隣人が死ねば夫婦喧嘩する?イチャつく?
コロナ禍中に引っ越しを見合わせていた人々が、最近になって急に動き出している。
そして物価の高騰で金利引き上げ、となると住宅ローンの条件が厳しくなり、一刻でも早く売りたい、買いたいと、不動産売買は活況だ。
となるとエリカの仕事は休まる暇もない。
営業部にせっつかれるようにして、足を棒にして物件を廻り査定して、事務所に戻り見積もりを上げる。
カビや水漏れ痕のあった物件は壁や屋根のひびなどの構造リスクについて専門家の精査を待たねばならない。その手配。
そんな諸々の後、1時間、電車に揺られての帰宅。
ユーロスターの線路を使うハイスピード特急に乗ればドアツードア40分で帰って来れるのに、交通費支給ではない自分には手が出ないという苦い思いもある。
家に着くころには身も心もすっかりへとへとだ。
それは昨夜、慣れない客用寝室で秋の夜雨の音を聞きながら、うとうとしただけのせいもある。
エリカはいつもの寝室、夫の隣で寝られなかったのだ。
鍵を持って家を飛び出した後、辺りを散歩して頭を冷やそうとしたけれど、涙がぽろぽろこぼれた。
「一度だけ」と言ったウィルの声。
「一度だけ寝た」だとは限らないのに、エリカはそれを確認するのも怖い。
確かだと思っていた足元が音をたてて崩れていく。
初めて今の家を内見した時、2人同時に、「この家、私たちに住んで欲しがってる!」と思った。思ったはずだった。
だからお互い好きな仕事を頑張って、少しでも早く住宅ローンを払い終わり、マイホームを名実ともにマイホームにするという目標があったのだ。
ウィルがどっしり構えていてくれるから毎日頑張れるのに、自分の留守に浮気をしていたとしたら、エリカにはもう何を支えにしたらいいかわからない。
浮気相手が既に亡くなっているとしても、嫌なものは嫌だ。
エリカが散歩から帰りこっそりと居間に入るとウィルはソファで頭を抱えていた。
居間を通らなければ2階に上がれないという間取りを呪いたくなる。
「エリカ、僕は殺人なんかしない……」
ウィルがそう呟いたけど、エリカにはそんなことはどうでもいい、沈黙のまま2階に上がり、主寝室の向かいの客用寝室に閉じ籠った。
それが昨夜の話、今日エリカは、仕事に疲れた体をおして、力なくハローと言うだけで居間の扉を開けた。
ソファには自分同様疲れた顔をした夫が居た。
「ごめん、夕食の用意してない。また警察が来てね。話し込んで行ったんだ。店屋物でも取ろう。チャイニーズがいいかな、フィッシュアンドチップス? カレーにしようか?」
「お腹空いてないからいい」
エリカは何とか答えた。
「そんなわけないだろう? 昨日だってちゃんと食べてない。お昼ロンドンで食べたかもしれないけど、忙しいんじゃないのか? 何でもいいから口に入れないと……」
エリカにはそれが夫のいつも通りの優しさなのか、2人に入った亀裂を糊塗しようとしての言葉なのか、これから来る破局を覚悟してのものなのか判断がつかなかった。
立ち止まったら涙になった。マスカラだけはウォータープルーフでよかったと思いながら。
「エリカ、エリカが心配することは何もないよ。警察は僕を逮捕しにきたわけじゃない。エリカに対する疑惑ももうほとんど晴れてる。大丈夫だから」
その言葉を聞いてエリカは、ティーンに戻ったかのように大泣きした。ウィルはソファから立ち上がってゆっくり近づきエリカに両腕を回した。
「嫌、ウィルなんか嫌い!」
夫の腕をはねのけ、大きな胸を押し戻す。
「あっち行って」
「どうして?」
ウィルは問答無用に暴れるエリカを抱きしめた。
「ダメなの、離して!」
「イヤだ」
ウィルはぐっと右腕に力を入れてエリカの身体を固定すると、左手をエリカの髪の中に入れて、顔をぐっと自分の胸に圧しつけた。
「離して、お化粧が付くでしょ!」
「黙れ」
Shut upという命令形の英語がこんなにも甘く聞こえるとは、エリカは知らなかった。
夫の声は低くまろやかで、極上のブランデーのようにエリカの身体の芯を温めながら流れ落ちる。
「僕らが分かり合えないときは何か誤解が発生してるせいだ。君と知り合って14年、それが宇宙の法則」
エリカは夫の胸にでろりと体重を預けた。好きな匂い、好きな身体、好きな温もりに疲労困憊の頭を包まれてしまっているのだ、休戦もやむなしだろう。
