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第二十九話 「SNS」




 起床したての俺の喉を、鈍い刺激が襲っていた。冷房を効かせすぎた状態で寝たからか、それともタバコのせいだろうか。設定温度は高めに抑えていたし、喫煙は一日五本と決めている。それでもこの体調不良。いよいよ疲労の蓄積を疑わねばなるまい。


 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、冷たい水で喉を潤す。汗をかいた体にそれは沁みわたったが、同時に意識が覚醒し、俺は昨日の自分が散々な目に遭ったことを思い出す。柳田たちによる拉致。命懸けの逃走。ホテルを移動し、分不相応なスイートに宿を得た。

 その後俺は、衣弦の慈しむような慰撫に包まれ、幼子のように眠った。おかげで体は回復し、絢花の見舞いに行くことができた。なのに疲労は消えていない。緊張感をオフにしないことが、逆に災いしているのかもしれない。


 体の重さを振り払うよう深呼吸をしながら、俺は昨日不発に終わった黒川姫乃の捜査について頭をめぐらし始めていた。事務所での乱闘を目撃されている以上、警戒されている怖れは十分にあった。だとすればアプローチは止めるべきか? そうは思えない。有希は俺に情報を託し、黒川の捜査を促してきた。やつと俺の目的が一つである限りは、そこは突破口になる。聖辺に辿り着く細いロープとなる。


 リビングに顔を出すと、衣弦の姿は見えなかった。シャワーの音も聞こえない。ならばと思って洗面所へ向かうと、トイレの内に灯りがついていた。内臓系統に不調をきたしてないといいが。


 リビングに戻ると、衣弦のタブレットPCが無造作に置かれていた。ホームボタンを押してみると、それはスリープ状態になっているだけだった。画面にはファイルが立ち上がっており、出張中の捜索について詳細な文章が綴られていた。元はと言えば俺が復帰したてなのを慮って、彼女が買って出た仕事。どうやら作業途中だったようだ。


 タブレットから手を離すとき、ほんの弾みで腕が俺の鞄にあたった。テーブルから落下する鞄。次の瞬間には、中身を床にぶちまけてしまった。俺らしくないミスだ。悪いことづくめな自分に気が滅入り、床にしゃがんだ。乱雑に散らばったファイルをまとめ直し、暇つぶし用に買った本を拾い上げるが、俺はその下に小さな違和感を発見した。


 見たこともない携帯端末。俺が使用するアイフォンではない。ソニーエクスペリア。何気なくスワイプすると、パスワードを要求された。アイフォンで使っている数字列を入力し、反応を待つが、あろうことかエラーが出た。

 俺の端末ではない。それどこか、俺はエクスペリアを買った覚えがない。偶然紛れ込んだのか? 違和感は膨らむ一方だったが、入力画面にコメントが出て人工知能エヴァがメッセージを読み上げてきた。

「長門有希さん。パスワードをお忘れですか? 次の項目からヒントを入力してください」

 長門有希。つまり有希の所持品ということか? でも一体いつ俺のもとへ?

 ちなみにヒント機能はアイフォンにはないものだが、最近はスマホのパスワードが長くなっており、エヴァと連動する形でエクスペリアは新機能を実装したのだろう。ヒントさえ入力できれば、端末の中身が見られる。中身が見られれば、所有者がわかる。場合によっては所有者の行動履歴さえも。


 そう思って俺は画面に目を落とした。しかし次に現れたメッセージは、こちらの意志を無自覚に挫くものだった。

 ――ヒントなんてない。思い出すんだ。

 艶のある声で、エヴァが同じ文章を読み上げる。俺を捉えた違和感は困惑へと変わり、それは今にも破裂しそうになっていた。思い出せ。そのメッセージが意味のあるものなら、俺はそのパスワードを知っていて、何かをきっかけに忘れていることになる。

 けれどくり返しになるが、俺にエクスペリアを所有した覚えはない。そしてエヴァは、所有者の名を「長門有希」と呼んだ。そんな端末をどうして俺が持っているのだろう。


 元どおりに復元した鞄をテーブルに戻し、酷い立ちくらみを覚えた。端末を取り落とし、椅子に両手をついてしまう。意識が遠くなっていく。目を閉じれば、真っ暗な闇だ。その彼方に細かい粒子のような光が見えた。光は徐々に大きくなり、白いベールへと姿を変え、俺の意識を隙間なく覆い尽くしてしまった。


