やさしさの形をした鎖
冬の風が、校庭の並木を揺らしていた。
ミシェルは授業帰りの廊下で肩をすくめる。
寒い。けれど、胸の奥は妙に熱かった。
(……あの人の言葉が、まだ響いてる)
「君はもっと大切にされるべきだ」
昨日の声が耳の奥からなかなか消えない。
嬉しい。
でも少し怖い。
怖いのに、心がそっちに引かれてしまう。
(なんなの、あの人……本当に誰なの……)
そんな思いを抱えたまま教室へ戻ろうとした時だった。
「ミシェル」
名前を呼ばれる。
振り返るまでもなく、誰か分かった。
黒いフード――アルフレッド。
いつの間にかすぐ背後に立っていた。
足音がしなかった。
それが当たり前のようで、逆にぞっとする。
「少し手を貸してほしい」
「え? わ、私に……?」
彼は頷いた。
「重くてな。ひとりでは運びづらい」
それだけを告げ、
自然すぎる流れで手首を軽く取られた。
その力は強くない。
痛くもない。
でも――逃げられない と、一瞬で理解できる握り方。
(……なんでこんな普通の触れ方なのに、逃げられない感覚がするの……?)
導かれるまま、学園の裏手へ歩く。
人の少ない場所。
静かで風の音すら遠い。
そこに置かれていたのは、大きな木箱だった。
「これを移動させたい」
「こ、これ……私に持てるような……」
「大丈夫だ。持つのは一瞬だ」
アルフレッドは箱の片側を軽く持ち上げた。
彼の筋力ではなく、魔術による補助だろう。
それでもミシェルは箱に触れた途端、驚く。
「あ……軽い……!」
「君が持てる程度に、調整した」
彼の指先がミシェルの手の動きを一瞬だけ導いた。
触れてはいない。
触れてはいないのに、
今触れられたら抵抗できない と背筋が震えた。
二人で箱を移動させている間、
アルフレッドは表情ひとつ変えない。
けれど、時折“観察するような視線”だけを投げてくる。
ミシェルはそれに気づくたび心臓が跳ねた。
(……見られてる。なんでそんな顔で……)
箱を置き終えると、
彼はふっと息をついた。
「助かった。……君で良かった」
胸がざわりと揺れた。
「わ、私で……?」
「他の誰でもいいわけではない」
近づく。
距離が縮まる。
彼の声が低く落ちてくる。
「君は、よく気が回る。素直だ。……扱いやすい。」
その言葉は、褒め言葉でも侮蔑でもない。
事実を述べる声音だった。
だがミシェルの心は、理由もなく乱れる。
(なんでそんな言い方……
なのに、嫌じゃないの……?)
彼の手が、ミシェルの耳の横、壁に触れた。
壁ドンの姿勢――
ただし触れているのは壁だけ。
ミシェルの体には影すら触れていない。
(ち、近い……!)
逃げようとすれば逃げられる。
でも動けない。
アルフレッドの瞳に“何か”が宿ったから。
深い深い色。
吸い込むような静けさ。
そこにわずかに滲んだ熱が――危険だと分かるのに、目を離せない。
彼は静かに言った。
「君は、迷惑をかけられるばかりの環境にいた。
気を張って生きてきた」
なぜ知っている?
どうして分かる?
「だから、いつか倒れる。
誰かが支えていなければ」
その“誰か”を、
当然のように自分だと言い切る気配を感じた。
「……他の誰かが君に優しくするのは、好まない」
「っ……!」
初めての束縛の言葉だった。
まだ柔らかく、表面的で、優しさに包んだ形をしている。
でも確かに“鎖”だった。
ミシェルは息を呑む。
彼の影が揺れた。
アルフレッドはにこりとも笑わず、ただ小さく囁いた。
「君は……俺の視界に残りすぎる」
言っている意味は理解できない。
理解できないのに、胸が締めつけられる。
その直後、彼はすっとミシェルから離れた。
距離を取る所作は紳士的で丁寧ですらある。
「またな、ミシェル」
優しい声。
けれどそれは、“逃げ場を残さない約束”のようにも聞こえた。
ミシェルはしばらく動けなかった。




