ゴスペル
軽い食事を取ったあと、ミレニアはメニオールに連れられて夜のペッカトリアを歩いた。
街灯の炎が揺れている。あれは、暗くなると小鬼が手作業でつけて回るのだとメニオールが教えてくれた。
街灯の炎とメニオールの持つランタンの炎が、二人の影をペッカトリアの街へと浮かび上がらせている……。
独特な夜の雰囲気に気後れするミレニアに、メニオールがひそひそ声で話しかけてきた。
「……囚人奴隷としてのオレの生活はな――ああ、これはスカーじゃなく、メニオールの生活はって意味だぜ――一級身分の囚人に買われたところから始まった。そいつが、話の分かるやつでな。もちろん、オレの力に一目置いたからなんだろうが」
「あなたはスカーに買われたんじゃないんですか?」
「違う。スカーがやったのは、いわば略奪行為だ。人さまの所有物を無理やり奪おうとしたってわけだ。でも、悪いことはするもんじゃねえ。結果はさっき見たとおりさ」
ミレニアは地下室で監禁される本物のスカーを思い出し、ゴクリと喉を鳴らした。
「その最初のご主人さまのおかげで、オレはずっと囚人奴隷のまま自由に動くことができてた。ギデオンから面会の依頼があったときにも、あいつはむしろ率先して会いに行かせた。とにかく、何でもいいから外の情報を知りたがってる」
「フォレースの情報を?」
「何かを知ることが楽しみで生きてるようなやつだ。要するに、変わりものだな。オレはあいつに推薦されて囚人に昇格するのも考えたが、それはそれで面倒くさい。縄張り争いだの、あのデブのドグマのご機嫌うかがいだの、上には上の煩わしさがあると思ったからだ」
「いまからお会いするのが、その方ですか?」
「そうだ。哲学者だよ。名前はゴスペル」
次第に、そびえたつ都市壁が大きくなってくる。街の中心地から離れ、外縁部に近づいているらしい。
そこに石作りの小さな建物があった。窓もなく、人が住んでいるような気配がない。
メニオールは鍵を取り出してその建物の扉を開錠すると、ミレニアを連れて中に入った。
暗闇に目を凝らすと、狭い空間の真ん中に穴が開き、下へ降りる階段があるのがわかった。
「この下は地下水道だ。そこからやつの屋敷に行く」
「あ、ここに住んでいるわけではないんですね……」
「哲学者と言っても、こんなところには住まないさ」
メニオールはランタンの明かりを闇に投げかけると、逆の手でミレニアの手を握って、階下へと進んでいく。
「あまり表立ってやつと会うのはまずい。スカーは何度かゴスペルの囚人奴隷や奴隷を殺しているから、仲が悪いのさ。オレにスカーになるように勧めてきたのも、もとはと言えばあいつでな。『あなたとなら上手くやれる気がする』ってよ」
「囚人……なんですよね、その人?」
するとメニオールはスカーの顔を歪めた。笑っているらしい。
「それは、会えばわかる」
メニオールは複雑な地下水道を、何の戸惑いも感じさせずに進んでいく。
ミレニアには、もうどうやってここまで来たか思い出せなかったし、元の場所に帰れと言われても迷って永久にここに閉じ込められている自信があった。
そうして十分ほど歩いただろうか……ようやくメニオールが上りの階段に足をかけた。
階段の先には格子扉があり、そこをまた別の鍵で開ける。
「……よし。ここまでくれば、ひとまず安心していいぜ、ミレニア」
「え? いままでは不安でいなきゃいけなかったんですか?」
ミレニアは驚いた。あまりにメニオールが堂々としているものだから、全てが彼女の掌の上で動いているものだと思っていたのだ。
「この街には、お前を殺したい人間がいるんだぞ? 図太いやつだ。呆れるぜ……」
「す、すみません……」
「まあ、いい。行くぞ」
そこは先ほどまでの地下水道とほとんど同じような石作りの小部屋だったが、一角に立派な扉が備えつけられているのが特徴的だった。
その扉を開いて小部屋を出ると、赤いカーペットが敷き詰められた廊下がある。壁に沿って甲冑や銅像が並んでおり、見るからに暮らし向きのいい者の住まいといった風情だ。
