“偶然”を積み重ねる手と、思い出したくない予感
午後の教室は、窓から入る冬光が淡く床を照らしていた。
授業が終わり、生徒たちが帰り支度を始める中、
ミシェルは急いでノートを閉じる。
(今日は……誰にも会わずに帰りたい)
アルフレッドは優しい。
少なくとも、そう見える。
でもその優しさが胸を締めつけるようになってきた。
(なんで……こんなに息が苦しくなるの?)
席を立った瞬間――
「待って。落とした」
声が降ってきた。
振り返る前に分かる。
アルフレッドだ。
彼が指先に摘んでいたのは、ミシェルのハンカチ。
教科書の間から滑り落ちたらしい。
「……ありがとう」
受け取ろうとしたミシェルの手より早く、
彼はハンカチの端を指で軽く押し当てた。
ほんの触れもしない距離で――
“手を取っているような”仕草。
「君はよく物を落とす。危ういところがある」
その声音は優しい。
けれど“観察し尽くした人間の結論”のように静かだった。
ミシェルの胸が、ぎゅっと固くなる。
(そんなの……見てたの?)
「帰り道、送る」
「だ、大丈夫……!」
「大丈夫じゃない」
即答だった。
(なんでそんな即答……?)
周囲の生徒がひそひそと見ている。
でもアルフレッドは気にしない。
視線はミシェルだけ。
「君がひとりで歩けば、また危ない」
「そんなに危なくないよ……?」
「危ない」
まるで“決定事項”のように言い切る。
拒否する言葉を、やんわり。
しかし確実に封じてくる。
(どうして……どうしてこんなに……)
アルフレッドの影が、ミシェルにだけ濃くかかっているみたいだった。
◆
ふいに脳裏がチカッと瞬いた。
前世――
朱里と並んでゲームをしていた頃の記憶。
そこでは、ふたりで
“隠しキャラの地雷仕様”について騒いでいた。
『これは踏んだらダメなやつだから!
一回踏んだら最後、推しルート行きたくても行けないの!』
『でも見た目は良くない?ほら、髪がこう……』
『見た目は良い!めっちゃ良いけど!
良いけど!!
そのぶん闇が深いんだってば!!!』
ふたりで笑い転げながら
「絶対やっちゃダメなフラグ」
を連打して遊んでいた記憶。
(……あれ?)
胸の奥に冷たい汗が滲む。
(私……似たようなこと、してない?)
いや、そんなはずはない。
ゲームのキャラとは違う。
アルフレッドは優しい。
危険じゃない。
そう思い込もうとした瞬間――
「ミシェル」
名を呼ばれ、意識が現実に引き戻される。
気づけば、もう廊下の出口。
アルフレッドが扉を押さえて待っていた。
「帰るんだろう?」
逃げ場を塞ぐような立ち位置。
でも、表情は柔らかい。
「……ありがとう」
ミシェルはそう言うしかなかった。
言わないと、
この空気がどう動くのか分からなかったから。
外へ出た瞬間、
冬の風が頬を刺すように冷たい。
なのに――
すぐ横に立つアルフレッドの存在が、
逆に熱を帯びて感じる。
「手、冷えてる」
言うなり、彼が手袋を差し出した。
「つけておけ」
「えっ、でも……?」
「凍えると、痛い」
その声は穏やかで静か。
けれど――
“君の体温管理も俺がする”
そんなニュアンスが潜んでいた。
ミシェルは、
断れないまま手袋を受け取る。
(……どうしよう。
怖いのに、離れたくないなんて……)
混乱が心を支配する。
そのとき。
アルフレッドの横顔が、かすかに綻んだ。
「いい子だ」
心臓が跳ねた。
その一言が甘くて、苦しくて、逃げられない。
風の音だけが静かに二人を包む。
ミシェルは知らなかった。
この瞬間――
アルフレッドの中で彼女はもう
“所有物として扱われ始めている” ことを。




