(5)
理性によって無理やり構築した飴細工のような希望。その遥か下層に沈殿する冷たい意識の中で、ユイカもまた、ふたりの生存は絶望的であると結論付けていた。
だが、その認識を浮上させることはせず、先のことを考えても意味はないと自分に言い聞かせ、人形のように足を動かし続けている。
底知れぬ魔力を誇る死霊魔王のおかげで、地下五十階層の迷宮探索は順調に進んでいた。
しかし、これほど虚無感に満ちた迷宮探索は、初めてだった。
――ベリィ。
最近、彼女とは言い争いが増えて、互いによい感情を持ち得てはいなかったかもしれない。しかし、この町に来る前は、まるで親離れできない子供のように、どこに行くにも必ず引っ付いてきた。
自分と同じ年ごろの、そして対等の仲間。二度と得られないかもしれない。だから、絶対に失いたくはない。
しかしそれでも、自分に課した使命が揺らぐことはないだろう。
過去、パーティメンバーを失った経験はある。
ベリィとマジカンが加入し、“宵闇の剣”が結成されてからしばらくは、次のメンバーが固定せず、加入と離脱、そして喪失が発生した。ヌークが加入するまでに、ひとりの冒険者が迷宮内で命を落としている。ユイカの命令を無視し、自身の力量を示そうと無茶な戦い方をしたことが原因だった。
経験は、喪失感を軽減する。
だから今回も、耐えられるはずだ。
――ダーリン。
生まれて初めての恋人、ロウ。
こちらに関しては、話にもならない。
出会ってまだ半月。恋人同士になって、十日。
互いの存在感や、愛なるものを育む時間はなかったはずだ。
確かに、迷宮攻略以外では初めて――夢中になれたかもしれないが、ロウへの想いはそれほど膨らんではおらず、心の中を占領されてはいないだろう。
だから、何も問題はない。
タエも言っていた。
恋愛は縁。うまくいくかどうかは、運命の気まぐれ。
だとすれば、縁がなかったということ。
ただ、それだけのことだ。
三頭獣を倒してから、しばらく通路を突き進み、やがて広間に出たが、そこに魔物の姿はなかった。
迷宮改変後には魔物たちが分断される傾向にあるようで、まとまった数の群れは少ないが、二、三匹単位のグループが数多く出現する。これまでの道のりでも、広間には必ずといってよいほど少数の魔物が陣取っていた。
だから、やや拍子抜けをした。
広間から先に続いている通路の数は、三本。
ヌークはそれぞれの通路の入口で片膝をつき、精神を集中させていたが、三本目の通路でやや首を傾げるような素振りを見せた。
「どうした?」
「黒姫さま。この先に、魔物が詰まっているようです」
「……詰まる?」
多数の魔物たちが、通路にたむろしているという。
魔物の習性としては、通路を徘徊はするが、その途中で立ち止まることはないはず。そして、よほどのことがない限り、魔物同士が争うことはない。
直感的に浮かんだイメージは、命を失った冒険者に魔物たちが群がる図。
「おい、黒姫よ。行くぞ!」
同じものを想像したのか、“浮遊”のパッシブギフトを解除したマジカンが駆け出し、ユイカが続く。
どくんと、心臓が重苦しい音を立てた。
見たくない。
現実を、現実にしたくない。
それでも、足は止まらない。
通路を進むと、やがて魔物たちの影が見えた。
マジカンが足を止め、ユイカが追い抜く。
金属がぶつかるような、鈍い音が伝わってきた。
まさか――
声に出すことはできなかった。
胸の中に込み上げるものを押し殺しながら、ユイカは全力で走った。
「下じゃ!」
後方からの声――“宵闇の剣”の連携パターンのひとつ。
腰を落としたユイカの頭上を、光の刃が走る。
光属性の中級魔法、“光刃”。
鱗のような皮膚で覆われた蜥蜴のような三体の魔物が、胴体を切断され、倒れ込んだ。その先にはまだ魔物がいる。五体――いや、六体。
通路の奥にいる一角鬼と呼ばれる魔物が、小さな瘤のついた金属製のこん棒を、片手で振り回していた。
岩壁の窪みのような部分から覗く巨大な剣と人間の腕が、その攻撃を受け止める。
