象られた力
教会グリムのエノクに憑依すると、シャルムートはノズフェッカの街を駆け下りた。
世界にはマナの輝きが溢れている。
大気にも薄くマナは分布しているが、やはり一番美しいのは生命の持つマナだろう。彼らの身体からは、濃いマナが流出して周りの大気に漂っている。
そのとき小鬼の一団が山の下から押し寄せてくるのを見て、シャルムートは怪訝に思った。
(あいつらは何をしている? 妙な遊びでも覚えたのか?)
シャルムートは小鬼が嫌いだった。
人と同じ言葉を離す癖に、人とかけ離れた外見をしている生き物……。
「さあ、急げ! 山の上に避難するのだ! 海が暴れるかもしれない!」
「リルパのアンタイオの言葉だぞ! 我々はあの方の言葉に従わなければならない!」
「リルパのアンタイオ!」
煽動する小鬼の発した言葉に追従するようにして、集団の中から歓声が上がる。
「それは、新しいペッカトリアの主ということか? ドグマさまは倒れたのか?」
「きっとそうだろう! 新しい時代が始まるのだ! 俺たちにとってさらに良い時代が! 『喜びの日』は近い!」
「ギデオン! あの方の名はギデオンだ!」
口々に騒ぎ立てる小鬼の集団に猛然と駆け寄ると、高く跳躍して彼らの頭上を飛び越えた。
「――黒妖犬だ!」
「構うな! 俺たちは、果たすべきことを忠実に実行するだけでいい!」
背中の向こうで響く声が遠ざかっていくのを聞きながら、シャルムートは必死になってウンディーネの姿を探した。
広場の井戸が目に入り、その口から微量のマナがこぼれ出しているのを見つけて、シャルムートはハッと息を呑んだ。
急いで井戸に駆け寄って中を覗き込むと、キラキラと輝く身体の幼児が、井戸底の水面を這っているのを見つけた。
(――ウンディーネだ! やった!)
やはり、水の精霊はまだ海へは出ていなかった。
自分に影が落ちたのを悟ったウンディーネが、無垢な表情で井戸の口を見上げてくる。
水の精霊と教会グリムの視線が交差する。
その瞬間、シャルムートの視点は切り替わった。
見つめていた水の精霊が消え、円形の暗い背景に切り取られた黒い犬の顔が現れる。
シャルムートは、井戸の底からエノクを見上げていた。
精霊との一体化による恩恵は劇的だった。焦りは一瞬で喜びに変わり、世界全てが自分の味方をしてくれるような気がした。
(さあ、最後の仕事だ。竜を象ろう……俺とマジェンタを殺す竜だ。これまで以上にすばらしい作品にしなければならない)
自分の身体の下にある水を操作し、水塊を作り出す。
水塊はシャルムートを乗せたまま宙へと浮かび上がり、井戸の外に連れ出した。
向かうべきは、広大な海!
ウンディーネの身体の中にいると、海が果てしなく魅力的な存在に感じた。
シャルムートは水塊を飛ばし、海に急いだ。
途中、先ほどと同じような小鬼の集団と擦れ違ったが、もう全てが気にならなかった。
彼らはもはや、主題のための背景に過ぎない。
マジェンタの絵画を思い出す。彼女の絵は全て、主題である竜のために力が尽くされていた。
暴力的な一面を描写するために、竜にかみ殺される人間。竜の吐く炎に焼かれる街。
叩き潰される恐怖は、いつしか叩き潰す快楽に変わり、シャルムートの心を強く惹きつけた。
想像力だ! 人間に許された最高の快楽は、その想像からなされる創造だ!
