フィリアとダン--02魔物の森で
ちょうど一年ほど前の事である。
もともとフィリアの婚約者は、ダンではなくダンの兄、リハルトだったのだという。
それなのに今は何故?
ジルとリミィは、不思議でたまらなそうにたずねた。
しかも、心配そうに…。
「そ、それは…」
言いにくそうにしながらも、フィリアはジルとリミィのまっすぐで、自分を案じるような眼差しに心を動かされポツリポツリと語りだした。
「い、嫌々とか、無理矢理とかではないのよ?わ、私も納得しているの…。むしろ、ダンには私のような者が婚約者だなんて本当に申し訳ないと思っているの」
***
それは、ジャニカ皇国の中でも魔物が出没しやすい場所だった。
その森は小さな教会の裏手にあった。
その日はその小さな教会でリハルトとフィリアの婚約式が行われるはずだった。
伯爵家の嫡男のリハルトはフィリアの初恋で憧れの人だった。
フィリア曰く、リハルトは見目麗しくしかも賢く自分には勿体ないくらい素敵な人で、彼の前に立つと自分はいつも緊張して口ごもってしまっていたという。
弟のダンとは普通にしゃべれるのにリハルトとしゃべろうとすると何故かドキドキして、上手くしゃべれないのだ。
自分を少しでも良く見せたくて、言葉遣いや所作に気をつけていたが、そんな態度がリハルトにはよそよそしく映ったのだろう。
婚約式の前に教会の裏庭にこっそりと呼び出された。
親たちのいないところで話したいということだった。
リハルトは、婚約式の直前にフィリアに尋ねた。
「フィリア、僕と婚約して本当にいいのかい?フィリアは僕より弟のダンといるときのほうが、幸せそうだ」
「え?そんな事…」
フィリアは、違うと否定したいのに、思いがけなさ過ぎて言葉が流ちょうに出てこなかった。
何故、婚約式の直前になってそんな事を言いだすのか、その想いが推し量れずに困惑した。
それをリハルトは、フィリアが、自分に遠慮しているのだと勘違いした。
「フィリアが僕といて、いつもつまらなそうなのは気づいていたよ…弟のダンとは、いつも楽しそうに話しているのに…。フィリアが望むなら弟のダンと変わってもいいんだよ。ダンは君のことが好きみたいだし」
そう言ってリハルトは、ほほ笑んだのだ。
フィリアは思った。
ああ…リハルト様は自分のことを全く好いてはいないのだ…と。
当たり前だ。
もともと家同士が決めただけの事。
ダンが自分のことを好きだとでも言ったのだろうか?
でも、問題は、そこではない。
弟に、じゃあどうぞと譲れる程度のものだったのだ。
まるで胸の奥をえぐられるような痛みが走った。
思わず泣きそうになったが、ここで泣いては大好きなリハルト様を困らせてしまうとぐっと涙をこらえたその時だった。
教会のすぐ裏の森(教会の敷地の外)からダンの叫び声が聞こえたのだ。
「うわぁあああ!」
振り返るとダンの傍に黒い狼のような獣がいた。
魔物だ。
ダンは、フィリアとリハルトの様子をうかがうために森の木の陰に隠れていたのだろう。
教会の裏庭の様子は、魔物の森からだと覗き込みやすい。
ただ、それは決してしてはならない愚行だった。
この教会の敷地内には結界がはってあるから大丈夫だが結界の外の、特に裏手の森には魔物が出没するから決して出てはならないという注意をこの教会に来る前に、さんざん大人たちにされていたのにダンは、気にも留めていなかったのだ。
リハルトがダンを助けようと結界から出ようとしたのを見てフィリアは小さな体を張って止めた。
「リハルト様っ!駄目っ!」
そして大声で叫んだ。
「誰かっ!誰か、助けてっ!ダンが!ダンが魔物にっ!」
その声に教会の中にいた両親や従者達、神父様が慌てて飛び出してきてまず、次期伯爵のリハルトを保護した。
弟の方に駆け寄ろうとするリハルトをホーミット伯爵家の執事ハンスが必死で引き留めている。
さすがのリハルト様も大人のハンスの力を振りほどくことは出来なかった。
そして、大人たちがダンを保護しようと魔物とダンの周りを取り囲んだ時だった。
魔物はダンにのしかかりながらも、クンクンと何か品定めするように匂いを嗅ぐようなしぐさをするとプイッと顔をそらして、ダンから離れた。
すると神父様が聖水をまき、大人達が一斉に魔物を森の奥へと追い立てた。
魔物はダンから離れ、森の奥の方へと向かって逃げ出した。
その瞬間、フィリアは、ダンを結界内に引っ張ろうとダンに近寄ったその時だった。
魔物がいきなり方向を変えて、またダンのほうに向かってきたのだ。
いや、正確にはフィリアのほうに!
