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 それは、今から四年ほど前の出来事だった。

 ぴくぴくと動く、小さな手と足。

 あれには驚いた。

 約半月ぶりに迷宮から帰ってくると、新しい家族が増えていたのだ。

 揺りかごの中、産着から覗いている小さな手と足は、ぷっくりとしていて、それでも指にはちゃんと爪がついていた。

 

「へぇ。こんな感じなんだ。名前は?」

「……マリエーテ。女の子よ」

「マリ、エーテ? ……ふ~ん」


 ベッドの上の母親は顔色がわるく、笑顔にも生気がなかった。

 産後の肥立ちがわるく、それからふた月ほどで、母親は亡くなった。

 悲しみを受け止めることができずに、父親は酒に逃げてばかりで、まるで頼りにならなかった。

 自分がしっかりと対応しなければ、この幼い命は失われてしまうだろう。

 それは強迫観念ではなく、義務感でもなく、使命感だったのだと思う。

 迷宮のことをすべて忘れて、ロウはしばらくの間、マリエーテの育児に生活のすべてを捧げることになった。

 自分の性格が屈折していることを、ロウは自覚していた。

 ただ漠然と生きることに、意味などない。

 では、いったい何を基準として、生きていけばいいのか。

 どのような目標を立て、どのような行動をとればいいのか。

 先達の教えはくその役にも立たない。

 そして自身には、知識もなく、経験もない。

 真っ暗な闇の中でもがき苦しみながらも、ロウはとりあえずの目標地点を定め、最短ルートを定めた。

 寄り道などしない。そんなものに意味はない。

 だから、自分に対して利益をもたらさない愚鈍な相手には冷淡に接し、切り捨ててきた。

 ひとつの目標を達成しても、決して満足できなかった。

 あらたなる目標を定め、同じ行為を繰り返していく。

 目標地点はどんどん高くなり、そのための最短ルートはさらに細く、険しくなっていく。

 何を、そんなに難しく考えていたのだろう。

 家の庭先、ちょうどよい木陰があるところ。安楽椅子に座り、幼いマリエーテを抱きかかえながら、ロウは苦笑したものだ。

 家族を守り、共に生きる。

 こんなにも明確かつ人生を賭けるに足り得る目標が、すぐそばにあるではないか。

 あまりにも平凡すぎる答えを、これまで自分は受け入れることができなかった。

 自分だけの特別な到達点がどこかにあるはずだと、遥か遠くに霞む頂ばかりを見上げていた。足元をおろそかにして、気がつけば、何ひとつこの手につかんではいなかった。

 今は、小さな妹がいる。


「それは、そうだよなぁ」


 たとえ自分だけの到達点を見出したとしても、勝てるわけがない。

 自分よりも大切な存在が、ここにあるのだから。


「……う~ん」


 どこからどう見ても、可愛らしすぎる。

 強く、賢く、そしてしたたかに育って欲しい。


 そのためには――


 どうにかしてマリンを学校に行かせられないかと考えたのは、このときだった。

 しばらく検討してみると、なかなかに険しき道であることが分かった。

 新たなる住居と、新たなる生活。

 莫大な金が必要となるだろう。

 時間の制限もある。

 それに、マリエーテの育児もおろそかにすることはできない。

 冒険者では無理だ。

 危険リスクが大きすぎる。

 ではどうするか。

 たとえば、シェルパなどはどうだろうか。

 冒険者をうまく利用しながら、冒険者以上の金を稼ぐことはできないだろうか。

 相変わらず、目標地点は高く、最短ルートは細く、険しい。

 しかし、決してくじけることはないだろう。

 これは――ただ幸せを求めるものではなく、幸せを積み重ねるための目標なのだから。

 胸に抱いていた妹の寝顔が、ぼやける。

 記憶が曖昧になり、全身の痛みが戻ってくる。

 ロウは、歯を食いしばった。






「……ッ」


 地面に突き刺した巨大剣グレートソードの柄を片手で握り締めながら、ロウは青いつるの圧力に、必死で耐えていた。

 もう片方の手には、黒色の球体がある。

 かなり小さくなっている。

 すでに、小脇に抱えられるほどの大きさ――迷宮核だ。

 通路アイル広間ステージの境界線の辺りには、赤色と青色のつたを揺らしている円柱状の魔物――世界葉呪シャンブラーがいた。

 怒りの感情を爆発させているようで、さきほどからヒステリックな声が響いている。


『おのれ、虫けらの分際で! 至高の御方の御身を――我が、気高き魂を――潰す、潰す、潰す……きえぇえええ!』


 一瞬、気を失いかけたようだ。

