ゴルゴンの神殿
湿った空気が漂っている。
薄暗い中、地下階へ続く階段を降りるギデオンに、先を歩くヤヌシスが話しかけてきた。
「……ギデオンさん。あなたはこの先に広がる光景がどのようなものか、すでに理解しているのではないデスか?」
「薄々な。ゴルゴンの神殿だ」
「なるほど。では先に聞いておきますが、あなたは幸福の定義とはどのようなものだと思いますか?」
その難解な質問に、ギデオンは首を傾げた。
「さあ? 考えたこともない。だが、満ち足りていること、心身に不安を感じないこと……そんなところじゃないか?」
「いえ、話はもっと単純なのデス。この世の概念は全て快と不快にわけられます。そして快楽を得るとき、生き物は幸福を感じるようにできているのデス」
「それがなんだ? 俺は別に、お前の作った歓楽街を否定しにきたわけじゃない」
するとヤヌシスは、乾いた声で笑った。
「……ワタシはそういう話をしたいわけではありませんよ。人の幸福のあり方について、これから見るものに、あなたの押しつけがましい価値観を働かせてほしくないと思ったのデス」
コツコツと二人の足音が響く。
「あなたの快楽はきっと、あなたが育った文化や環境によってもたらされることでしょう。同様に、他の場所で育った人間はその場所の慣習に従って快楽を得る。違いますか?」
「違わないな」
「そう。結局、快楽というのは人間の頭の中にあるのデス。どのような道筋を辿ろうとも、結局いきつくところは同じ。性行為の快楽は分泌された脳内物質が引き起こしていますが、同じものを神との対話によって得る人間もいます。それが、どのような道であるかはさほど重要ではない。辿り着くところが快楽でありさえすれば」
「大した思想家だ、お前は。俺はそんなことを考えたこともなかった」
「ワタシは、この先にいる人間を不幸にしていません。それを理解していただきたいのデスよ」
ヤヌシスが階段を下り終える。
その空間は、ほのかに光っていた。見ると、壁にいくつも埋め込まれた何らかの鉱石が、照明代わりの光を放っている。
「いえ、むしろ幸福を与えていると言ってもいいのデス。最初に言っておきます。そのために必要なものが思想教育や、もっと言うと洗脳に近いものデス。ただ、結果としてそれを彼らが快楽として受け入れるなら、その人間は幸福なのデス」
「その考え方を否定する気はない。結局お前がさっき言ったように、俺も俺の育った文化の洗脳を受けて、倫理や価値観を身につけているわけだ。それらに他の種類があることを理解しなければな」
「それを聞いて安心しました」
ヤヌシスが振り返る。彼女の後ろには荘厳な雰囲気の広間があり、そこに石化した人間たちが並べられている。見渡す限り、それらは年齢がそこまでいっていない少年や少女たちで、ほとんどが額に角を生やしていた。
「……子どもは幸福デス。知らなくていいことを知るから人間は不幸になる。人間を不幸にする最悪の敵は知識デスよ。知識の実を食べたからこそ、人間は己を知り、恥を知り、不幸を知った。無垢なままでいれば、ずっと幸福なままでいられたのに」
「なぜ、この子どもたちは角を生やしている?」
「人間と小鬼の混血デス。その中でも、ワタシは人間に近い子たちを選んで救いを与えているのデスよ。救うに値する子どもたちをね……」
「救いだと?」
「彼らは不幸を知らないまま、永久に一つの時間の中に閉じ込められる。ワタシの目によって。それが幸福だと教えられ、それが幸福だと感じたまま。これを救いと言わずして、何と言うのデス?」
「人間に近い子どもをね。歓楽街で、ゴブリンに近い娘たちを見た。彼女たちは救う気がないのか?」
「ありません。ワタシは人間デスよ? 少なくとも人間に見える生き物を愛して、何が悪いのデス?」
「人間の子どもが欲しければ、ゴブリンと人間を混ぜ合わせる必要がないだろ。最初から、奴隷と奴隷で人間をつくれ」
「それでは、何の労苦もないではないデスか」
ヤヌシスは呆れた様子で笑った。
「言ったはずデス。この世の概念には快と不快があると。逆に言うと、不快があるからこそ人間は快楽を感じることができる。空腹を感じて不快だから、物を食べてそれを解消する。眠くて不快だから、寝てそれを解消する。そのときにこそ、人は快楽を得るではないデスか。同様に労苦があるからこそ、信仰は尊い行為になるのデスよ」
「信仰か。では、ここにいる子どもたちは、みなお前の信仰心のあらわれか?」
「もちろんデス。なかなかうまくいかない生殖配合を乗り越え、生まれてくる容姿の問題を乗り越え、ようやく出来上がる純粋無垢な混血児。そういう労苦の証たる子どもたちこそ、メフィストのもとに送るに相応しい。彼らの美しい時間を永遠にしたときこそが、ワタシの中に至上の快楽が生まれる瞬間なのデス」
「なるほど、それはお前の快楽だな」
「そして、この子たちの快楽でもあります」
ヤヌシスは石化した子どもの一体に近づき、顔を優しく撫でた。
「見てください、ギデオンさん。この子は笑っているでしょう? この子だけではありません。みな笑っています。ここには幸福が溢れています。この幸福感こそが、祈りの間に相応しい感情なのデス」
「お前の言い分はよくわかった」
ギデオンは肩をすくめて言った。
「要するに、お前は屁理屈をこねる小児性愛好の異常者だ。俺の正義にはそぐわない」
ヤヌシスの頬が、ピクリと動いた。
「気を悪くしないでくれ。お前が悪と言っているわけじゃない。ただ、お互いの正義や価値観があって、それらが相容れない場合もあるというだけの話だ」
「……ならばあなたがここから出て行けば済む話デスね。ここはワタシの世界デス」
「すぐ出ていくとも。ただ、ここに間違って迷い込んでしまったやつがいるらしい」
ギデオンは、石化したその少年に近づいた。
彼には犬耳があり、他の子どもたちよりも少し年齢が高く見えた。
「こいつは笑っていない。目の前の人間と、自分の無力さが憎くてたまらない……そういう顔をしている」
ギデオンはハウルの頭を撫で、逆の手でこぶしを強く握りしめた。
胸の奥に、激しい怒りが渦巻いている。
「……こいつには、お前のルールは当てはまらない。ハウルは不幸なまま石化しているからだ。快楽も幸福も、お前はこいつに与えていない。俺がここから連れて行く……」
「一度メフィストに供えたものは、全てメフィストのものデスよ」
「それはお前の世界のルールだ。そんなものを、俺が受け入れる道理はない」
「……生意気デスね、あなたは?」
――二人が動いたのは同時だった。
ギデオンが横に飛んだ次の瞬間、ちょうどそのときまでギデオンがいた空間が赤く燃え上がり、ボンッと激しい音を立てて爆発する。
「あなたが底抜けに愚かでよかったデス、ギデオンさん! ここは誰の助けも入らないワタシだけの場所――何の躊躇もなく始末することができるのデス!」
「こちらの台詞だ、異常性癖の変態女。俺がお前を駆除してやる」
そう言うと、ギデオンはヤヌシスへと向かっていった。