「昨日、どうしてうちを飛び出した? 僕の何がイヤだった? 僕は僕が毒殺する方法を知っているせいだと思ったが、どうも違うらしい」
エリカはウィルもやっぱり鈍感な男なんだと思い直した。そんなとんちんかんなことで、妻は寝室を別にしたりはしない、しないはず。
「ど、どうして……、シホさんの持病を知ってるの? 一度だけ……、何?」
ウィルの腕が緩んだ。エリカが見上げると、それがなぜご機嫌斜めと関係あるのかという顔をしている。全くわかってない。
頭を掻いて顎を掻いて、エリカの肩に両腕を預けると話し出した。
「一度、お邪魔したことがあるんだ。年代物のテレビを廃品回収に出すのに、手を貸してほしいって」
「廃品回収?」
「うん。玄関先じゃなくて歩道まで出さなきゃ、だろう? 駐車スペース長くてめっちゃ重いしどうなるかと思った」
「それで?」
お礼に彼女の寝室に入ったとか、とエリカの想像はまだ止まらない。
「日本茶をごちそうになった。で、応接のテーブルの上に薬がたくさん載ってて何気なく見てしまって」
「薬を見て病気がわかったの?」
「いや、外したんだ。こんなきついの服用してるんですかって聞いてしまって。だから正解を教えてくれた。睡眠薬だと思ってた薬だったんだ。ご主人が亡くなった直後は他の睡眠導入剤を処方してもらってたけど、もう大丈夫、こっちは持病の薬って。シホさんは、ストレスの溜まってるときにチラチラする光を浴びると、全身痙攣して泡吹いて倒れるって」
エリカは身体の力がドッと抜けて、床にうずくまった。それをウィルがひょいっと抱き上げて、ソファの定位置に座らせてくれる。
隣に座ったウィルにぴとっともたれかかりエリカは聞いた。
「シホさんのこと、好きだった?」
「好き? 好きか嫌いかわかるほど彼女を知らないよ。でも、誰かが殺したとしたら許せないとは感じるけど」
「そう」
「それで? エリカは僕のこと嫌いなの? さっきそう言ったよね」
ウィルはエリカのまとめ髪を解いて、波打つブロンドをひと房手にしていじった。
「シホさんのことばっかり考えてるあなたは嫌い……」
「誰がシホさんのこと考えてるって? 僕はエリカのことしか考えてない。警察がエリカを疑って見せたからちょっと調べたり考えたりした。それに僕は殺人を疑う理由がある。シホさんが死んだ後に誰かがシホさんの庭に居た。シホさんに見える格好で。見間違いじゃない」
「それもヘン。バスルームからシホさんの庭見たかったら湯船に足突っ込まないと見えない。あなたウソ吐いた」
「うわ、エリカそんなこともちゃんと気付いてるんだ」
「バカにしてるの?」
「してない。尊敬してる、さすが僕のエリカ」
「どうしてウソ吐いたの?」
「僕が2階に居た理由を知られたくないから」
「私にも内緒なの?」
「恥ずかしい」
「言って。このせいで私、あなたの浮気を疑い出したんだから」
「うわきぃーーーー? 未亡人と? バカな、エリカにまで疑われるなんて」
ウィルはソファの上でもぞもぞと姿勢を正した。
「僕は銀行家で、オンライン顧客サービスをしている。うちの銀行に口座持ってる個人客に定期預金を薦めたり、クレジットカードを選んであげたり、とかね」
「ええ。コロナ禍以来、盛況よね。ビデオ通話が多いんでしょ?」
「そう、お客さんが何をためらってるかとか、嫌がられてるかとか判って、話しやすい。支店に来てもらわなくてもできることがこんなにあるって驚き」
「それで?」
「お客さんが喜んでくれた時とか、逆に怒鳴られた時とか、エリカに話したくなる」
「それはわかるけど?」
エリカだって不動産の評価に悩むたびに、心の中で、「ウィル、どう思う?」と話しかけるのが常だ。
「で、クセになっちゃって」
「何が?」
「セッションが済むたびに2階に上がって……」
「上がって?」
「報告してる」
「誰に?」
「エリカの匂いがたっぷりする……」
「な・に・に?!」
「枕……」
「バカ!」
「自宅で働くって大変なんだよ、理性保つの」
「ヘンタイ!」
「夕食遅くていいなら2階に行こう? 警察の話もしたいし、昨夜の分のエリカの匂いを付けないと薄まって淋しい」
「大変態!」
悪態を吐きながらもエリカは、満更じゃないとにまにまして階段を上がった。




