(14)
それは、今から四年ほど前の出来事だった。
ぴくぴくと動く、小さな手と足。
あれには驚いた。
約半月ぶりに迷宮から帰ってくると、新しい家族が増えていたのだ。
揺りかごの中、産着から覗いている小さな手と足は、ぷっくりとしていて、それでも指にはちゃんと爪がついていた。
「へぇ。こんな感じなんだ。名前は?」
「……マリエーテ。女の子よ」
「マリ、エーテ? ……ふ~ん」
ベッドの上の母親は顔色がわるく、笑顔にも生気がなかった。
産後の肥立ちがわるく、それからふた月ほどで、母親は亡くなった。
悲しみを受け止めることができずに、父親は酒に逃げてばかりで、まるで頼りにならなかった。
自分がしっかりと対応しなければ、この幼い命は失われてしまうだろう。
それは強迫観念ではなく、義務感でもなく、使命感だったのだと思う。
迷宮のことをすべて忘れて、ロウはしばらくの間、マリエーテの育児に生活のすべてを捧げることになった。
自分の性格が屈折していることを、ロウは自覚していた。
ただ漠然と生きることに、意味などない。
では、いったい何を基準として、生きていけばいいのか。
どのような目標を立て、どのような行動をとればいいのか。
先達の教えはくその役にも立たない。
そして自身には、知識もなく、経験もない。
真っ暗な闇の中でもがき苦しみながらも、ロウはとりあえずの目標地点を定め、最短ルートを定めた。
寄り道などしない。そんなものに意味はない。
だから、自分に対して利益をもたらさない愚鈍な相手には冷淡に接し、切り捨ててきた。
ひとつの目標を達成しても、決して満足できなかった。
あらたなる目標を定め、同じ行為を繰り返していく。
目標地点はどんどん高くなり、そのための最短ルートはさらに細く、険しくなっていく。
何を、そんなに難しく考えていたのだろう。
家の庭先、ちょうどよい木陰があるところ。安楽椅子に座り、幼いマリエーテを抱きかかえながら、ロウは苦笑したものだ。
家族を守り、共に生きる。
こんなにも明確かつ人生を賭けるに足り得る目標が、すぐそばにあるではないか。
あまりにも平凡すぎる答えを、これまで自分は受け入れることができなかった。
自分だけの特別な到達点がどこかにあるはずだと、遥か遠くに霞む頂ばかりを見上げていた。足元をおろそかにして、気がつけば、何ひとつこの手につかんではいなかった。
今は、小さな妹がいる。
「それは、そうだよなぁ」
たとえ自分だけの到達点を見出したとしても、勝てるわけがない。
自分よりも大切な存在が、ここにあるのだから。
「……う~ん」
どこからどう見ても、可愛らしすぎる。
強く、賢く、そしてしたたかに育って欲しい。
そのためには――
どうにかしてマリンを学校に行かせられないかと考えたのは、このときだった。
しばらく検討してみると、なかなかに険しき道であることが分かった。
新たなる住居と、新たなる生活。
莫大な金が必要となるだろう。
時間の制限もある。
それに、マリエーテの育児もおろそかにすることはできない。
冒険者では無理だ。
危険が大きすぎる。
ではどうするか。
たとえば、シェルパなどはどうだろうか。
冒険者をうまく利用しながら、冒険者以上の金を稼ぐことはできないだろうか。
相変わらず、目標地点は高く、最短ルートは細く、険しい。
しかし、決してくじけることはないだろう。
これは――ただ幸せを求めるものではなく、幸せを積み重ねるための目標なのだから。
胸に抱いていた妹の寝顔が、ぼやける。
記憶が曖昧になり、全身の痛みが戻ってくる。
ロウは、歯を食いしばった。
「……ッ」
地面に突き刺した巨大剣の柄を片手で握り締めながら、ロウは青い蔓の圧力に、必死で耐えていた。
もう片方の手には、黒色の球体がある。
かなり小さくなっている。
