(6)
魔物図鑑によれば、醜悪鬼は、成人男性の三倍はあろうかという大きさを誇る太った巨人の魔物、とある。
樽のように突き出た腹、がに股の短い足、アンバランスなほど長い腕と分厚い鉄板のような手。
頭は潰れた三角形で、鼻の穴が剥き出しになっており、耳の辺りまで避けた口からは常に涎を垂らしている。
醜悪鬼のような顔などと、人の容姿に対して比喩的な表現で使うことは、最大の侮辱とみなされる。文字通り、醜悪極まりない魔物だ。
魔物レベルは、六。凶暴かつ執念深い性格で、無尽蔵の持久力を誇る。
動きはそれほど早くはないが、醜悪鬼に見つかってから逃走することは推奨されていない。
無尽蔵の持久力で、延々と追いかけてくるからだ。
もし逃げ出す場合は、螺旋蛇道を上るか下がるかして、階層を移動すること。
だが、無限迷宮の地下第二十階層にいる醜悪鬼だけは、少々性質が異なる。
“関門”というふたつ名で呼ばれているこの階層主は、まるで地下二十一階層へ続く螺旋蛇道を守るかのように、その前にある広間から動かないからである。
戦闘を開始してから逃げ出すことも容易で、それゆえに死者が出る可能性は低かった。
だがその情報も、今回限りで書き換えられることになるだろう。
“関門”が、“光の墓場”に現れたからだ。
よくよく観察すれば、魔物の様子はおかしかった。
ダメージを吸収するはずの分厚いゴムのような肌はあちこち傷ついていたし、まるで持久力を消耗し切ったかのように、ぜいぜいと身体を上下に動かしていた。
それに、まるで何者かに追い立てられるかのように、水晶柱にぶつかり、転がるようにして姿を現したのだ。
「……どうして、ここに」
軽戦士が呆然とした様子で呟いた。
「あれは、醜悪鬼に間違いありません。この階層にいる醜悪鬼は、“関門”だけ。ですが、あの魔物は螺旋蛇道前の広間から動かないはず。それにここは迷宮泉です。魔物たちは近寄らないはず。いえ。一部の高度な知能を有する魔物であれば、迷宮泉での目撃例はあります。また例外として、植物系の魔物は――」
おそらく自分の精神を安定させるためだろう。軽戦士の説明は早口で、誰も聞いていなかった。
その巨体を起こしてから、しきりに後方を気にするそぶりを見せていた醜悪鬼だったが、すぐにタニスたちを発見したようだ。
一瞬、訝しむように首を傾げ、片腕を上げて頭をかき、それからにたりと笑う。
『ふごおおおおぉっ!』
「――っ!」
まるで豚と牛を掛け合わせたような耳障りな雄叫びととに、膨大な魔気が発せられた。
“悠々迷宮”のパーティレベルは三。
醜悪鬼の魔物レベルは六。
倍のレベル差がある魔物と戦う場合には、注意が必要である。何故ならば、自分たちが宿す神気を遥かに上回る魔気を浴びると、精神にダメージを受けて、身体が硬直してしまうからである。
事前に気持ちの準備をしていれば、耐えられただろう。
だが、迷宮泉で食事をとっていたタニスたちは、完全に不意を突かれた状態だった。
まるで犬頭人のように、地面に倒れ込んで降参してしまいたくなる気持ちを、タニスは歯を食いしばりながら堪えた。
「に……」
魔物から逃走する手段を、“悠々迷宮”は有している。
それは遊撃手が持つ“泥沼”というギフトだった。地面に足で閉ざされた円を描くと、その中が沼地化するという特殊な効果があり、これを狭い通路で使えば、時間を稼ぐことができる。
だが、ここは広大な広間内だ。罠を張り巡らせる場所としては適切ではないし、そんな時間的余裕もなかった。
「にげ、ろ……」
情けないことに、タニスの声は掠れていた。
そして他のメンバーたちは反応することすらできなかった。シェルパなどは尻餅をついている有様である。
『ふごっ、ふごっ!』
醜悪鬼は長い両手を地面について、短い後ろ足で跳ねるようにして近づいてくる。まるで兎のような動きだったが、可愛らしさの欠片もない。
迫ってくるのは、文字通りの“死”だ。
絶望的な状況の中、ただひとり動けるものがいた。
それは、赤毛の少女だった。
強さを求める本能が、あるいは恐怖を上回ったのか。少女はパーティの先頭に立つと、両腕につけている鉄甲をがちんと鳴らした。
その頼もしい音が、タニスたちの消えかけていた勇気を、奮い起こさせた。
