罪と罰
ぞくりと寒気を覚えて振り向いたギデオンが見たのは、海に現れた巨大な水の竜と、それに対峙する小さな少女だった。
遥か眼下の海岸で起こっているのは、なんとも不思議な光景。
身体のサイズを見ていると、明らかに優勢に見えるのは竜の方――というよりも、勝負にすらなっていないように見える。
少女はいますぐにでも、竜に叩き潰されて終わりだろう。
しかし圧倒的なプレッシャーを与えてくるのは、なぜか少女の背中だった……。
彼女の身体には、例の赤い模様が浮かび上がっている。
リルパがあの模様を浮かび上がらせたとき、ギデオンは自分の心に大きな絶望感が生まれることをすでに知っていた。
身体から戦意を奪われ、ただ震えることしかできなくなるのだ。
距離があるせいか、いまはまだマシだったが、それでも心を削ってくるようなこの感覚にはいまだ慣れるということがない。
巨大な竜は激しく暴れ、対峙する少女を排除しようとしていた。しかし、ただの一歩も彼女を退かせることができない。
次の瞬間、巨大な竜がどろりと溶けてかたちを失う。
大量の水の塊が海面に落ち、海水は津波となって陸へと迫った――が、一気に盛り上がった海岸の土がそれを防いでしまう。
人間離れしたその戦いに、ギデオンはゴクリと喉を鳴らした。
おそらくだが、いまウンディーネはシャルムートに操られている。精霊の力を人間の知能で使うことができれば、それほど厄介な相手はいない。
それは、望みどおりに天変地異を引き起こせる存在ということになるのだから。
しかしそれだけ強力な存在が、まるで相手になっていない。
ギデオンはリルパの力に畏怖の念を抱きつつも、周りにいるゴブリンたちのことを考えると、どこかほっとしてしまった。
「み、見ろ! 水の竜が消えたぞお!」
「リルパの『怒りの紋様』……こ、こんなものを直に見れる日がくるなんて!」
口々に歓声を上げる彼らの身体にも、赤い模様が描かれている。それは教会の天井画に描かれたリルの身体にもあった模様の模倣であり、すなわち彼らの信仰心の現れだった。
リルパに歓声を送るゴブリンたちを横目に見ながら、ギデオンはシャルムートの屋敷へと足を踏み入れた。
「マジェンタ!」
そう呼びかける。
シャルムートは留守だろう。その間、この屋敷を守っているのは彼女だ。
しばらくすると、二階に続く階段の上にマジェンタが姿を現した。
「……これは、ギデオンさま。何用でしょうか?」
「シャルムートを止めにきた。いま、ノズフェッカで何が起きているか知っているか?」
「ええ。ここからは海が一望できますから。シャルムートさまはすばらしい竜を象られているようですね」
それを聞いて、ギデオンは全てを悟った。
「……驚いたな。あんたもシャルムートとグルとは思わなかった。では、あいつがゴブリンたちを殺したり、鉱山の奥でウンディーネを操っていたことも知っていたんだな?」
「もちろん。シャルムートさまは、わたくしに何も隠し事をされません。いえ……たった一つ隠していることがありましたが、それも先ほど打ち明けてくださいました」
マジェンタは悲しげに微笑んでいた。
「ギデオンさま。どうか、お帰りになってください。シャルムートさまは、わたくしとともに死ぬ決断をされました。あの方の中にいる罪悪感という竜が、あの方を殺すのです。その夢を支え、叶えるのが、わたくしの望みなのです」
「あんな化け物を陸に上げてしまえば、どうなるかわかるだろ? あんたたちだけは済まない。他のゴブリンたちも犠牲になる」
ギデオンは階段を上り、マジェンタの胸ぐらを掴んだ。
「……勝手な無理心中に、他の者を巻き込む気か?」
そのとき、腹に痛みを感じた。痛覚が激しく刺激されている。
不審に思って視線を落とすと、マジェンタの握る刃物が、ギデオンの腹に深々と刺さっているではないか。
「わ、わたくしもこれで罪人ということですね。シャルムートさまだけを苦しませるわけにはいきません。ともに、罪を洗い流してもらいましょう……」