魔物はより魂の気高いものを喰らおうとするのだ。
魔物はフィリアがダンを助けようと結界を越えた瞬間に見つけたのだ。
フィリアという極上の獲物を!
フィリアは、結界の内側、教会の裏庭へ思いっきりダンを突き飛ばした!
『ダンに何かあったらリハルト様が悲しむ!ダンだけは助けなければ!』咄嗟にそう思ったのだ。
そしてフィリアは魔物に飛びかかられたのだ。
魔物の鋭い爪が頬をかすめた。
神父が慌てて魔物に聖水をかけ、大人たちが魔物から引きはがし、フィリアは傷つきながらも救出されたが、その頬には醜い傷跡が残った。
魔物につけられた傷は特殊でその部分はどす黒く広がり沈着した。
「フィリア!なぜ僕を止めたんだ!」リハルトが苦しそうに叫んだのをフィリアは覚えている。
その痛みと衝撃でで言葉などまともに出なかった。
「だっ…大切な…」
だって大切な貴方の弟ですもの…と答えたつもりだったが、リハルトには正確には届かなかった。
愚かなダンは、その時、ただただ震えていた。
その日の婚約式は中止になりフィリアは三日三晩発熱しその後、元気になってからもリハルトが、現れることはなかった。
そしてホーミット伯爵家から、その後、正式にリハルトではなくダンとフィリアの婚約の打診がきた。
そしてフィリアは、自分なりに理解した。
時期伯爵のリハルトには、こんな醜い傷跡のある自分は相応しくない。
あんなに素敵なリハルト様に自分は相応しくないのだと!
そして、ダンは自分を助けるために負った傷の責任をとる形で自分と婚約したのだと。
思えばダンも気の毒な話である。
”助けて”と頼んだわけでもないのに勝手にしゃしゃり出てきて勝手に顔に怪我を負って、なのに責任をとらされる形でこんな醜い傷をもつ自分なんかと婚約させられたのだから…とフィリアは悲し気に言った。
「え、でも、ダンは、フィリアのことが好きってことなのでしょう?だってお兄さんにフィリアの事が好きだといったんですものね?」とリミィが尋ねるとフィリアは寂しそうに首を振った。
「ダンは、きっとお兄さんを私に取られるような気がしたのね…だから私の事が好きだなどと言って婚約を取りやめさせようとしたのだと思うわ…それに顔にこんな醜い痣ができる前ならともかく、今の私のことは…」
「何それ!そんなの本当に好きっていえるの?本当に好きだったら痣とか関係ないじゃない!」
リミィは信じられない!という風に怒っている。
「そうね…私のことなど誰も本当には好きではなかった…そういうことではないかしら…」
「そんな…フィリア…」
そんなフィリアの様子にジルは眉をしかめた。
色々、つっこみどころというか物申したい部分があったようだった。
「う~ん、フィリアは、結局、どっちが好きなの?リハルトだよね?なのに何故、ダンとの婚約を受け入れたの?何故リハルトがいいと言わなかったの?」とジルが訪ねる。
「え?だって、そんなの、こんな顔に傷痕のある私なんて…相応しくない…し」
「ダンだったらいいの?その考え方でいくとダンは可哀想だよね?自分のことを好きでもない相手と婚約とかさ」
「え?」とフィリアは少しびっくりしたような声をあげた。
「自分を好きじゃない相手と婚約なんて…僕だったら嫌だなぁ。自分が相手の事を好きなら尚さらね」
「まぁ!ジルってば、意地悪な言い方するのね」
「じゃあ、リミィはティムン兄様がリミィの事を好きじゃないのに、我慢して婚約してもらって幸せ?」
「な!そんなの絶対、嫌よっ!でもティムン兄様は私の事、大好きっていっつも言ってくれてるもんっ!」
そう言いながらリミィはジルを睨み付けた。