    ***


 次に覚醒を果たしたとき、俺はリビングの椅子に座っていた。記憶が少しばかり飛んでいた。時計を見る限り、経過した時間はごくわずかだった。立ちくらみで意識を失うとは。どれだけ疲れているのかと項垂れそうになったが、よく見ると俺はエクスペリアを握り締めている。しかもパスワードは解除され、ホーム画面に変わっていた。

 俺はいつ、正規の数字列を入力したのだろう? 記憶をなくしているあいだとしか思えなかったが、解除した経緯にこだわるよりも、端末の所有者を探るほうが重要に思えた。「長門有希」が俺の兄貴かどうか。もっともこのとき、その確率はかなり高いという見方に傾いていた。


 個人情報の山は所有者が使ったはずのメールとSNSである。けれどそれらは、とりあえず調べるには膨大すぎた。画像情報をあたったほうがいい。このあたりの判断は「会社」の捜索員として何年も積み上げたもので、実行する際に迷いはなかった。ホーム画面下部にある画像管理アプリのアイコンを押し、リスト化したファイルを立ち上げる。


 その多くはパッと見た感じ、取るに足らないものたちに思えた。地名を示すものがない街の風景。東京に近いが、特区指定され、大規模な再開発がおこなわれた街は少なくないから、特徴がないと場所を絞り込めない。

 閲覧していく写真の多くは無機質だが、明確なモチーフがあった。街という雑然とした無機物のつらなりを、断片として一枚ずつ丁寧に切り取ったように映る。そこには妙な味わいがあったが、ふと我に返ると自分の求めるものではないことに気づく。リストを俯瞰する必要があった。特に欲しいのは人物写真だ。


 大量の画像をスワイプすると、やがてそれらしいものが目に留まった。アルバムモードに切り替える。大きなサイズで写し出されたのは若い女の子の写真だった。なぜ若いと思えたかと言うと、女の子の顔つきに一〇代特有の無垢さが垣間見れたからだ。


 けれど注目すべき点は、少女たちの年齢のみならず、アルバムに登場する人数だった。一人や二人ではきかない。最低でも五人はいた。別々の娘たちが、日付をまたいでくり返し現れてくる。一人の相手と何度も逢っていた証拠だ。所有者を仮に有希だとすれば、やつは彼女たちと交流し、何をやっていたのだろう?


 詮索は野暮に思えた。若い男女が出会い、やることは一つしかない。おまけに少女たちはみな揃って特徴的な表情をしている。それは写真の撮影者に向ける他人には見せない顔。たとえるなら恋人のごとき親密な感情を表していた。俺の直感が正しかったことは、少女たちの無防備な写真によっても裏づけられた。


 無防備というより、彼女たちは端的に言えば全裸だった。淫猥な行為を連想させる写真が何枚も視界をよぎる。抜群に女にモテるロリコン男が、攻略の勲章として撮りまくった写真に思え、俺はうんざりしかけたが、次に現れたファイルに目を奪われた。


 それは承前のファイルと同じく、ホテルの一室で撮られたものだったため、一見すると違いに気づけなかった。しかし少女の顔のアップが俺の心臓を鷲掴みにした。たくさんの笑顔たちに比べ、その娘には生気がなかったし、それどころか怯えた瞳を明後日の方向にむけている。同じような写真が何枚もある。震える指でファイルを送ると、少女はようやく瞼を閉じていた。自然に眠るようなしぐさとは違い、口許には硬直が残っていた。


 ファイルを送る俺の手は止まらなくなった。次の少女も、最初はお嬢様然とした微笑を浮かべていたのに、数枚経た後、全裸の人形となっていた。苦痛に歪んだ顔のアップは、先ほどの少女より凄惨だった。間違いない。最後の二つは殺害後の死体を写している。絶命した様子をわざとアップにして。


 エクスペリアの所有者は、こんなものを見せるために俺の鞄へ端末を忍ばせたのか。そして所有者は本当に有希で、やつは殺人犯なのか。疲労で重い体が、体の末端から戦慄を送ってきた。まるで冷凍庫に裸で放り込まれたかのようだ。わきあがる吐き気に、戦慄はその度合いを増していく。少女の死に方がむごたらしいというだけでは、このパニックは説明できない。


 俺はどういうわけか、二人の殺害写真に既視感を持っていたのだ。そして信じがたいことに二人の名前を思い出せる。松井知穂に黒川姫乃。後者は一度目視しており、顔と名前が一致してもおかしくはない。だが前者は、誰が何と言おうと初対面だ。見たことも会ったこともない。なのに既視感は名前と結びついた。どうして?


