ロードされた記憶と、狂い始めた初期ルート
乙女ゲーム『恋のマジカル学園』ミシェル編。
薄曇りの朝だった。
王立学園の巨大な正門を、ミシェルは一歩、また一歩と踏みしめながらくぐった。
伯爵家の馬車から降りた瞬間、胸の奥が強く跳ねたのを、彼女自身まだ理由を理解していなかった。
(ここ……知ってる)
視界がぱちんと瞬きをした瞬間、
教室、庭園、廊下の装飾。
その全てに“見覚えがある感覚”が重なった。
だが知らないはずの記憶だった。
次の瞬間、彼女の脳裏に
まるで“ロード”するように流れ込んだ。
前世。
乙女ゲーム『恋のマジカル学園』。
自分はその世界のモブ寄りのヒロインだったはず――ではなく、
“ピンク髪の伯爵家の娘ミシェル”として生まれ変わっていたのだと。
母は伯爵家の使用人。
伯爵に見初められたが、伯爵夫人はそれを許さず、
母は家を追われ、体を壊して亡くなった。
残されたミシェルは伯爵に引き取られ、
綺麗な顔立ちの嫡男メガロから執拗な苛立ちを向けられ続ける日々。
愛されず、守られず、
ただ“存在している”ことだけが許されている家。
(……逃げたい。絶対、この家から出たい)
その願いだけが、彼女を支えた。
だからこそ――
学園の門をくぐった瞬間に蘇った“ゲーム記憶”は、
ミシェルにとって幸運に見えた。
(ウィリアムを攻略して、家を出ればいい……!)
かつて前世で憧れ続けた王子ルート。
アメリアという悪役令嬢が消えた世界では、
むしろ自分がヒロインとして選ばれるはず。
そう信じていた。
◆
だが、一つだけ計算外があった。
ゲーム知識どおりに動こうとしても、
“会うはずの場所でウィリアムが現れない”。
本来なら落とし物を返してくれるイベントも、
昼下がりの庭園で声をかけてくるシーンも、
なぜか全部、微妙にずれる。
(あれ……おかしい。完全に合ってるはずなのに)
原因はすぐには分からなかった。
ただ、ミシェルの思考とは別の場所で
世界が微妙に“補正”をかけていた。
なぜなら。
王子ウィリアムには――
本来婚約者となるはずだった悪役令嬢アメリアが、学園にいない。
代わりに別の高位貴族令嬢が隣に立ち、
ウィリアム自身の行動パターンが大きく変わってしまっているのだ。
(このままじゃ……誰も攻略できない……!)
必死に他の攻略キャラに接点を作ろうとしたが、
一度逃した初期イベントは取り返せない。
ミシェルはそれを前世で痛いほど知っていた。
焦りは、静かに積もっていく。
◆
そんなある日だった。
廊下の角で、ふと肩がぶつかった。
「……悪い。怪我は?」
落ち着いた低い声。
黒いフードを深くかぶった男子生徒が立っていた。
顔がよく見えない。
だが、視線だけは妙に鋭くて――
そこに吸い込まれそうな感覚がした。
「だ、大丈夫……です」
返した声がかすかに震えた。
彼はほんの一瞬だけ微笑んだ。
その笑顔を、ミシェルは“誰のものでもない”と確信できた。
ゲーム知識には存在しない。
前世で一度も出てこなかったキャラ。
(……誰?)
その疑問が胸に残ったまま、
彼は音もなく消えるように歩き去った。
ただのモブかと思った。
NPCにしては存在感が強すぎる。
でも攻略対象ではない……はず。
気づかないまま、
ミシェルは“隠しキャラの初期イベント”を踏み抜いていた。
彼の名前すら知らずに。
(すごく……変な気持ちになった)
胸の奥で、何かが微かに震えていた。
それが“分岐音”だったことに、
この時のミシェルはまだ気づいていない。




