シャルムートとサキュバス
シャルムートに面会を申し入れたギデオンたちは、屋敷の応接間で待たされていた。部屋の壁には、額縁に入れられた絵が多く飾られている。その全てが、翼を持つ竜の絵だった。
「これらは、シャルムートさまがわたくしに命じて描かせたものでございます」
そう説明するのは、シャルムートの奴隷だという色っぽい女だった。
マジェンタというその若い女性は、シャルムートの身の回りの世話や、彼が外出する際の屋敷の管理などを任されていると話した。
足には彼女の身分を示す黒い足輪が嵌められているが、それはこの監獄世界のしきたりに従っているだけで、どうもその役割はほとんどシャルムートの「妻」のようなものであるようだ。
ギデオンはひとしきり部屋に飾られた絵を眺めて回ったあと、マジェンタに向き直った。
「……これが全てあなたの作品だということは、あなたは随分と優れた画家なんだな」
「ええ。人には、一つくらいの才能があるもの。わたくしはこの才能を買われ、シャルムートさまのおそばにいさせてもらっているのです」
「なるほど、シャルムートは美術を愛するのか」
「いえ、そういうわけではありません。その竜を愛するのでございます。愛というのはつまり、妄執ということですが。わたくしがシャルムートさまの記憶にある竜を上手く描けることは、あの方にとってとても重要なことなのです」
それを聞き、ギデオンはマジェンタをじっと見つめた。
「……記憶にある竜?」
「そうです。わたくしは、毎夜あの方の夢の中で、その竜に会うのですよ。ギデオンさま、わたくしはサキュバス種の人間なのです」
「サキュバス? ああ、夢を操るというあの……」
珍しい種族に会うものだと思って、ギデオンはマジェンタに好奇の目を向けた。
噂には聞いていたが、実際にサキュバス種に会うのは初めてだった。
彼女たちは、「いかがわしい夢を見せて男の精を吸う淫奔の徒」という、世間が勝手に作り上げた誤解の中、ずっと生きてきた種族だ。
サキュバスの本当の力は、人の夢に入り込んでその夢を作り変えられるというもの。誤解が生まれたのは、そういういかがわしい夢を望む者が多かったというだけの話だ。
「シャルムートさまの夢をあの方の望む方向に導くと、必ず竜が現れます。竜はひとしきり暴れ回って世界を壊し尽くすと、最後にはシャルムートさまを殺してしまうのですよ」
「シャルムートがペッカトリアで飛竜に襲われたという話を聞いた。それが彼の中で、トラウマになっているということだろうか?」
「きっとそうでしょう。おいたわしい方……いつもそれで目を覚ますと、わたくしにすがりついて涙をこぼすのです。やめればいいと申し上げても、それはできないと言って、またわたくしに竜の夢をご所望になるのです」
「シャルムートはトラウマを克服したいのかもしれないな。目を背けていても、恐怖は心の中から去ったりしない」
「そうでしょうか?」
「俺もハチミツの匂いがトラウマで、それを克服しようと思って、よくハチミツ入りの茶を飲んだりする。いまだ効果は現れないが」
「シャルムートさまもそうだと?」
そう言って、マジェンタは痛々しげに微笑んだ。そんな態度からも、彼女がシャルムートから大事に扱われているということが、推し量れようというものだった。
そのとき応接間の扉が開き、そこに枯れ木のように細い男が現れた。相当の年齢なのか、顔は皺だらけで、白髪交じりの頭は大きく禿げ上がっている。
そして服の右腕部分がぶらぶらと揺れており、そこにあるべき身体がないということがはっきりと見て取れた。
「ああ、リルパ……あんたが来たという話を聞いて、信じられない思いだった。まさか、本当にこの街にいるなんて……」
「え、あなたシャルムート?」
その男に声をかけられたリルパが、驚いたような声を出す。
「随分おじいちゃんになったね? 二年くらい前? 会ったときはもっと若かったのに……」
「竜のことを考えると怖くなってね。夜も眠れずに日々憔悴するうちに、こうなってしまった。でも、きっとこれが俺に与えられた罰なんだ。俺はいま誰も傷つけない生活を送ってる……真人間になるんだよ……」
ぶつぶつと呟くように言うシャルムートは、それからギデオンの方をちらりと見た。
「お、お前がギデオンか……?」
「そうだ」
「地底湖に現れた竜をどうこうしようとは思うな。あれは触れてはいけないものだ……」
「ゴブリンたちの話じゃ、ただの現象ということだったぞ。叩きつける水というもので、竜なんかじゃないとな」
「いや、あの竜は俺を追ってきたんだ……見ろ」
シャルムートは左手で自分の服の右そでを握った。
そこにあるべき右腕は、なくなってしまっている。
