竜の激怒
自分のやるべきことを瞬時に判断すると、メニオールはそばにあるフルールの魔導書をひっつかみ、逆の手でミレニアの手を引いて駆け出した。
「め、メニオール?」
「ここは危険だ! 化け物同士の戦いに巻き込まれたら、命がいくつあっても足りねえ!」
ダメージを移し替えるために付与魔法を張りつけたスケープゴートのストックは、いま十ほどしかない。それも、これからはどんどんと減っていくだろう。
隠れ家で飼っていたネズミたちが、あの怪物たちの戦いの中、巻き添えを食って死ぬ可能性は高いからだ。
「わたくしもその考えに賛成ですよ、メニオール!」
脇を見ると、ガチャガチャと騒々しい音を鳴らし、メニオールたちに並走する鎧がいる。
言うまでもなく、ゴスペルだった。
「てめえ、この役立たず! 不死身の癖に、ちっとは身体を張るってことができねえのか!」
「不死身ではありませんよ! あの騎士に、昨日どれだけ身体の細胞を持って行かれたか!」
メニオールが、ゴスペルにまた文句を言ってやろうと口を開いたときだった。
目の前に浮かぶ、棒状のものに気づいたのは――
「あ、これって……」
胡乱げなゴスペルの言葉と、その棒が突っ込んでくるのはほとんど同時だった。
ハッと息を呑んだメニオールは、咄嗟にミレニアを突き飛ばした。
脇腹に直撃したその杖が、暴力的な爆発でメニオールの肉体を吹き飛ばす。
咄嗟にダメージを受け流して事なきを得たが、心に浮かんでくる危機感だけはどうにもならなかった。
これでスケープゴートが一つ減った……! 状況を考えると、ほとんど余裕はない。
一難去ってまた一難というやつだ。
いまの杖は見たことがある。昼間の戦闘中、あの男が操っていた魔法器械――
「メニオール……ああ、メニオール……」
暗がりから、顔に大きな傷のある男がその姿を現す。
「てめえ、スカー……」
「そんな顔をしていても、俺にはすぐにわかるんだぜ。あんたのその冷たい青い目だけは、誰にも真似できねえ……」
昨日と同じようなことを言って、スカーは大きく顔を歪めて見せる。
どうやら、こいつに対しては変装が役に立たないらしい……。
メニオールは無貌種のマスクを解除し、素顔でスカーに向き直った。
「……本当にしつこい野郎だな、てめえはよ」
「俺は絶対に諦めねえ。さあ、殺し合いをしようぜ、メニオール……」
スカーは片足を引きずりながら近寄ってくる。
メニオールはちらりとミレニアの方を見た。
こいつを巻き込む恐れがある以上、戦いは避けるべきだ。何とか隙をついて、逃げ出すことを第一目的においた方がいい……。
そのとき、スカーが猫なで声を出す。
「そうだ。あんたが逃げようなんて考える前に、一つ忠告をしておいた方がいいな」
「……忠告?」
「あんたはもう二層世界へと行けねえ。ここでずっと俺と鬼ごっこを続けるんだよ。いま逃げ出したところで、結局俺のことしか考えられなくなるってわけだ」
スカーは狂気に満ちた目を輝かせながら、うっとりと呟いた。
「契約術を使って、そういう契約を結んだのさ。あんたは、俺を殺さなきゃ二層世界へと行けないってな」
「何だと?」
「俺の生命が二層世界への切符ってことさ。だからこれはチャンスなんだぜ。俺の方から、わざわざあんたの前に姿を現してやったんだ。手間が省けたってもんだろ?」
「……まさか、新しい契約術師を脅したってわけか?」
「どうかな? 契約術師のことなんてどうでもいいだろ。あんたは俺だけを見ていればいい。そして、俺を殺すことだけを考えていればいいんだよ」
「イカれたサイコ野郎め……」
