見出された敵
身体に解放感と力が満ちている。
ハウルは空に浮かぶ満月から、ゆっくりと視線を下ろした。
周りには、泥にまみれた廃墟然とした建物がある。
(ここはどこだ? あのゴルゴンの屋敷か……?)
確か、あの女の凍りつくような視線を見てから、それっきりだったはず……。
自分の身体に目をやると、青白く光り輝く毛に覆われている。
知らぬうちに、狼へと変貌していた――しかも、最大の力を発揮できる満月の夜に。
そのときハウルは鋭敏になった嗅覚に、ミレニアの強い匂いが飛び込んでくるのを感じた。
すぐ近くだ。それも、ほんのすぐそこから……。
匂いはそれだけではなかった。ミレニアの匂いに混じって、以前にハウルが敗北したスカーという男の匂いも近くに漂っている。
ハウルはわけがわからないなりにミレニアの窮地を悟ると、そばにある壁を思い切り殴りつけて破壊した。
「――ハウル!」
視界が開けた先でいきなりそう叫んだのは、泥にまみれたミレニアだった。
その光景を見て、ハウルは自分の青い血で汚れた彼女の姿を思い出し、また怖気づく……。
ハウルが何とかその場に踏み留まることができたのは、怪物へと変貌した彼を見つめるミレニアの顔が、恐怖ではなくほっと安堵の表情だったからだ。
ハウルは平静を装うと、おずおずとミレニアに話しかけた。
「……ミレニア? お前、どうしてそんなに泥だらけなんだ?」
「おい、ハウル! オレだ、わかるか!?」
「ああ?」
よくよく見ると、ミレニアのそばに泥だらけの男がいる。
ギデオンだ――いや、ギデオンの格好をしていたが、ハウルはその男に大きな違和感を覚えた。
ギデオンとはまるで違う匂い……それこそ、いま鼻孔をくすぐっていたスカーの匂いが、目の前のギデオンから漂ってくる。
「てめえ、ギデオンか? 妙な匂いがするぜ」
「話はあとだ! お前、意識ははっきりしてるか!?」
「意識? いや、わけがわからねえ。これはいったいどういう状況なんだ?」
「ちっ、面倒事が増えただけか……」
ギデオンがそう言ったとき、彼の周りの泥がもぞもぞと動き、巨大な手のかたちを象っていく。
ハウルが呆気に取られているうちに、ギデオンはその手の中にすっぽりと収まってしまった。
巨大な手にみしみしと握り締められながら、ギデオンは必死の形相で叫んだ。
「ミレニア! オレに構わず逃げろ! ここは危険だ!」
「め、メニオール!」
「……ミトラルダ。メニオールの言う通り、どこへでも行くがいい。お前がいると、彼女は本気で戦えない。それは私の本意でもないからな」
低い声が響いた。
見ると、廃墟の暗がりに、また別の男が立っているのがわかった。
左腕がなく、肩から細い糸のようなものが垂れ下がっている。
男はハウルの方をちらりと一瞥して口を開いた。
「あなたもですよ。見たところ、人語を話すキメラですか? あるいは、あのゴスペルという無貌種? どちらにせよ、私の標的ではない。この場から去りなさい」
「俺はキメラじゃねえ……」
呻くように言ってから、ハウルは男を睨みつけた。
「どうでもいいことです。ここに残っていても、死ぬだけだと忠告しているだけですよ」
「死ぬ? ひょっとして、この妙な手はてめえの仕業か?」
ハウルはギデオンに近づき、彼を捕える巨大な手に向けて爆破の力を放った。
ボンッ! というすさまじい衝撃音。
満月が、ハウルの力をさらに野蛮なものへと変えていた。
巨大な手の表面にピシピシとひび割れが走り、亀裂が大きなひずみに変わった隙に、ハウルはその手からギデオンの身体を強引に引っこ抜いた。
「ふん! これでよし、と」
すると、ギデオンはハウルの顔をしげしげと見つめてくる。
「……おい、ハウル……お前……?」
「勘違いするんじゃねえぜ。てめえにはいくつか借りがあったってのを思い出しただけさ」
そう言ってから、ハウルは何だか背中がむず痒くなって、ギデオンから視線を逸らした。
匂いだけはどうにもわからないものの、ここにいるやつは確かにギデオンの格好をしているのだ。匂いは色々と誤魔化すことができても、見た目だけはどうにもならないはず――だからこいつは、やっぱりギデオンで間違いない……。
ハウルがそんなことを考えていると、ギデオンが訴えかけるような声を出した。
「……ハウル。どうやら、お前は正気のようだな? そんななりだが、人間的な思考ができているようだ」
「正気も何も、満月の夜こそ俺の真価を発揮できるときさ。このとき以上に正常な俺なんて、存在しねえよ」
「よし。そしたら、ミレニアを連れて逃げろ」
「はあ?」
「あいつは危険だ。オレが相手するうちに、早く行け」
「馬鹿じゃねえか? てめえ、いまやられちまいそうになってたろ」
ハウルは鋭い爪の生えた指を、自分の頭の横でクルクルと回した。
「逃げるのはてめえさ、ギデオン。よくわからねえけど、あいつはお前らに喧嘩をふっかけて来てやがるんだろ? だったら、俺がぶっ飛ばしてやるよ」
「……無理だ。あいつの力は化け物じみてる」
それを聞いて、ハウルは肩をすくめた。
――そして瞬時に姿勢を下げ、力強く大地を蹴る。
一瞬で距離を詰め、ギデオンが「化け物じみてる」と表現した男を殴り飛ばす。
男は遥か遠くまで吹き飛んで行き、受け身も取れずに堅い石畳へと叩きつけられた。
彼と細い糸のようなもので繋がっていた巨大な左腕が、遅れて落下する。
一連の様子を見届けてから、ハウルはゆっくりとギデオンたちの方を振り返った。
「……俺の力だってそうさ。あんなやつには負けねえ。何せ、今日は満月だからな」
「おい、馬鹿! 油断をするな――」
ギデオンの言葉が終わらないうちに、周りの泥がぼこぼこと沸き立ち、ハウルの身体にまとわりついてくる。
「へえ?」
「……しつけのなっていない犬ですね。飼い主は誰です?」
会心の打撃を叩き込んだにもかかわらず、男は平然と起き上がって戻ってくる。
「……俺は犬じゃねえ。狼だ」
「これは失礼をしました。とはいえ、その二種類の生き物の間にある違いが、私にはよくわかりませんが」
「――なら、教えてやるよ。勉強料は高くつくけどな」
ハウルは男をギロリと睨みつけながら、身体に思い切り力を込めた。
刹那、まとわりついていた泥が弾け飛ぶ。
「……なるほど、凄まじい力ですね。私のいまの握力で拘束できないとは」
感心したように言う男から、ハウルはすっとギデオンに視線を移した。
「……ギデオン、さっきの言葉を丸ごと返すぜ。ミレニアを連れて逃げろ」
「な、何だと?」
「あの男からじゃねえぜ。俺から逃げるんだよ。俺はこれから、派手に暴れるからな――」
言いが早いか、ハウルは夜空に向かって雄たけびを上げた。
自分の身体の輪郭を越え、力がはみ出す感覚――。
とても自制できない力が大気に溢れ出し、そこら中で爆発が起きる。
「……ほう、面白い。あなたも私を随分と楽しませてくれそうですね」
「被虐趣味でもあるのか? てめえは何もできずにサンドバックになるだけだぜ!」
ハウルは身体中の毛を青白く輝かせながら、混乱の中見出した敵へと突進していった。