 俺はエクスペリアを額に押し当て得体の知れない感情と戦っていた。一方で冷静な自分は思う。「長門有希」は兄貴であり、殺害と撮影をおこなったのもやつだ。既視感があるのは思い過ごしにすぎない。


 他方で混乱した俺は思った。この既視感には理由があるはずだし、他人に転嫁するのは間違っている。少女たちの名前と顔を知っていた自分は、鞄の中に端末を隠していたし、そのうえ意識が切れているあいだ、正確なパスワードを入力できたではないか。俺こそが殺人犯だと理解することで、全ての辻褄は合う。


 結論はあまりにも荒唐無稽だが、理にかなっているのは混乱した思考のほうだった。俺が端末の所有者で、端末に登録された「長門有希」本人である。だけど本当に俺が有希だったのか? もしそうなら俺は有希といつから入れ替わっていた? 俺は一体何者だ?


 自我を支える柱が揺れ、今にも根元から折れそうになった。それでも意識は、瀬戸際で俺自身を俯瞰する。不思議だ。どうして俺は正気を保てている?


 切迫した自問自答をよそに、指先はべつの生き物のようにSNSアプリを調べだした。それ以上、つらい現実を掘り下げるな。もう一人の俺が警告をするが、体は止まらない。最新のログが立ち上がる。会話相手は他でもない「ayaka_0317」となっていた。それが絢花なのは火を見るよりも明らかだった。そして会話の主は「kyohsuke_1214」。


 有希が俺を騙ったのか、有希である俺が恭介の名を騙ったのか。錯乱に泳いだ視線は早送りで会話を飛ばし、最後の部分に行き着くが、そこには絢花の長い発言が残っていた。


 ――兄さんにお伝えしておきます。わたしの傷はもう癒えませんが、これまであなたをずっと避けてきたこと、後悔はありません。わたしは永遠にあなたのものにはならない。さようなら。


 俺は絢花と「元の関係」に戻るつもりはなかった。その前提で、長野で度々逢っていた。あくまで兄妹、家族として、妹の成長を見守るために。なのにこのやり取りは、まるで恋人同士の別れ話ではないか。

 そして「永遠に」の部分を強調したことは、絢花がみずから命を絶とうとしていることを示唆する。やはりと言うべきか、タイムスタンプを見る限りだとこの会話は五日前におこなわれたものだった。さながら絢花の残した遺書という体裁。自殺を示唆して、俺を突き放して。


 そのとき、携帯の呼び出し音が鳴った。エクスペリアの画面に変化はない。だとすると、俺の所持する端末のほうだ。アイフォンをたぐり寄せると発信者の名前が見えた。瀬名。俺は今日は黒川の捜査を、警察や大河の手を借りずにやろうと思っていた。自分から拒絶しておいて何を今さら。

 感情は泡立ち、背脂への反感が募り始めたが、一度遠ざけた相手に連絡をよこしたということは何か理由がありそうだ。それもろくでもない理由が。


 揺らいだ自我を守るなら着信に出るべきではなかった。だが状況を俯瞰する俺は、貪欲に情報を求める。通話ボタンに触れると、背脂の喚き声が聞こえてきた。

「大河と連絡がつかないんやけど、何か知っとる?」

 その声を聞いたとき、俺は若干気落ちした。やつが用があるのは俺ではなく、大河のほうだった。探偵。俺ではなく警察を優先せざるをえない大河。


 でもそれはいい。連絡がつかないとはどういうことだ? 荒っぽく返した俺に、背脂は言う。

「何度着信入れても繋がらんし、俺らも心配しとるんやよ。なあ、恭介。おまえの起こした揉め事に巻き込んだがいろ? 正直に言えま」

「そんなわけねえやろ」

 人をつま弾きにし、濡れ衣まで被せようというわけか。俺は不機嫌を全開にさせた。

「大河とおまえらのことに、俺はもう無関係や」

「そんなこと言うな。こっちはもう一件女子高生殺しがあってやつの手を借りたいんや。マスコミも騒ぎだしとるし、何としても捜査を進展させんなあかんがよ」

「やから俺は無関係ちゃ。二度と連絡してくんな」


 唸るように言って通話を叩き切る。背脂の分際で偉そうなのに腹が立つ。とはいえ通話終了画面を見つめながら、冷静な俺は思った。濡れ衣という表現は実は不適当だったのではないかと。