「アッハッハ! そいつは最高の褒め言葉さ! 俺はあんたのためなら、何だってやるぜ! ほら、こんなことだってなあ!」
スカーの背後から、何か丸いものが飛び上がった。おそらく先ほどの杖と同じく、『苦痛の腕』の一本で操作する武器か何かだろう――と、身構えた次の瞬間、それがメニオールの足元までごろりと転がってくる。
首元で切断された女の頭部だった。
「メルヴィナ……」
ゴスペルが呻き声を上げる。
「……メルヴィナ? だ、誰だ?」
「わたくしの屋敷にいたメイドさんの一人です……とても気立てのいい女性でした」
「馬鹿みたいに外を出歩いてるのが悪いのさァ! 囚人奴隷と奴隷は全員殺処分するって、ペッカトリアで決定したってのによ。メニオール、あんたは誰にでも顔を変えられちまう。だから、人間自体をいなくしちまおうって考えでな。冴えてるだろ?」
「て、てめえ……!!」
「いいね、殺意に満ちた目だ。あんたのためなら、俺はどんな手だって使う……虐殺だろうが何だろうがな。俺を殺したいだろ、メニオール? 俺もあんたを殺したくてたまらねえ!」
スカーが両手を大きく開いた瞬間、先ほどの杖がまた宙を舞う。
『苦痛の腕』で操作される脅威! スカーは新しい戦い方を身につけ、さらに言えばメニオールの力をある程度把握している厄介な相手だ。
「さあ、メニオール――俺とやり合う心構えはできたかい!?」
「……おい、ゴスペル。ミレニアを連れて逃げろ」
「……はい?」
「こいつはいまこの場で、アタシが処分する。もとはと言えば、アタシがきちんと殺しておかなかったことが原因だからな」
「いえ、いえ、この男はわたくしに任せてください……」
そう言うゴスペルの瞳には、暗い影が落ちていた。
「この男には、ずっとわたくしは苦汁を舐めさせられていたのです……あなたがこの監獄世界に入ってくる前からね……もはや我慢の限界というやつですよ……」
「お前じゃスカーのやつは手に負えねえはずだ。あの腕で身体の中をまさぐられたら、嘔吐感で何もできなくなるって言ってたろ」
「それは論理的な話……わたくしはいま感情で話しています……!」
「おい、落ち着け、馬鹿!」
メニオールの制止も間に合わず、ゴスペルが巨大な竜へと変化する。
「おや、おや、昼間の竜じゃねえか……どんな魔法か知らねえが、大したもんだ」
「殺してやる、スカー……!!」
竜はけたたましく咆哮し、巨大な口から火球を吐き出した。
直撃するかと思われた瞬間、スカーは見えない力にひきずられるようにして空間を移動する。
「――俺とメニオールのお楽しみは誰にも邪魔させねえ!」
お返しとばかりに放たれた杖の一撃を、ゴスペルはもろに食らった。
左腕が吹き飛び――しかし、すぐに再生する。
その一撃はゴスペルをひるませるどころか、さらに彼の怒りを引き起こしたようだった。
目を血走らせながら、竜は喉の下に垂れた赤いふくらみをぴくぴくと揺らす。
その動きに連動するように、辺りの大気がビリビリと振動する。
周囲の気温が二、三度上がったように感じ、メニオールはさっと青ざめた。
「――ミレニア! 走れ!」
「……え?」
「あの馬鹿野郎、こんな場所でヤバい攻撃をぶっ放すつもりだ! 街が吹き飛ぶぞ!」
ミレニアの手を強引に引いて走るメニオールは、しばらくの静寂のあと、背後から襲ってきた凄まじい光と衝撃を受けて吹き飛ばされた。
竜の放射する熱線が、夜のペッカトリアを焼く。
メニオールはそばの建物にしがみつき、天と地がひっくり返ったかのようなその時間が過ぎ去るのを、生きた心地がしないまま待ち続けた。




