パンの甘い匂いと温かい指先
アレックスが屋敷に来て三週間。
まだぎこちなさはあるものの、
夕食のときは時々、小さな声で笑うようになっていた。
そんなある日、公爵夫妻は
「外の空気に慣れさせましょう」と言い、
二人を街へ連れて行くことにした。
馬車の揺れに合わせて、
アメリアは窓を指差してはしゃぐ。
「ほら見て!あそこ、パン屋さんだよ!」
アレックスは窓の端に寄り、
少し緊張した面持ちで外を見ていた。
「……にぎやかだね……
こんなたくさん人がいる場所、初めて。」
「大丈夫だよ。私がついてるから!」
アレックスは小さく頷いたが、
その指先は少し強く握られていた。
市場に着くと、
パンの甘い匂い、
焼き菓子の香り、
呼び込みの声があふれ、
アレックスはわずかに肩をすくめた。
アメリアは自然な流れで手を差し出す。
「迷っちゃうと大変だから、手、つなご?」
アレックスは驚いたようにアメリアを見たが、
こわごわ、その手を取った。
温かい指先。
(アレックスが安心できるようにしなきゃ)
アメリアはそう思いながら、
ゆっくりと歩き出した。
パン屋の前で足を止めたとき、
アレックスが興味深そうに棚を見つめていた。
公爵夫人マリアが種類をいくつか買ってくれ、
アレックスに手渡すと──
彼は小さく一口かじり、
目を丸くした。
「……おいしい……」
アメリアは嬉しくなって笑った。
「でしょ!私も好きなんだ!」
ふたりが笑いあう様子を見て、
マリアはそっと夫のカインに目を向ける。
「仲良しになってきたわね。」
「うむ……将来が楽しみだ。」
「まだ五歳よ?」
「五歳でも、芽は芽だ。」
アメリアは気づかないまま、
アレックスの手を引いて通りを進んだ。
通り沿いの花屋の前で、
アレックスがふっと立ち止まる。
色とりどりの花々が並ぶ中で、
彼の視線は白い小さな蕾に向いていた。
アメリアが振り返る。
「アレックス?」
アレックスは慌てて首を振った。
「……なんでもない……」
そう言ってアメリアの手を握り直す。
その理由は、本人にもまだよくわかっていなかった。