 俺は昨日、柳田に拉致された。もし警察がそれを知れば、こう考えただろう。同じようなやり口によって大河はどこかへ連れ去られた可能性が高いと。いくら腕力にまさる大河でも、致死性の武器をちらつかせれば幼い女児も同然だ。


 そこまで思考が進むと心が一つのことに集中する。大河の安否を確認せねば。俺はやつの携帯ナンバーを呼び出し、通話ボタンを押し込んだ。無機質な呼び出し音を数え、ただひたすら待った。警察の電話は無視しても、俺からの連絡なら出るかもしれない。なぜかそう思えた。昨日の拉致の延長上にあるなら、なおさらそうなると予想できた。

 コールが一〇を数えたとき、俺は唾をのみ込んだ。それを合図に通話口がぶつりと鳴った。

「鷲津恭介やな。よくかけてきたやないけ」

 通話口の声は落ち着き払っていた。そこには俺のことを熟知しているかのような響きがあったけれど、柳田ではないとわかった。


 柳田は方言を話さないし、やつの声色はこんなに子どもっぽくない。重要人物リストを頭で検索すると、最有力なやつが一人だけいた。俺はそいつの名前を吐き捨てる。

「聖辺だな。今どこにいる? 荒木大河に何をした?」

 電話に出た相手と、大河が拉致されたことを前提に断定口調で言った。

「さあね」などとしらばっくれたら怒鳴りつけてやろうかと思っていたが、電話口の男は「僕が誰かわかったんやね」と笑い声を上げ、愉しそうにこう続ける。

「今、荒木の家におる。目的はスイッチや。中々白状せんから荒木を痛めつけとる最中やったんやけど、君から連絡貰えて好都合や。弓長から回収したのちゃ調べ済みやし、この期に及んで逃げることはでっきんよ」


 聖辺による拉致。俺の推測は的を射抜いていたが、目的がスイッチだとは思わなかった。自分に迫る捜査網を怖れ、いちかばちかで反撃に出た。そんなもう一つの推測は、聖辺の余裕ぶりに反している。やつは警察の捜査など問答無用でくぐり抜ける気なのだ。俺たちからスイッチを回収し、それを現金に替え、逃げ延びるつもりなのだろう。


 ただ逃げるだけならスイッチは要らない。現金化するアテを持ち、さらに逃走手段も確保しているとしか考えられない。用意周到な敵に大河が捕われている。その結論を額面どおり受け取れば、俺がとれる行動はきわめて限定されていた。

「要求を無視したらどうなる?」

「そんときは荒木を殺すだけや。ついでにおめえもな」

 聖辺に凡人のごとき躊躇いはない。戯れた声がそう告げている。

「わかった。これから荒木大河の家に向かう。スイッチは富山駅のコインロッカーに隠してある。俺はまだ回収していないから、ロッカーの鍵しか持っていない。そいつを渡しに行くことになるが、問題ないか?」

「ええよ。一時間以内に来られま」


 タイムリミットを提示された後、通話は向こうから切られた。

 まだ時間的余裕はあったが、もたつきが許される局面ではない。大河の命がかかっているのだ。昨日の修羅場がもう一度再現されようとしていた。けれど今日の俺にはアドバンテージがある。現場へ赴くのもこの身一つだし、覚悟だって段違いだ。


 スイートルームを出る前、俺は灯りのついたトイレを二回ノックし、衣弦に外出する旨を伝え、おまえは待機していてくれと言った。行き先や目的は黙っていた。彼女の動きを止めるには、判断材料を増やすのが一番まずい。そしてリスクを負うのは俺だけでいい。


 部屋を出ると扉は自動にロックされ、俺はエレベーターを利用してフロントに降りた。回転ドアの先には、真夏の暑気がわだかまっていた。灼けつくような日差しを避け、俺は日陰を歩く。呼吸を整えながら焦るまいとしても、パーキングへ向けた歩みは自然と駆け足になった。

いよいよクライマックスの開始です。ここからラストまでお付き合いください。

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