すでに、小脇に抱えられるほどの大きさ――迷宮核だ。
通路と広間の境界線の辺りには、赤色と青色の蔦を揺らしている円柱状の魔物――世界葉呪がいた。
怒りの感情を爆発させているようで、さきほどからヒステリックな声が響いている。
『おのれ、虫けらの分際で! 至高の御方の御身を――我が、気高き魂を――潰す、潰す、潰す……きえぇえええ!』
一瞬、気を失いかけたようだ。
すでにロウの全身には、十本以上の青色の蔦が巻き付いていた。
とてつもない力がかかっており、その圧力に対抗すべく、ロウは全身の筋肉を膨らませ、歯を食いしばって耐えていた。
ロウがこの通路の存在に当たりをつけたのは、戦闘の終盤である。
“宵闇の剣”のメンバーが倒れていく様子を、ロウは見ていなかった。閉ざされた広間を取り囲む壁だけを、一心不乱に観察していたのである。
迷宮主を倒せば、迷宮核へと続く通路が開かれると、ユイカは言った。
口には出さなかったものの、それは違うのではないかとロウは思っていた。
迷宮核と地上とは、通路と広間、そして螺旋道により、空間的に繋がっている。
でなければ、迷宮核が生み出す魔素が、深階層から浅階層まで満たされるはずがない。
つまり、迷宮核へと続く通路は、最初から開かれている。
ただ、隠されているだけではないのか。
“再生”と“復活”のギフトを持つ世界葉呪を倒すには、ふた通りの方法しかないとロウは考えていた。
ひとつは、ユイカに助言したように、根気よく世界葉呪を倒し続けて、魔力を枯渇させること。
そしてもうひとつの方法は、世界葉呪の魔核を消滅させることだった。
迷宮主に、魔核はない。
それは確かな事実である。
では、迷宮主の意思は、どこにあるのだろうか。
世界葉呪は、ユイカに操られた魔物たちを“我が子”と表現した。魔鍛冶士の髑髏仮面は、迷宮主のことを主と表現した。
迷宮主と魔物は、親子のような関係なのだろう。
そしてここにもうひとつ、親子のような関係が存在する。
迷宮核と、魔核だ。
ひょっとすると、迷宮主の意思を司る魔核は、迷宮核そのものなのではないか。
あくまでも仮説ではあるが、この際、可能性があるのならば賭けてみるべきだとロウは思った。
問題は、手段である。
この広間の壁は、すべて緑色の蔦で覆われている。ここに入ってきた通路も、同じ色の蔦で覆われてしまった。
もし、迷宮核へと繋がる通路が隠されているのだとしても、そう簡単に見つけることはできない。
手当たり次第に壁に巨大剣を突き刺してみるか。
いや、そんな動きを世界葉呪が見逃すはずがない。
今は戦闘行為を行っていないため、無視されているが、不審な動きを見せれば、すぐに青色の蔦に絡め取られてしまうだろう。
目視だけで、その通路を見つけることは可能だろうか。
そのとき、赤色の蔦から発射された種の砲弾が、ロウのそばを風切り音とともに通り過ぎた。砲弾は一直線に壁にぶつかり、大穴を明けた。
これは使えるのではないかと、ロウは思った。
迷宮核へと通じる入口を、世界葉呪は撃つことはできないだろう。
砲弾は全方位に向かって発射されて、壁に大穴を開けている。
その中で、狙われていない場所はないだろうか。
戦闘も最終盤になって、ロウはようやくその位置を特定することができた。
――あった。
疲労のあまり倒れ込んでいる、ユイカの真後ろ。
世界葉呪の釣鐘型の莢が、ユイカの頭部に向けられている。
「撃てない」
ロウの予想は的中した。
世界葉呪はどこか躊躇うように赤色の蔦を引いて、代わりに青色の蔦で、ユイカを打ち据えたのである。
ユイカが気を失い、地面に倒れ込むと同時に、ロウは巨大剣を構えて、突進した。
『うん? なんぞえ?』
突然動き出した人間に、世界葉呪は咄嗟に反応することができなかった。自分への攻撃ではなかったからである。
