推理小説を後ろから読む
「終わった、ね」
「ええ、そうですね」
孤島にある第二鹿鳴館での事件が終わり、一週間もの時間が流れた。僕たちはあの後、定期船に乗り本土へと戻り、警察へと連絡した。警察はすぐさま島へと向かい、事件の捜査をし、最終的には、秋津栗さんの推理と同じ結論に至ったらしい。つまり、結局事件は犯人自殺という形で処理されて、テレビでもそこそこの大きさでしか報道されなかった。数日後には業界人のスキャンダルが問題に上がり、事件の話題もそれに塗り替えられてしまった。
そして、今日。僕と秋津栗さんは、二人が最初に出会った詩竹町の海岸へと来ていた。すっかり夏の終わり際になってしまったこの頃の、夕方五時半という時間になっては、既に砂浜に人はいない。辺りには打ち上がる静かな波の音と、帰路を急ぐ自動車の駆け抜ける音が、互いに干渉せずに黙々と響いている。高い石造りの防波堤から座って眺める景色には、夕焼けの赤色しか見える物は無かった。
「……結局、なんで葉百合さんは黒森さんを殺してしまったんでしょうか。もっと、何とかすることはできなかったんでしょうか……?」
「何とかできなかったから、殺しちゃったんだろうね。まあ、君だって、彼女の話を聞く限りでは、まだなんとなるようには見えたかもしれない。まだ家も家族も財産もあるんだし、それを加味しなくても、自分を酷使する手だってあった。非道いようだけどね。……だけど、それは第三者だから言える話なんだ。当人の間には、聞いた話の中じゃ想像できない苦難や葛藤があるんだろうね。それは、推理じゃどうもできない事だ」
僕の脳裏には黒森さんの凄惨な死に顔と、葉百合さんの慟哭があった。焼き付いて離れない、陰惨な事件の発端と結末。二人とも、僕に『助けて』と言ってるような気がして、胸が締め付けられる思いがする。
「君が思い詰める必要なんてないよ。あれらは結局、彼と彼女が望んだ結論だ。君がどう動こうとも、結末が変わることは無かったよ。……もっとも、君が事件中に、私をどうにかすれば別だったかもね? そうすれば、葉百合さんは一生黒森さんを殺した記憶を背負いながら、苦悩して生きていくことになる。それは性格の良い彼女にとってはとっても辛い事だろうね。つまり君は、選択できる中では一番幸福的な選択肢を選んだ事になる。おめでとう!」
彼女は意地の悪い笑みを浮かべながら、そう語りかけてくる。僕に対する言葉としては、無神経すぎる言葉の数々。僕は耐えきれずに、思わず強い言葉になって返事を返した。
「やめましょう。というか、やめろ。それは彼女にも失礼ですよ。……もしかして、まだ僕が行ったあの細工を恨んでるんですか?」
「恨んでるよ。何せ、私を最も苦しめたのがあの謎だからね。だってほら、気づきたくなかったところを、確定させたくなかったところを、君は嬉々として謎にしたんだよ? 私からは、恨まれて当然だね」
「それはどういう……」
「ちょっと、そっちに期待していた。うん、それだけだね。それより、葉百合さんの計画を聞いたとき、君はどう思ったの? 傘を使った半密室なんて、すぐばれるんじゃないかなって思わなかったの?」
露骨すぎる話題転換に思わず面食らってしまう。先の言葉の意味も気になったが、それが彼女の取っては振れられたくはない話なのだと察し、そのまま振られた話題に乗っかることにした。
「ええ、最初にぱっと聞いたときは確かにそう思いました。けど、よくよく考えてみると、あれは葉百合さんが傘を持ちえたっていう事を知ってないと出来ないトリックでしたし……それに、歴史的に価値のある第二鹿鳴館の構造。つまり、棚の造りと鉄格子ですよね。をうまく使ったトリックで、変な話……綺麗だな、って思ってしまったんです」
僕は正直に、あの時の事を話す。思いつめたような表情で、犯行計画を話す彼女は、とても綺麗で。その狂気的な眼すらも、一種の美しさに思えたのを覚えている。
「ある意味、彼女らしいシンプルなトリックだよね。そして……君という存在を重点に置いたトリックでもある」
「……」
「彼女は君の事を『利用しただけ』なんて言ってたけど……多分、君にかなりの信頼を寄せていたんだろうね。そうじゃなきゃ、こんなにも君に依存したトリックにしなかったはずさ。……もっとも、だからと言って君の失敗が彼女を追い詰めてしまったという訳でもない。たとえ君がどれほど有能であっても、私はこの事実を見破れたと思う。っていうか……たぶん、キミはその役について最高の人間だったと思うよ。他の人だったら、私をここまで追い詰めることはなかっただろうね」
「……それで、何が言いたいんですか」