 すでにロウの全身には、十本以上の青色のつたが巻き付いていた。

 とてつもない力がかかっており、その圧力に対抗すべく、ロウは全身の筋肉を膨らませ、歯を食いしばって耐えていた。

 ロウがこの通路アイルの存在に当たりをつけたのは、戦闘の終盤である。

 “宵闇の剣”のメンバーが倒れていく様子を、ロウは見ていなかった。閉ざされた広間ステージを取り囲む壁だけを、一心不乱に観察していたのである。

 迷宮主を倒せば、迷宮核へと続く通路アイルが開かれると、ユイカは言った。

 口には出さなかったものの、それは違うのではないかとロウは思っていた。

 迷宮核と地上とは、通路アイル広間ステージ、そして螺旋道スネークにより、空間的に繋がっている。

 でなければ、迷宮核が生み出す魔素が、深階層から浅階層まで満たされるはずがない。

 つまり、迷宮核へと続く通路アイルは、最初から開かれている。

 ただ、隠されているだけではないのか。

 “再生”と“復活”のギフトを持つ世界葉呪シャンブラーを倒すには、ふた通りの方法しかないとロウは考えていた。

 ひとつは、ユイカに助言したように、根気よく世界葉呪シャンブラーを倒し続けて、魔力を枯渇させること。

 そしてもうひとつの方法は、世界葉呪シャンブラーの魔核を消滅させることだった。

 迷宮主に、魔核はない。

 それは確かな事実である。

 では、迷宮主の意思は、どこにあるのだろうか。

 世界葉呪シャンブラーは、ユイカに操られた魔物たちを“我が子”と表現した。魔鍛冶士ダークスミス髑髏どくろ仮面は、迷宮主のことをマザーと表現した。

 迷宮主と魔物は、親子のような関係なのだろう。

 そしてここにもうひとつ、親子のような関係が存在する。

 迷宮核と、魔核だ。

 ひょっとすると、迷宮主の意思を司る魔核は、迷宮核そのものなのではないか。

 あくまでも仮説ではあるが、この際、可能性があるのならば賭けてみるべきだとロウは思った。

 問題は、手段である。

 この広間ステージの壁は、すべて緑色のつたで覆われている。ここに入ってきた通路アイルも、同じ色のつたで覆われてしまった。

 もし、迷宮核へと繋がる通路アイルが隠されているのだとしても、そう簡単に見つけることはできない。

 手当たり次第に壁に巨大剣グレートソードを突き刺してみるか。

 いや、そんな動きを世界葉呪シャンブラーが見逃すはずがない。

 今は戦闘行為を行っていないため、無視されているが、不審な動きを見せれば、すぐに青色の蔦に絡め取られてしまうだろう。

 目視だけで、その通路アイルを見つけることは可能だろうか。

 そのとき、赤色の蔦から発射された種の砲弾が、ロウのそばを風切り音とともに通り過ぎた。砲弾は一直線に壁にぶつかり、大穴を明けた。

 これは使えるのではないかと、ロウは思った。

 迷宮核へと通じる入口を、世界葉呪シャンブラーは撃つことはできないだろう。

 砲弾は全方位に向かって発射されて、壁に大穴を開けている。

 その中で、狙われていない場所はないだろうか。

 戦闘も最終盤になって、ロウはようやくその位置を特定することができた。

 

 ――あった。

 

 疲労のあまり倒れ込んでいる、ユイカの真後ろ。

 世界葉呪シャンブラーの釣鐘型のさやが、ユイカの頭部に向けられている。


「撃てない」


 ロウの予想は的中した。

 世界葉呪シャンブラーはどこか躊躇ためらうように赤色の蔦を引いて、代わりに青色の蔦で、ユイカを打ち据えたのである。

 ユイカが気を失い、地面に倒れ込むと同時に、ロウは巨大剣グレートソードを構えて、突進した。


『うん? なんぞえ?』


 突然動き出した人間に、世界葉呪シャンブラーは咄嗟に反応することができなかった。自分への攻撃ではなかったからである。

 ロウは世界葉呪シャンブラーとユイカの横を通り過ぎ、巨大剣グレートソードを壁に向かって突きつけた。


『き、貴様――何をっ!』


 巨大な刀身は蔦の壁とともに、その奥に隠されていた空洞を切り裂いた。

 勢いあまってロウは、通路アイルに転がり込む。

 起き上がってみれば、光苔ひかりごけの淡い青石色サファイアブルーの明かりに包まれるようにして、漆黒の球体が浮かんでいた。

 ロウはその球体を抱きかかえた。


「“収受しゅうじゅ”」

『ぎえぇええええええっ!』


 迷宮核は回転しているようだが、腕に力を入れると動かなくなった。暴れることもない。

 そして膨大な経験値が、身体の中に取り込まれていく。


『む、虫けらの分際で、我が、君を――我を――許さぬ!』

 