ロウは世界葉呪とユイカの横を通り過ぎ、巨大剣を壁に向かって突きつけた。
『き、貴様――何をっ!』
巨大な刀身は蔦の壁とともに、その奥に隠されていた空洞を切り裂いた。
勢いあまってロウは、通路に転がり込む。
起き上がってみれば、光苔の淡い青石色の明かりに包まれるようにして、漆黒の球体が浮かんでいた。
ロウはその球体を抱きかかえた。
「“収受”」
『ぎえぇええええええっ!』
迷宮核は回転しているようだが、腕に力を入れると動かなくなった。暴れることもない。
そして膨大な経験値が、身体の中に取り込まれていく。
『む、虫けらの分際で、我が、君を――我を――許さぬ!』
通路と広間の境界線の辺りに、世界葉呪の本体が生まれ、すべての蔦を震わせた。
それはまさしく、怒りを具現化したような姿だった。
世界葉呪は赤色の蔦を集め、一斉砲撃を試みたが、ロウが地面に突き刺した巨大剣の刀身によって弾かれた。
世界葉呪の本体は通路に入ることができないようで、赤い蔦もロウまでは届かない。
つまり、巨大剣がある限り、ロウを打ち抜くことはできないのだ。
耳障りな叫び声を上げながら、世界葉呪は青色の蔦を伸ばし、ロウを絡め取ろうとした。
ロウは剣の柄をしっかりと握りながら、顎を引いて、身体を丸めた。
この通路から引きずり出されて、空中に持ち上げられると、そのまま地面に叩きつけられる可能性がある。また、関節をとられることを防ぎ、呼吸の軌道を確保する必要があった。幸いなことに髑髏の仮面のおかげで、口を塞がれることは避けられそうだ。
全身を青色の蔦が締め付けた。
筋肉を膨らませることで、耐える。
――力対力。
そして持久力の勝負であった。
これが気力と時間の戦いであることを、ロウは理解していた。
世界葉呪を挑発するように、大声で叫ぶ。
「どうしました? 早くしないと、溶けてなくなりますよ? ほら、“収受”」
『ぎょええええっ。やめろ! 奪うな! ――許さぬ! 虫けらめ! 下等な塵芥め! 潰す、潰す、潰す、潰す!』
締め付ける力は強くなったが、これはロウの作戦でもあった。
ロウはユイカたちを人質にとられることを、恐れていたのだ。
“宵闇の剣”のメンバーは、全員“広間”で気を失っている。もし世界葉呪が冷静さを取り戻し、宙吊りにしたユイカを目の前に突きつけてきたら……。
敵の注意をすべてこちらに引きつけなくてはならない。
身体中の血液の流れが、滞る。
頭に血が上り、意識が朦朧としてくる。
まるで走馬灯のように過去の記憶が思い起こされる。
ふいに現実に戻されて、力を取り戻す。
いったい、どれくらいの時間が経過しただろうか。
半日か、一刻か、それともまだ一瞬か。
小さな手、小さな足。
目標地点は高く、最短ルートは細く、険しい。
だが、もうすぐだ。
そのはずだ。
この我慢比べが終われば、新しい生活が――
『我は、不滅の、世界葉呪……。虫けら、ごときに……』
ずるりと、蔦の力が弱まった。
『これは、呪い。我の存在すべてをかけた、大いなる呪い』
青色の蔦が引いていき、代わりに、本体から黄色の蔦が出現した。
その数は一本のみで、まるで鼓動しているかのように脈打っている。
先端部分が裂け、まるで歯のような刺が現れた。
『ただでは、死なぬ。ただでは、滅せぬ。我が呪いが、貴様の存在を歪め、歪め、歪め、歪め……』
黄色の蔦がロウの身体に巻き付き、刺が突き刺さる。
その後は、耐える戦いではなくなっていた。
ロウの存在と、迷宮核の存在。
どちらが先に消えうせるかという、結論だけを導く時間の経過でしかなかった。
ロウの身体は徐々に石化し、迷宮核は縮んでいく。
「……」
身体の感覚をなくし、思考能力をなくし、記憶をなくしながら、ロウは石化していく。
「……」
大切な目的すらもなくして、ひたすら石になっていく……。