秋津栗さんの口調が、回りくどくて、そして、僕を責め立てている気がして。僕は思わず、怒気を孕ませながら彼女に結論を促した。
彼女は手に持っていた缶コーヒー(少し甘めの奴だ)を飲みほしてから、それに答えた。
「いや、さ。気づけたら、もっと楽になれたんだろうなあって。私が、なんとなく、彼女に負けることもなかったんだろうなあって。そう思ってさ。……まあ、忘れてもいいよ」
曖昧な答えで濁しつつ、彼女は間髪入れずに次の話題へと移ってしまう。僕が疑問を挟む余地のないままに、有無を言わせぬような、寂しげな表情をしながら。
「私さ、考えてみたんだよね。丸渕くんの質問」
「……なんでしたっけ?」
眼鏡をかけた彼の姿が思い浮かぶ。たぶん、1日目の最初の、ミニパーティーの時。物静かな雰囲気を醸し出していた彼が、突然秋津栗さんに近寄って、投げかけた質問のことを言ってるのだろうと想像する。第一印象に似合わない饒舌さで、驚いたのは記憶に新しかった。確かにあの時、彼が何かしらの質問をしたのをしたのは覚えているが、その内容は、すっかりと忘れてしまっていた。
「ほら、『推理小説を後ろから読むということについて』だよ。私があいまいな答えを零したら、すごい剣幕で最初から読むべきだって長々と主張されたやつ」
「ああ、思い出しました。確かその時、丁度隣の席に、僕がいたんでしたね」
あの時の彼女の微笑みは、今でも覚えている。まだその時は、いつだかに出会った少女というだけの彼女の、輝くような笑み。眩しくて、これから先にある出来事を想って、胸が痛くなったのを覚えている。
「そうそう……それでね、私考えたんだ。別に後ろから読んじゃってもいいんじゃないかなって」
「丸渕さんがいたら怒鳴ってきそうな言葉ですね」
「『What done it?』とでもいうのかな。最後の方に書かれている結末を読んで、そこから彼らの身に何が起こったか推理するっていうのも、探偵小説の楽しみ方としては、全然ありなんじゃないかなって。……それに、私って悲劇的なものが嫌いだからさ。ハッピーエンドでなくとも、少なくとも登場人物たちの結末がどうなってるか知っているっていう安心感は、私にとっては、とってもありがたいんじゃないかなって。私が探偵小説をあんまり読まないのも、そういう、読んでるうちに、胸が痛くなっていく要素があって。そこからいろいろと想像できちゃって、楽しむどころではなくなっちゃうから……。私みたいな人には、アリなんじゃないかなあって、そう思うんだ」
その言葉を聞いて、僕の脳裏には、ある時の、やはり彼女の言葉が思い出されていた。確か、事件解決の直前、彼女が僕に語った、行動指針だったはずの言葉だ。
『絶望なんてしたくないから』
そんな言葉が浮かんだとき、辺りに蔓延る静寂を突き破って、彼女の手首から、リリリと電子的な音が聞こえて来た。音の鳴った方向を見ると、彼女の白く細い腕に巻きつけられたデジタルな腕時計が、丁度6時を示していた。彼女は、この時計の機能を使って、アラームをセットしていたのだろう。
彼女はゆっくりと腕を叩いて、アラームの音を止めた。また防波堤には静寂が戻って、直後に、体に風の吹きつける感覚がした。その風は、音さえしなかったものの、大分騒々しく感じた。
防波堤に掛けられていた彼女の足が引かれ、その足を使って、彼女は立ち上がった。細身の彼女の影が砂浜に差し込んで、そこだけを黒くも照らしている。
そして、彼女は伸びをしながら、脇においてあった革のバックを持ち上げた。僕もそれの動きに続いて、ゆっくりと立ち上がった。
「……もうこんな時間か。私、これから大学で用事があって。合間を見つけて来たんだけど、やっぱり時間が少なすぎたかな。……ごめんね。それじゃあ、また」
「ええ、僕もそろそろ見たい番組が始まる頃でしたよ。……それじゃあ、さようなら。また、後日」
二人で会釈しあって、背中を向ける。名残惜しい気しかしなかったものの、そんな気持ちを、直後に聞こえて来た、さざ波の音が洗い流してくれたような気がした。未練がましい事は、悪い事だ。
歩き出す自分の足。なぜか止める事が出来ず、その歩みはだんだんと海から遠くなってくる。そして、終ぞ海の姿がコンクリートの雲によってかき消された時、僕はふと想像することがあった。それは、根拠のない、離別の念であった。
きっと、いつかはこの事件の記憶だって薄れてしまうのだろう。そして僕たちは大人になって、いつの間にか離れ離れになって。きっと、別々の人生を歩んでいくのだろうと、僕にはなんとなくそう思えたのだ。
……それは、やだな、と。僕はなんとなく、そうも思ったのだった。
完