ついに海に辿り着いたシャルムートは、ウンディーネの小さな身体から思い切り力を発し、巨大な水の塊を切り取った。
マジェンタの描いてくれた絵を思い出し、マジェンタの見せてくれた夢を思い出した。
(……竜よ。全てを叩き潰す液体の竜よ。いまこそ海より現れ、お前の役割を果たせ……)
水塊が変化する。
巨大な咢に巨大な爪。
鱗に覆われた強靭な体躯。
そして背中から生えた荘厳な翼を表現し切ったとき、シャルムートは思わずうっとりと溜息を吐いた。
間違いなく、これは自分の最高傑作だ……。
いまからこの竜に殺されるのだと思うと、それだけで激しい喜びが沸き起こる。
竜が咆哮し、大気を震わせる。
それから海岸に歩を進めると、ズシリと重々しい振動が起こった。
目指すべきは、いまマジェンタとともに最後のときを待つ自分の身体。
そこに辿り着くまでの障害は、全て破壊する。
(――さあ、行こう! 俺の人生を終わらせに! 許しを得るのだ!)
シャルムートが竜を操り、行軍を開始した――そのときだった。
「……街には入らないでね」
どこか気の抜けた、舌足らずな声が響き、海岸線の大地が盛り上がった。
隆起する土の上には、あのリルパがちょこんと乗っている。
リルパは地面を引き延ばして自分を巨大な竜の顔近くまで連れて行くと、そこで両手を広げた。
「ギデオンが言ったの。一人もゴブリンを死なせないって。あなたが街に入ったら、きっと誰かが死んじゃう」
(……邪魔をしないでくれ。いま、ようやく幸福を見つけ出したというのに)
シャルムートは竜を操り、その強靭な腕でリルパを思い切り叩き潰そうとした。
しかし、弾き飛んだのは竜の腕の方だった。
水しぶきが上がり、竜の腕は肩口から消えてなくなってしまう。
リルパの表面にはぼんやりと光る膜が現れており、それが攻撃を弾き返してしまったようだった。
(何だ、あの膜は……?)
リルパの力の一つだろうか?
しかしシャルムートの頭には、すでに後退も、迂回も、選択肢として残されていなかった。
救いはもうすぐそこにある。
障害は全て粉砕しなければならない。竜は圧倒的であり、暴力的であり、この世に存在する罪の全てを破壊する絶対者だ。
竜は今度、パックリと巨大な口を開けて、そこから猛烈な勢いの水を噴射した。
激流がリルパに直撃する――また、凄まじい水しぶきが上がった。
しかしその一撃が終わったあと、竜の進むべき進路の先には、依然として少女が立ちはだかっている。
シャルムートが唖然としていると、リルパは高く盛られた土の上でゆっくりと腰を低くしてから、拳を前に突き出した。
ふっと風が吹き、音は衝撃のあとにやってくる。
彼女が何をしたのかわからないが、突如として空間に力が沸き起こり、次の瞬間、竜の頭が弾け飛んでいた。
よろめき倒れた竜は、溶けて海を構成する水に戻ってしまう。
(なんてことだ……まさか神は、まだ俺にこんな試練を与えようというのか……)
シャルムートは再び力を発して膨大な水塊を掴み取ると、先ほど作った竜よりもさらに大きな竜を象った。
言葉を発することができないウンディーネの身体がもどかしかった。
リルパに語りかけたい。
そこをどいて欲しい、と。
別に、これからシャルムートは罪を犯そうというのではない。
むしろ逆に、罪を洗い流そうとしているだけなのだから。
視線を上げて山沿いの街を見上げると、高い位置に登った小鬼たちが、海に現れた巨大な竜を見て怯えていた。
(……お前たちの罪も洗い流してやろう。そう、お前たちも俺と変わらぬ生き物なのだ。俺は差別主義者だったかもしれない……しかし、いまなら全てを許し合える)
シャルムートはさらに力を込めた。ウンディーネの身体が苦しみを訴えていたが、聞き届けることを良しとしなかった。むしろ、自分に苦しみを与えてくる精霊と、一体になっている感覚が強まって興奮を覚える。
竜を覆う水量はさらに嵩を増し、その体躯をどんどんと大きくしていく。
その前に立ちふさがるリルパは小さかった。小さく見えた。
巨大な竜の相手をするには、彼女はあまりに脆弱な存在と思われた。
……その身体に、赤い模様がぼんやりと浮かび上がってくるまでは。