「あ――」
不意に、視界がぼやけた。
それが自分の涙によるものだと、ユイカは気づかなかった。
「左じゃ!」
こちらの存在に気づき、身構える魔物たち。
ユイカは斜め左に跳躍する。
「“連続魔”」
今度は縦の“光刃”が放たれた。
クラゲを巨大化したような触手の化け物が、真っ二つに引き裂かれる。
残るは、五体。
「“跳兎”!」
ひと呼吸分、全身の瞬発力が二倍に跳ね上がる。
ユイカは加速し、通路の壁を斜めに駆け上がり、三体の警備兵を飛び越した。
着地した正面には、二枚の翼のような大きな耳で羽ばたく巨人の頭部。異形の化け物である。口が放射状に裂け、まるで槍のように先の尖った舌が飛び出した。
勢いを殺さず、転がるようにして、ユイカは魔物の下を潜り抜けた。
その先に、針金のような体毛に覆われた一角鬼の背中が見えた。
凶悪な破壊力を秘めた鉄製のこん棒を、今にも振り下ろさんとしている。
攻撃することに夢中なようで、これだけ大騒ぎになっているのに、振り返りもしない。
何という間抜けな魔物。
「“跳兎”!」
痙攣する足を無視して、再び跳躍。ありったけの殺気を込め、一角鬼の後頭部に刺突剣を突き刺した。
「“幻操針”――」
ほぼ無呼吸での、限界を超えた運動。
一瞬意識が飛びかけたが、歯をくいしばって耐えた。
着地し、俯きながら命名する。
「お前は……“ヌケサク”だ。後ろにいる、魔物たちと戦え」
たとえ生き残ったとしても、この魔物は自分の手で切り刻んで処分するだろう。
後方には複数の魔物がいたが、岩が砕けるような爆発が起こり、警備兵たちが吹き飛ばされるのを確認した。
この一戦で、マジカンはすべての魔力を使い果たすつもりのようだ。
ようやく顔を上げることができたユイカは、巨大な幅広剣を構えた男を、確認した。
「ダ――」
近寄ろうとすると、男の身体が震え、剣先をこちらに向けた。
反射的に防御しようとしたのだと、ユイカには分かった。
男の目は虚ろで、なかば意識を失っているようだった。
刀身に刻まれた傷跡を見て、ぞっとした。いたるところの刃が欠け、のこぎり状になっている。根元の部分にはひびが入り、鍔は折れ曲がり、まるで何年も使い込んだかのような有様だった。
この男は、いったいどれだけの攻撃を、どれほどの時間、受け続けていたのか。
皮製の長外套は焼け焦げ、無残にも切り刻まれていた。ところどころに金属片が見えているが、それらも剥がれ落ち、素肌とともにむごたらしい傷跡を曝け出している。
特に両腕の傷がひどい。おそらくこの傷が原因で、地面まで赤黒く染まっている。
顔の半分にも血がこびりつき、髪の一部が凍りついている。
魔法攻撃を受けたのだろう。
炎に電撃、そして氷――
無事なところを探すほうが、難しい。
それでも男は、防御の構えを崩さず、立っている。
「ダ……リン……」
胸に込み上げてくる熱い塊が、そのまま熱い涙となって、流れ落ちた。
――嘘だ。
出会ってからの時間など、関係ない。
たった十日でも、その重さは比類なきもの。
心の中など、とっくに占領され尽くしている。
涙を隠すこともせず、子供のように口元を歪ませながら、ユイカはゆっくりと歩を進めた。
ぼろぼろになった幅広剣とともに、ぼろぼろになった恋人の身体を、優しく抱きしめる。
「ダーリン、私だ」
耳元で囁くように声をかけると、ロウの身体から力が抜け落ち、戸惑ったような気配が伝わってきた。
そのとき――
「……風、凪……」
ロウの後方にある不自然な形をした洞穴。その奥の暗がりから、弱々しい声が聞こえてきた。
子供の落書きのような魔方陣が浮かび上がり、溶けるように消え失せる。
崩陣したようだ。
「奥に……」
意識を取り戻したらしいロウが、ひび割れたような声で報告する。
「ベリィが……います。両腕と左足を、骨折しています。内臓が、傷ついているかもしれません。早く――治療を」
そしてロウは、完全に意識を失った。