「ペッカトリアで竜に会った。罪人だった俺を罰しにきたんだ。そして、いまは俺が改心したかどうかを見極めるためにここまで追ってきた。あの竜に手を出してはいけない……」
「この部屋に飾られている絵に描かれた竜か?」
「そうだ……マジェンタは俺の恐怖を具現化してくれる。こうしていれば、起きているときも寝ているときも、俺は竜を恐れ続けることができる。そうやってずっと自分を戒めていないと駄目な人間なんだ、俺は」
「なぜ?」
「い、言ったろ。俺は罪人なんだ……」
言いながらよろよろとふらついたシャルムートを、マジェンタが寄り添って支えた。
「……こんな監獄世界にくるくらいだ。俺は褒められた人間じゃなかった……そして監獄に入ってからも勝手の限りを尽くしていた……だから、罰を受けたんだ」
「お前がペッカトリアで会ったという竜だが、リルパもロゼオネも知らないという。それほど強力な竜が現れたのなら、噂になっていてもおかしくなさそうだが」
「竜は夜の霧に紛れて現れたんだ……そして俺の腕を食ってから、一瞬で掻き消えた。わかるか? 一瞬で掻き消えたんだ……巨大な竜がだぞ? ペッカトリアに、あんな恐ろしい怪物が他にもいるなんて思ってなかった……」
シャルムートはちらりとリルパを見つめた。
他にも、と彼が言った意図はよくわかる。そこにいる白髪の少女は、正真正銘の怪物だ。
「リルパ……ギデオンと二人で話したい……駄目かな?」
「え……?」
リルパはきょとんとしてから、すぐに困り顔になった。
「で、でも、わたし、今日はずっとギデオンと一緒にいるって言っちゃったし……」
「リルパ、俺はお前の考え通りに動く。昨日の一件で反省したんだ。信用してくれ」
すると彼女は顔を真っ赤にして、ロゼオネの耳元に何かをごにょごにょと囁く。
「リルパは、旦那さまを信じて、しばらく外で待っていると言っておりんす。そして、その間に温泉に行ってきたいと――」
「――そんなことは言ってない!」
顔を真っ赤にしたまま、リルパはロゼオネを引きずるようにして退室した。素直にこちらの言うことを信用してくれたと言うよりは、いたたまれなくなって逃げ出したようにも見えたが。
それから心配そうな顔をしたまま、マジェンタも席を外す。
応接間で二人きりになってから、ギデオンはシャルムートに水を向けた。
「リルパがいると話しづらいことでもあるのか?」
「……当たり前だろ? ここの囚人たちはずっと彼女を恐れる。逆に言えば、彼女だけを恐れていればよかった」
「あんたはペッカトリアで何をやってた?」
「奴隷や囚人奴隷を使って、殺しを楽しんでた。もちろん、リルパには知られない範囲でさ……彼女は恐ろしいが、いくらでも誤魔化しが効く相手だ。まだ幼いからな」
ギデオンは、リルパがシャルムートを指して「優しいおじさん」と言っていたことを思い出した。
「リルパは誤魔化せたが、その竜は違ったってわけか?」
「そうだ……お前もこんなところにいるってことは、何かしらの罪を犯したんだろ? 悪いことは言わないから、もう悪事はやめておけ……リルパは誤魔化せても、竜は無理だ」
「……驚いたな。あんたがリルパを退出させたのは、まさか俺の罪について話し合いたいからか?」
「そうとも……人にはみな救済の機会が必要だ。俺がそうだったように……」
シャルムートは絵画の一枚に近づくと、その場にひざまずいた。
「……リルパが聞けば怒り狂うことでも、絵の竜になら聞かせられるだろ? お前も自分の罪を、竜に告白しろ。いわばこれは、告解なのさ……」
「あんたは本当に改心して、真人間になったのか?」
「そうだ……奴隷も囚人奴隷も、いまでは大切に扱っている。さっきのマジェンタは、俺が初めて愛した女性だ。生まれ変わった俺が、という意味だが」
「あんたはさっきから、奴隷と囚人奴隷のことばかり言うな。だが、この世界にはもう一種欠かせない人間がいるだろ? ゴブリンは?」
すると、シャルムートは訝しげにギデオンを見つめた。
「……お前は、どうして小鬼のことをゴブリンという? それはやつらの言葉だ」
「言い方なんてどうでもいい。質問に答えろ。この街でゴブリンたちが苦しんでいる。あんたがその竜を放置することで」
「あれは人間じゃないさ。見た目からして、全然違う。そうだろ、ギデオン……?」
「いや、人間だ。意思疎通ができ、俺たちのいた世界の人間と子どもを作ることだってできる。彼らが人間じゃないというなら、俺だって人間じゃないことになる」
「……何だと?」
「俺は人間とドライアドのハーフだ。見た目は純粋な人間の色が色濃く出ているようだが」
ギデオンはひざまずくシャルムートに近づき、暗い目で彼をじっと見下ろした。
「……もう一度聞く。生まれ変わったあんたの良心は、ゴブリンたちのためには痛まないのか?」




