二人のスカー、二人のトバル
見ると、男の右踵には包帯が巻かれ、じんわりと血が染み出している。
その負傷を庇うためか、彼は右手に大仰な金属製の杖を持っていた。
そう言えばメニオールは、捕えていたスカーが自分の踵を砕いて地下牢から抜け出したと話していた。
(しまった、ドジを踏んだな……まさか本物の方だったとは)
ギデオンはメニオールの演じるスカーしか知らなかった。そのせいか、いま対峙する本物のスカーには、彼女にあった理知的な雰囲気を感じなかった。
「くたばれ! くたばりやがれ! 俺の女神の名前を呼んだな!? てめえ、メニオールの何を知ってやがるってんだ!?」
「一級身分の囚人同士の争いはご法度なんだろ? あんたはずっと閉じこもっていたから知らないかもしれないが、俺はここの囚人だ」
「その足枷でほざくな!」
スカーが叫ぶと、また『苦痛の腕』が痛覚を刺激してくるのを感じた。
「ちょっと落ち着け。俺個人として、あんたに恨みがあるわけじゃない。あんたのふりをしてメニオールがやっていたことの責任は、あんたにあるわけじゃないからな」
「その訳知り顔をやめろって言ってるんだぜ! メニオールは俺の――俺だけの女神なんだ!」
敵の魔法が、三度身体を貫いてくる。しかし、
「――なんで死なねえんだ! なんでてめえは苦痛の声を上げねえんだああああ!」
「会話にならないな」
そう呟くのと同時に、口から血がゴボリと溢れてきた。
内臓が大分傷ついている。とはいえ、ヴェイリックスがすぐに傷を修復するだろう。
そのときようやく、ギデオンは敵の攻撃の届く範囲が十メートルほどだったことを思い出した。
機動力に欠けた相手と十分な距離を取ることなどわけはない。
ギデオンは思い切り地面を蹴り、一気にスカーから離れた。
スカーは片足を引きずって追いかけてくるが、すぐに同じだけ距離を離す。
「て、てめえ……! 逃げるんじゃねえ、この臆病者が!」
魔法の攻撃が届かなくなったことで、ギデオンは努めて冷静に現状を捉えることができた。
「……しかし恐ろしい力だな。身体の中にまで、自在に手を伸ばしてくるなんてな。おまけに目に見えないときた」
マナ状態のままの見えない魔法攻撃……こうした攻撃方法を取る敵を相手取るときのために、もっと自分のマナコールの精度を上げておきたかったのだ。
以前、ギデオンがマナを見とおすことのできるミレニアに、マナコールの習熟度を上げるための手助けを頼んだのは、まさにこういうときのためだったのである。
もっと器用にマナコールを使えれば、自分の周囲にマナを張り巡らし、その中を動く不純物、つまり敵のマナを見つけ出したりと、もっと色々なことができるというのに。
いまのギデオンには、精々ただ力いっぱいに大気のマナを呼び寄せ、大雑把に伸び縮みさせることくらいしかできない。
(とはいえ、試してみたいことがある。いままで、マナの奔流を誰かにぶつけたことなど、一度もなかったからな……)
ギデオンの頭にあったのは、先ほどヤヌシスが口にした「マナ中毒」という言葉だった。
リルパが膨大なマナを使ってまき散らす絶望を、自分にもできるかもしれない、と。
ギデオンは気持ちを集中し、右腕に力を込め始めた。
右腕にマナを集中し、それを撒き餌にして大気のマナを呼び寄せる……。
「……あんたに恨みはないが、かかる火の粉は払わないといけない。これに懲りたら、誰かれ構わず襲い掛かるのはやめておいた方がいいぞ」
「ああ!? 何だと!?」
スカーは憎々しげに顔を歪めたが、そんな虚勢も長くは続かなかった。
ギデオンの右腕から一直線に引き延ばされたマナの直撃を受け、スカーの身体がビクリと硬直する。
その光景は、ギデオンの知的好奇心をくすぐるのに十分な興味深さを持っていた。
「どうだ、あんた? いま、絶望を感じるか?」
「て、てめえはいったい……」
スカーは、かすれ声でそう返すのが精いっぱいらしい。その様は、さながら怒りのリルパのそばに立つ自分のようだ。
ギデオンは実験の結果に満足すると、右腕を空に向け、スカーを膨大なマナの奔流から解放してやった。
「……よかった。リルパの力の本質が少しずつ掴めてきた気がする。あんたには礼を言わないといけないな」
「礼だと……てめえ、ふざけてんのか!?」
「ふざけてなどいない」
ギデオンは短くそう言って、頭上のマナを霧散させた。
それから間髪入れず、スカーの間合いの中へと飛び込んでいく。
直線的だが、無謀な突進ではない。スカーはまだ顔を蒼白にしており、一目で戦えるような状態ではないと見て取れる。
ギデオンは驚愕して固まるスカーに組みつくと、即座に腹へと膝を叩き込んだ。スカーの身体が「く」の字に曲がったところで、今度は顎に強烈な拳を打ち下ろす。
スカーは石畳にごろんと転がり、白目を剥いて気絶した。
「これでよし」
「ギデオンさま……?」
ちょっとした揉め事が終わったのを見計らい、おっかなびっくり近づいてくるのは、ゴブリンのキャビロだった。
「横やりが入ってすまなかった。さ、ソディンに会わせてくれ」
「そ、それは問題ございやせんが、スカーさまはどういたしやんしょう?」
「うーん、宮殿の中に寝かせとくか。多分こいつは、ドグマに用事があってここに来たんだろう」
ギデオンはスカーを担ぎ上げると、キャビロに案内されて宮殿内部へと入って行った。
エントランスでは、すぐに他のゴブリンたちが二人ほど駆け寄ってくる。
ある程度覚悟していたことだが、彼らはギデオンの姿を見て取ると、キャビロと同じように大仰な反応をした。
「おお! おおおお! ギデオンさまではございやせんか!」
「今日は何と幸運な日でございやんしょう!」
朝からずっと自分に向けられ続ける間違った態度に、ギデオンはすでに辟易し始めていたので、半ば強引な仕草で彼らにスカーを預けた。
「適当な部屋に彼を寝かしておいてくれ。頼んだぞ」
そして、そそくさとその場を離れようとする。
「……どうする? トバルさまと同じ部屋にするか……?」
「いや、一応別の部屋にしておいた方がいいんじゃないか……?」
しかし、背後からひそひそと聞こえてきたそんな会話に、おやっと思って振り返った。
「トバル? トバルがここに来ているのか?」
「ええ。しかも吸血鬼の真似事でもなさろうというのか、先ほどまで、拷問室の重い棺桶の中で眠っておりやんして。よほど暗闇から出たくないらしく、自ら手足を縛るという徹底ぶりでございやんすよ」
「でも、トバルさまって、さっきドグマさまとお出かけにならなかったっけ?」
一人のゴブリンがそう言い、もう一人がうーんと唸り声を上げる。
「あれ? そう言えば……」
「帰ってきてから、またお眠りになったのかな?」
ゴブリンたちは胡乱げな様子だったが、ギデオンの方を見ると、慌てて誤魔化すようにニッコリと笑った。
「妙なこともございやんすねえ。よくわかりやせん。ま、ドグマさまがお帰りになれば全てはっきりしやんすよ」
「そ、そうか」
ギデオンはいまいち彼らが話していることの要領が掴めなかったが、とにかく庭師のキャビロに頼んで地下牢へと案内してもらうことにした。




