐれな子猫のような少女は、シズのことを餌をくれる主人のように思っている節がある。
まるで孫娘でも見るかのように、ハリスマンはにこりと笑った。
「トワ殿、石像の運搬のお手伝いをしてくれたのですかな?」
「うん。ハリスししょーのお庭が完成する日だからね」
「よくご存知でしたな」
「まあね。ボクとしても、貴重な休みを使う価値があるってものさ」
滑車リフターを使って木箱を台座の上に載せる。木箱を取り除くと、大きな布で包まれた物体が現れた。
「ほら、ししょー。このロープ持って」
ロープの先は、梱包用の布に巻きついている。これを引けば石像がお披露目されるわけだ。
「では、ごかいちょー。諸君ら、拍手!」
運搬人の男たちが一列に並んで拍手を送った。
思わぬセレモニーとなったが、ハリスマンは居住まいを正すと、おもむろにロープを引っ張った。
布の中から現れたのは、壮麗な大地母神の像――ではなく、醜悪な姿形をした石膏像だった。
縞模様の入った細長い胴体、鋭い歯のついた円形状の口、そして合計十本の触手。口から垂れ流されるよだれまでが忠実に表現されている。
それは、触手芋虫の石膏像だった。
無限迷宮の浅階層に棲まう魔物、触手芋虫は不人気な魔物である。
触手は気持ち悪いし、攻撃すると臭い液体を撒き散らすし、魔核も小さい。魔物図鑑には「ある意味最強の魔物。動きが遅いので、見かけたら逃げるが吉」と、注釈まで添えられている始末。
運搬人たちの拍手がまばらになり、やがて止まる。それから彼らは、疑惑の視線をハリスマンに投げかけた。
それは、発注者の美的センスを疑うかのような視線だった。
シズは声もなく、セレモニーを見守っていた。
庭師が丹精を込めて育てた薔薇の園に佇む大地母神の像。王侯貴族のそれとはいかないまでも、格調の高い素晴らしい庭園になるはずだった。
だが今は、写実的――を通り越して肉感的ですらある触手芋虫の石膏像のせいで、悪魔の庭園にしか見えない。
微笑を浮かべたまま、ハリスマンはふむと頷いた。
「はて。私は、大地母神ガラティア様の像を発注したはずなのですが」
「ああ、それならボクがキャンセルしておいた」
こともなげにトワが言った。
ハリスマンがボルテック商会を通して大地母神像を発注したことを、トワはカトレノアから聞いたらしい。そこでトワは注文をキャンセルし、代わりに自分で作ることにしたのだ。
「誰も見たことのない女神の像なんて、ただの妄想の産物だよ。しかも、大衆が思い描くであろう姿形を慮って作るだなんて、商業主義もいいところだ。ま、ボクは絵描きだけど、表現者として? やっぱり立体も作ってみたいし? サプライズ的な?」
得意顔で、にんまりしながらにじり寄っていく。
「どうだい、ししょー。ボクの像の出来映えは?」
「……」
ここはハリスマンが数ヶ月もの時間と労力をかけ、しかもほとんど自費で、こつこつと造り上げた庭園である。
さすがに怒るだろうとシズは思ったが、ハリスマンは何も言わず、テーブルに残っていたお茶を飲み干した。
あれは――精神を安らかにする効果があるというヘグ茶。
「トワ殿。たいへん素晴らしい出来映えですな。私の育てた薔薇たちも、こ、心なしか喜んでいるように、思えます」
すごい。
これが元執事の、いや成熟した精神を獲得した者の、大人の対応というものか。
この世には、自分の仕事よりも大切なものが、確かにある。
それを見出し、また見失わないためには、相手に対する気配りと、強靭な自制心が必要なのだ。
自分も、見習わなければ。
深く感動したシズだったが、夕食の席で、この魔物の像は――おもにシズを除く女性陣によって――ずたぼろに酷評されることになる。
「うぐぐ……」
涙目になって声も出せないでいるトワに、ロウがにこやかに告げる。
「ま、確かに素晴らしい造形だと思うけれど、しょせんは浅階層の魔物だからね。ハリスさんが手塩にかけて造り上げたあの薔薇園には、ちょっとどうかと思うよ?」
「うがぁ!」
このひと言がとどめとなり、触手芋虫の石膏像は薔薇園から撤去され、地下訓練所へ移されることになるのであった。