 通路アイル広間ステージの境界線の辺りに、世界葉呪シャンブラーの本体が生まれ、すべての蔦を震わせた。

 それはまさしく、怒りを具現化したような姿だった。

 世界葉呪シャンブラーは赤色の蔦を集め、一斉砲撃を試みたが、ロウが地面に突き刺した巨大剣グレートソードの刀身によって弾かれた。

 世界葉呪シャンブラーの本体は通路アイルに入ることができないようで、赤い蔦もロウまでは届かない。

 つまり、巨大剣グレートソードがある限り、ロウを打ち抜くことはできないのだ。

 耳障りな叫び声を上げながら、世界葉呪シャンブラーは青色の蔦を伸ばし、ロウを絡め取ろうとした。

 ロウは剣の柄をしっかりと握りながら、顎を引いて、身体を丸めた。

 この通路アイルから引きずり出されて、空中に持ち上げられると、そのまま地面に叩きつけられる可能性がある。また、関節をとられることを防ぎ、呼吸の軌道を確保する必要があった。幸いなことに髑髏どくろの仮面のおかげで、口を塞がれることは避けられそうだ。

 全身を青色の蔦が締め付けた。

 筋肉を膨らませることで、耐える。


 ――力対力。


 そして持久力の勝負であった。

 これが気力と時間の戦いであることを、ロウは理解していた。

 世界葉呪シャンブラーを挑発するように、大声で叫ぶ。


「どうしました? 早くしないと、溶けてなくなりますよ? ほら、“収受しゅうじゅ”」

『ぎょええええっ。やめろ! 奪うな! ――許さぬ! 虫けらめ! 下等な塵芥ちりあくため! 潰す、潰す、潰す、潰す!』


 締め付ける力は強くなったが、これはロウの作戦でもあった。

 ロウはユイカたちを人質にとられることを、恐れていたのだ。

 “宵闇の剣”のメンバーは、全員“広間ステージ”で気を失っている。もし世界葉呪シャンブラーが冷静さを取り戻し、宙吊りにしたユイカを目の前に突きつけてきたら……。

 敵の注意をすべてこちらに引きつけなくてはならない。

 身体中の血液の流れが、とどこおる。

 頭に血が上り、意識が朦朧としてくる。

 まるで走馬灯のように過去の記憶が思い起こされる。

 ふいに現実に戻されて、力を取り戻す。

 いったい、どれくらいの時間が経過しただろうか。

 半日か、一刻か、それともまだ一瞬か。

 小さな手、小さな足。

 目標地点は高く、最短ルートは細く、険しい。

 だが、もうすぐだ。

 そのはずだ。

 この我慢比べが終われば、新しい生活が――

 

『我は、不滅の、世界葉呪シャンブラー……。虫けら、ごときに……』


 ずるりと、蔦の力が弱まった。


『これは、呪い。我の存在すべてをかけた、大いなる呪い』


 青色の蔦が引いていき、代わりに、本体から黄色の蔦が出現した。

 その数は一本のみで、まるで鼓動しているかのように脈打っている。

 先端部分が裂け、まるで歯のようなとげが現れた。


『ただでは、死なぬ。ただでは、滅せぬ。我が呪いが、貴様の存在を歪め、歪め、歪め、歪め……』


 黄色の蔦がロウの身体に巻き付き、刺が突き刺さる。

 その後は、耐える戦いではなくなっていた。

 ロウの存在と、迷宮核の存在。

 どちらが先に消えうせるかという、結論だけを導く時間の経過でしかなかった。

 ロウの身体は徐々に石化し、迷宮核は縮んでいく。


「……」


 身体の感覚をなくし、思考能力をなくし、記憶をなくしながら、ロウは石化していく。


「……」


 大切な目的すらもなくして、ひたすら石になっていく……。


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[良い点] 小説家になろうのサイトのアプデのおかげでお気に入りのエピソードを保存追加できるようになったと聞いて、真っ先にダンジョンシェルパのこの話を登録しに来ました。 初めて読んだのはもう10年近く前…
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