「初めまして、ミトラルダ殿下」
廊下を歩いていると、銅像の一つが突然そんな声を上げて、ミレニアはハッと息を呑んだ。
見ると、銅像がギギギッと動いてお辞儀をしている。
「は……え……?」
「ああ、このような姿でお会いしなければならないご無礼をお許しください。とはいえ、わたくしにも自分の本当の姿がどのようなものなのか、わかりかねるのです……」
「ゴスペルの姿で会え、ゴスペル。オレまで驚いただろうが」
メニオールが、銅像に鋭い視線を向けた。
「あなたはいま矛盾をおっしゃいましたよ、メニオール。とはいえ、あなたを驚かせることができたというのは、苦労が報われる思いです。かれこれ五時間はここで思索にふけっていましたからね。我々は何なのか……どこからきて、どこへ行くのか……」
銅像が姿を変え、髪を長く伸ばした若い男の姿になる。
その光景を見て、ミレニアはまた仰天した。そしてメニオールが先ほど、その種族と繋がりがあると言っていたことを思い出した。
ハンサムと言えばハンサム、醜男と言えば醜男――どちらとも取れるような印象を持つ男の横に、メニオールが立つ。
「こいつがゴスペルだ、ミレニア。正確には、過去にゴスペルという囚人を食った無貌種だが」
「ああ、そして、囚人奴隷メニオールの主でもありました。彼女はわたくしの卑しくも可愛い奴隷でした……」
それを聞いて、メニオールが顔をしかめる。
「……てめえ、調子に乗ってるんじゃねえぞ」
「冗談ですよ。しかし、怒るならぜひあなたの美しい顔で怒って欲しいものです。その顔ははっきり言って嫌いだ。嫌いな男の顔ですよ、メニオール……」
「お前に美的感覚なんてものがあるなんて驚きだぜ。美醜っていうのは、基準からの差異で決まるもんじゃねえのか?」
「ああ、この不定なる者に対し、なんと底意地の悪いことをおっしゃるのか。さてはあなたは、ミトラルダ殿下にもその毒舌を振舞ったのでしょう……」
「ミレニアだ、ゴスペル。こいつはミトラルダなんかじゃねえ」
「……おお、そうでしたね」
ゴスペルは大きく腕を開き、天を仰いだ。
「……そしてそのミレニアも今宵いなくなる、と。ドグマにあなた方の暗殺依頼を出すあの仮面の男は、とある権力者の使いであることがわかっています。大役を任された身として、きっとその目で彼女の死体を見ないことには納得しないことでしょう……」
「ドグマを上手くおだてて、あの仮面野郎の依頼自体を断らせようと思ったんだが……やっぱり、そうそう上手くは行かなかったみてえだな」
「仮面の男……?」
「そいつが、お前を殺そうとしてやがるのさ、ミレニア。ゴスペルはこの監獄の外にも多くの耳を持っていて、色々と情報が入ってくる。こっちにやってくる商人を通したり、あとは面会室でやり取りしたりしてな」
ミレニアの問いに答えたのは、メニオールだった。
「昔、そんなにこっちとノスタルジアの行き来が難しくないころ、こいつの仲間は人間に成り代わってノスタルジアへと進出したらしい。もちろん、自分たちが何者であるかを探るためだ。あとは、繁殖方法を知るためだっけか?」
「無貌種が人として子を作れば人の子が生まれる。豚として子を作れば豚の子が生まれる。では、我々そのものはどうやって生まれてくるのか……? この謎を教えてくれるものになら、わたくしはこの生命を差し上げても構いません。無貌種はどこからきて、どこへ行くのか……」
「要するに、こいつらは哲学者なのさ」
「我々は死ぬことができない。だからこそ生まれないのか? 無貌種にとって、死は自閉と狂乱の先にあります。それだけが救いとは、神はなんとむごい仕打ちをなさるのか……。遥か太古から、わたくしは生きていました。生物に成り代わって欲望を得ました。人間に成り代わって自我を得ました。そうして思考を経てようやく狂乱に至ることができるのです。生まれることと死ぬことは、我々にとって重大なテーマなのですよ……」
ゴスペルは虚空を見てぶつぶつ呟き、放っておくといつまでも一人で話していそうだった。