「翼竜、怪力鬼、黒曜狼、切裂兎――そして、シェルパのおっちゃん」
勝手につけた魔物名で、少女は仲間たちを呼ぶ。
「オレが時間を稼ぐ。あんたらは、逃げろ」
一瞬だけ振り向いた赤毛の少女は、いつも通りの不敵な笑みを浮かべていた。
「“魔花狂咲!」
それは、少女だけが持つユニークギフトだった。
効果は単純に、筋力と瞬発力が倍になるというもの。
だがその代わりに理性を失い、狂戦士のように戦い続けるのだ。
継続時間は、少女が大きなダメージを受けるか、持久力を使い果たして気を失うまで。
このギフトを行使した赤毛の少女は、敵味方の区別なく襲いかかる。ゆえに、他のメンバーはすぐさまその場を離れなければならない。
それは、少女からのメッセージでもあった。
少女は“魔花狂咲を行使することで、無理やりタニスたちの行動を促したのである。
まるで獣のような動きで醜悪鬼に向かっていく少女の背中を見送りながら、タニスの思考は高速で駆け巡っていた。
ここで逃げれば、自分たちが助かる可能性は高い。
だがおそらく、少女は死ぬだろう。
狂戦士化中の行動は攻撃に比重が移り、防御が手薄になる。それに、体力や持久力の値は変わらない。動きが鈍ったところに一撃を喰らえば、それまでだ。
また、仲間を見捨てることに対する恐怖もあった。
たとえ助かったとしても、自分は――他の仲間たちは、まともでいられるだろうか。
冒険者としての誇りを失った自分たちは、精神状態を立て直すことができず、後悔に苛まれ続けるのではないか。
それらのすべてを考慮に入れた上で、タニスは決断した。
「この場を離れる。何も考えるな! 一刻も早く――第十九階層に上がるんだ!」
薄れゆく意識の中で、赤毛の少女は興奮を抑えられなかった。
強い魔物と戦える喜びか、それとも“魔花狂咲”の影響か。
どうでもいいと、少女は思った。
戦いに勝てば強くなれるし、負ければ弱いまま。
生きている意味はない。
これで、終わりでいい。
そこまで考えたところで、
「うがあああああっ!」
少女の意識が、一気に希薄になった。
ぼんやりとまるで他人ごとのように、目の前に映る光景を眺めているだけ。
それは、夢と現実の境目のような精神状態だった。
醜悪鬼もまた咆哮を上げながら、長い手を振るった。
躱すのではなく、ただ攻撃するために、少女は跳躍した。
普段の自分では考えられないくらいのスピードと跳躍力。
眼前に迫る凶悪な顔に、拳の連打を叩き込む。
醜悪鬼の皮は分厚く、“打”に対する抵抗力が高いとされる。
だが、そんなことは関係ない。
少女の武器は、ふたつの拳だけなのだから。
着地すると、少女は一番防御力が高いはずの腹部を狙った。
樽のような腹に、小さな拳がめり込む。
違う、そうじゃないと、少女は思った。
もっと効果的な部分を狙わなくてはならない。
もどかしい。
まるで、夢の中で足掻くような感覚に、少女の意識は苛立った。
醜悪鬼は、うるさい蝿を捕まえるような仕草で、長い両手を振り回す。
少女は素早い動きで懐に飛び込み、連打を叩き込む。
拳撃によるダメージは少ないが、それでも醜悪鬼は醜悪なその顔をさらに歪め、無気味な口の中から黒い霧のようなものを吐き出していく。
最初は少女が優勢だったが、その動きは徐々に鈍くなっていった。本来以上の筋力と瞬発力を使ったために、持久力が尽きようとしているのだ。
これはだめだなと、少女はぼんやりと思った。
ほら、だめだ。
これは――躱せない。
ついに、醜悪鬼の巨大な手の平が少女を捉え、弾き飛ばした。
地面の上を二、三回バウンドして転がり、灰色の水晶柱にぶつかって止まる。
一気に意識が覚醒し、少女はくぐもった声を上げた。
痛み以上に、身体中が悲鳴を上げている。
魔花狂咲を使うと、二、三日は筋肉痛に悩まされるのだ。
少女の視界には、立ち尽くす醜悪鬼の様子が映っていた。
「……つえー、な」
全力を出しても、なお届かない相手。
魔物ながら、尊敬する。
だが、少女は訝しく思った。
自分を打ち負かすほどの相手が、何故か怯えているように見えたからだ。
ダメージで視界がぼやけているからではない。
確かに、醜悪鬼は一歩後退りした。