「ああ、ごめんごめん!もちろんティムン兄様はリミィの事を一番大好きだよ。女の子の中じゃ、絶対一番だ!」そう言いながらジルは姉のリミィの頭をなでる。
「まぁ、リミィにももう婚約者がいるのね?」
「生まれた時からの許嫁ですわ!私の許嫁は世界一素敵なんですのよ!」と頬を赤らめた。
「まぁ、相思相愛なのね?羨ましいわ。でも…そうね、ダンには本当に申し訳なかったわ…ダンはこんな痣のある許嫁なんて恥ずかしいでしょうし…でも、私から断る訳にはいかないのよ」と、本当に申し訳なさそうにフィリアは言った。
「「何故?」」二人が同時に聞き返す。
「だって、そんな事をしたらリハルト様が責任を取って私と婚約しなおすと言いかねないんですもの」
「え?だってフィリアは、そのリハルトっていう人の事がすきなんでしょう?」
「ええ、そう、好きだから…」と言いかけてフィリアははっとした。
自分は好きだこそ相手に自分と嫌々、婚約されるのが辛いとそう思ったのだ。
それなのに自分は、望みもしないダンとの婚約を受け入れている。
先ほどのジルとリミィのやり取りはそれを分らせる為のものだったと改めて思い自分が恥ずかしくなる。
ダンが自分の事をもしも本気で好きなら自分はなんてひどい事を彼にしているのか…改めてそう思ったのだ。
いいや、本当の事を言うと、これまでも実はそう思った事が何度もあった。
でも、だからこそ、ダンが自分にひどい事を言うのも受け入れてきた。
自分の事など好きじゃない。
でも、責任をとってもらってもらうのだと…。
彼が自分の事を本気で好きじゃない方が都合が良かったから。
好きじゃない相手と婚約させられる事だって十分申し訳ないのに…。
「あ…私…なんて酷い事を…」
「まぁ、ダンの気持ちがどうでもフィリアの気持ちが彼にないなら、やめれば?」
「で…でも家同士が決めた事ですもの…私の気持ちなんて…」
これはこれで本当の事だ。
貴族同士の結婚なんて恋愛結婚の方が珍しいくらいなのだ。
たまたまジルやリミィの周りの大人たちが恋愛結婚ばかりなのは本当にたまたまなのである。
だが、まだ子供で自分達の知る世界が全てのジルと(特に)リミィには納得できない。
「それでリハルト様とやらの気持ちはちゃんと聞いてみたの?」
「え?だ、だってダンとの婚約を勧めたのはリハルト様で…」
「それね…ダンの方が好きなんじゃないかって聞かれたんでしょう?フィリアの幸せを一番に考えたからじゃないの?自分の気持ちよりフィリアの気持ちを大事にしたかったからとかさ」
「え…?」ジルの思いがけない言葉にフィリアは固まった。
「そんな…そんなこと…ある筈が…」
「なんで?聞いてないのにわかるの?ダンの気持ちも本当には、わかってないのに?」
そう言うジルにフィリアは驚いた。
自分より三つも年下の男の子なのにまるでリハルト様よりも年上のように感じる。
(まぁ、実際、前世の記憶から言うと十六歳なのだから五歳は歳上なのだが)
しかし確かに、ジルの言う通りかもしれない。
あの婚約式の前、リハルト様は私が望むのなら婚約をダンと変わっても良いと言ったのだ…。
私は、ダンとの婚約など微塵も望んでいなかったというのに。
本当にジルの言う通りだ。
今さら諦めた筈のリハルト様の気持ちが気になる。
こんなのダンにも申し訳ない…フィリアは、そう思ったのだった。
しゅんとするフィリアを見てリミィはジルを責めるように睨む。
「おっと!ねぇ、じゃあさ、協力するから二人の気持ちを確かめてみない?」そう言ってジルは、にっと片方の口端をあげて笑った。
その顔はまるで大人の人の表情だった。