マジェンタは顔を蒼白にして刃物から手を離すと、よろよろと後ずさった。
「……人を殺すことだけが罪だと思っているのか?」
「……え?」
「何ともめでたい考え方だ。そもそも、この程度で俺は死なない」
腹から刃物を抜き、床に放り投げる。
血が溢れ出したが、しばらく待つとすぐに傷が塞がってくる。
「ああ、そ、そんな……」
「俺はあんたをどうこうしたいわけじゃない。シャルムートはどこだ? いや、シャルムートの抜け殻はどこだ、と聞いた方がいいか?」
ギデオンが暗い目で訊くと、マジェンタはぶるぶると震え出した。
埒が明かないと感じ、彼女をその場に置いて屋敷の中を捜索する。
廊下の一番奥の部屋で、シャルムートは横たわっていた。
ベッドの上にいる彼は、ただ眠っているように見える。
周りを見渡すと、この部屋も竜の絵でいっぱいだった。ここはまるで、怪物に憧れを抱く子どもの部屋のようだ……。
「……残念だが、シャルムート。お前がいま見る夢は、決して望みどおりの展開を迎えはしない。俺が終わらせてやる」
「や、やめてください! シャルムートさまは竜に殺されなければならないんです!」
マジェンタが背中にすがりついてきたが、ギデオンはすぐに彼女を振り払った。
「死に方など関係ない。死ねば同じだ」
「いいえ。どのような罪人も、しっかりと罪を悔いているのなら救済の機会を与えられるべきです。それでしか許されないというのなら、その方法を与えられるべきです!」
マジェンタの必死さはギデオンを狼狽えさせた。
「……わたくしはその人を愛しています。どうか、殺さないで……」
「こんなクズをか?」
「クズではありません。あなたにこの人のすばらしさはわからないでしょう!」
震えながらも、気丈にそう言い放つマジェンタを、ギデオンはまじまじと見つめた。
「……こいつはどうやって他の生物に憑依する?」
「……え?」
「答えろ。こいつは憑依術師だろ? どんなルールで魔法を発動させるんだ」
「対象の目をじっと見て……交わった視線を通して意識を移されます……」
「なるほど、視覚か」
ギデオンは、シャルムートの閉じた瞼を強引に開いた。
目がギョロギョロと動いている。しかし、いま彼が見ているのはここの光景ではない。
「……わかった。こいつは殺さない」
「ほ、本当ですか……?」
「だが、魔法を奪う。こいつの目を潰す」
すると、マジェンタはハッと息を呑んだ。
「そ、そんなことをしては……ああ……シャルムートさまが……」
「街を巻き込んで、無理心中するなんてことは諦めろ。それだけは絶対に認められない。この条件を飲めなければ、こいつをいまこの場で殺す」
「しかし……それではきっと、シャルムートさまはお怒りになるでしょう……絶望なさるでしょう……」
「そんなことは俺の知ったことではない。思えば、死にたがるやつを殺しても、何の解決にもならないからな。シャルムートの罪は死んで許さるほど軽いものじゃない。生ある限り、永遠に苦しみ続けるべきだ。それが正当な罰だ」
ギデオンは、もう一度マジェンタに向かい合った。
「……あんたがこいつを罰し続けろ。ずっとこいつの神に会わせてやれ」
「……神に会わせる……?」
「そうだ。昼はこいつの目となり、夜は夢の中でこいつとともに神に食われろ。ずっと一緒にいてやれ。このクズにはきっと、あんたのような人間が必要だ」
「ぎ、ギデオンさま……」
マジェンタはベッドに横たわるシャルムートに寄り添い、しっかりと彼の細い身体を抱き締めた。
「わ、わかりました。この方と一緒に生きていきます……この方がどれだけわたくしをお叱りになろうとも、決しておそばを離れません……」
目を瞑って横たわるシャルムートは、生命活動を失った枯れ木のように見えた。
この世界でやるべきことをすべて終わらせ、あとはただ風化を待つだけといった姿……。
「……生きろ、シャルムート。それがお前に相応しい罰だ」
ギデオンはその憑依術師に向かって、ぽつりと呟いた。