別の方向から、何者かが近づいてくる。
視界の中に現れたのは、奇妙な人物だった。
頭巾のついた漆黒の外套を身につけている。そして手には、馬鹿馬鹿しいほどに巨大な、まるで鉄板のような巨大剣を携えていた。
そんなわけないと、少女は思った。
弱い奴は、死ぬ。
絶体絶命の状況で助けてくれる英雄など、物語の世界の中にしかいないはず。
漆黒のコートを身につけた人物は、巨大剣を軽々と担ぎ上げると、怯える醜悪鬼に向かって突進した。
醜悪鬼は動かない。
まるで、蛇に睨まれた蛙のよう。
薄れゆく意識の中で、少女は確かに見た。
刀身がぶれるほどの速度で巨大剣が振り回され、醜悪鬼の腹部に叩き込まれたのだ。
さらに一撃。
今度は頭上から、真っ直ぐに振り下ろされる。
醜悪鬼の、体に比して小さな三角形の頭は、胴体の中にめり込んだ。
衝撃で魔核を砕いたのだろう。醜悪鬼の巨体から、膨大な黒い霧のようなものが溢れ出す。
その中で、漆黒のコートを見につけた人物は、こちらを振り向いた。
白い、髑髏の仮面を被っている。
少女は思い出した。
黒曜狼が言っていた。
浅階層を駆け回る、謎の冒険者のことを。
その名は、確か――
「髑髏の、騎士……さま」
少女は意識を手放した。
「仲間を切り捨てる者と、魔物に立ち向かう者、か……」
髑髏の騎士――ロウは、ぽつりと呟いた。
タイロスの迷宮の深階層にいた伝説の階層主、死霊魔王の成果品である暗黒骸布の外套に、奇妙な魔鍛治師が被っていた剛力の仮面、そして魔工房で手に入れた巨大剣を身につけている。
以前、ユイカの過剰な親友だったベリィには、ひ弱な死神と笑われたものが、最近では筋肉もついてきて、様になっている。
足元に横たわる醜悪鬼が消えると、地面の上に巻貝の殻のような物体が残された。
“醜悪鬼の耳”。
悪趣味な飾り物にしかならないが、冒険者ギルドに提出すると近道通行権と交換することができる。
ロウは“醜悪鬼の耳”を拾い上げると、少し離れた場所で気を失っている赤毛の少女のもとに歩み寄った。
「ずいぶんと、使い勝手の悪いギフトだなぁ」
だが戦闘の序盤は、醜悪鬼をスピードとパワーで圧倒していた。理性や感情をうまくコントロールすることができれば、あるいは勝てたかもしれない。
ロウはタニスたちが走り去った方角を見つめた。
漆黒の外套の上から、左腕を押さえる。
タニスが身に付けている“探索の腕輪”と、ロウが身につけている“追跡の腕輪”は、タイロス迷宮の魔鍛治師が所持していた一対の魔法品だった。
膨大な魔力を消費して、魔気を感知する“探索”や神気を感知する“追跡”のギフトを行使することができるが、それとは別に、特殊な効果が隠されていた。
それは、それぞれの腕輪が存在する位置を特定するというもの。
同じ階層であれば、距離の制限はないらしい。
この能力を使って、ロウはタニスたちが休憩している位置を特定し、動かざる階層主――“関門”を、相手の倍のレベルを誇る神気と暴力を使って、追いやったのである。
彼らの冒険者としての適性を確かめる、ただそれだけのために。
「互いの絆を示せ――“共鳴”」
今現在、タニスたちは地下第十九階層へと繋がる螺旋蛇道へとたどり着いたようだ。
おそらく彼は、この階層に留まらないだろう。
ロウは予測通り、彼らは螺旋蛇道を登り、そこで“共鳴”の効果は途切れた。
仮に自分が“悠々迷宮”のリーダーだったら、どうしただろうか。
おそらく、タニスと同じ決断を下すに違いないと、ロウは考えた。
だがしかし。
仮面の中で、ロウは自嘲するような笑みを浮かべた。
タイロス迷宮の最深部で、彼女――ユイカは言ったのだ。
竜と戦う時には、わずかでも逃げる算段を考えては、負けるのだと。
ぎりぎりの戦いにおいて相手を上回るには、真っ直ぐに前を見据えて突き進む気概を持つことなのだと。
それにこの娘は、
「面白い」
性格に難があり、ギフトは使い勝手が悪すぎる。
あるいは、遠回りになるかもしれない。
それでも理不尽極まりない札に賭けたくなるのは、冒険者の悪癖なのだろうか。
ロウは少女を担ぎ上げると、タニスたちとは反対方向の、地下第二十一階層へと続く螺旋蛇道に向かって、ゆっくりと歩き出した。




