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突然激しいノックの音が響いた。
「イヴェット様、グスタフ様がいらっしゃっています」
「こんな時間に?」
トレイシーが戸惑ったようにそう伝えたのはイヴェットがもう寝ようとしていた時分だった。
とりあえず室内ガウンを羽織ってドアを開ける。
「どうされましたか?」
「どうしたもこうしたもあるか!」
グスタフはイヴェットの手を掴むとずかずか部屋に侵入した。
「えっ!?」
イヴェットもトレイシーも驚きのあまり身動きが取れない。
女性の部屋に入り込むなどありえない事である。
グスタフは掴んだ手でイヴェットをベッドに投げた。
「ここの娼婦は最悪だ! お前のほうがまだマシだな。ヘクターとはヤってないんだろう? 酔ったあいつが言っていたぞ。可愛がってやってくれとな。仕方がないから面倒を見てやる。この私に抱かれる事を光栄に思え」
グスタフは酒臭い息をまき散らしながら赤ら顔でズボンを緩めていた。
(こわい)
体格のいいグスタフがイヴェットの伸し掛かると身動きが取れなかった。
それ以上に逃げようとしてこの酔った男を刺激すると殺されるかもしれないと思うとイヴェットは震える事しかできない。
(トレイシーだけでも逃げて……)
なんとか少しでもと防御しつつ視線を動かしてトレイシーに逃げるよう視線を送る。
その視線を受けてトレイシーは呪縛が解けたように動き出し、バッと身を翻す。
(よかった)
こんな恐ろしい事にあの子を巻き込みたくない。だから逃げてくれて本当に良かった。
同時に心細さがせりあがってくる。恐ろしい。こわい。
目を閉じると涙が落ちた。
「イヴェット様!!」
その時威勢の良い声と共に鈍い音がした。
目の前のグスタフがぐるりと白目を剥いて横に倒れこむ。
その後ろになぜかトレイシーがいた。手には水の入ったバケツを持っている。
「イヴェット様、早くこちらに!」
呆けたイヴェットの手を取り、トレイシーが一生懸命イヴェットを引っ張り上げる。
ベッドから離れた場所でどちらともなく抱きしめあい、そこでやっと身体がガタガタと震え始めた。
「イヴェット様……」
「……っ」
トレイシーがいなかったら今頃どうなっていただろう。
だが二人が落ち着くのを待つだけの時間はなかった。
カペル夫妻とパウラは同部屋であり、寝ているにしろ何にしろそろそろグスタフが帰ってこないと怪しむはずだ。
もし先ほどの事がバレたらオーダム伯爵家の醜聞であり、イヴェットの傷になる。
被害者であっても「グスタフを誘惑した悪女」となり今後ずっと後ろ指をさされるのだ。
カペル夫人も慰謝料を求めるだろう。
ヘクターもこれ幸いと傷物の妻と離縁して愛人と一緒になるに違いない。
被害者はイヴェットであっても、どうあってもイヴェットだけが損をするのである。
「イヴェット様、どうしましょう」
トレイシーもそれは理解しているのか、青ざめた顔でなんとか立ち上がろうとしていた。
(私も同じくらいひどい顔をしているのでしょうね)
意識を仕事モードにしてイヴェットは立ち上がった。
見るのも嫌だがグスタフの脈と呼吸を調べて問題が無い事を確かめる。
意識は失っているが死んではいない。ほっとしたような残念なような気持ちだ。
近くにいたくないのですぐに離れる。
「なるべく早く片付けましょう」
この部屋はヘクターとイヴェット、そしてトレイシーの部屋用のだった。
しかしさっきのグスタフの発言からするとヘクターは飲み明かしているか娼館で羽目を外しているのだろう。
オーダム邸も夫婦の寝室は分かれており、屋敷にいたとしても意識的にイヴェットと同じ空間にいたがらなかった。
今日もおそらく帰らないはずだ。
(いえ、これはむしろ幸運だったかもしれないわ。この場に彼がいたら最悪襲わせていたかもしれない)
そこまで肝が据わっているとは思わないが、イヴェットに逃げ道はなくなっていただろう。
イヴェットはガウンではなくコートを着、食堂に降りていった。
流石にもうひと気はなく、店番の男が皿洗いをしていているくらいだった。
「あのう」
「悪いがもう終わりましたよ。パンか干し果物ならいくらかでお譲りしますけどね」
「いいえ、今は食事は必要ありませんわ」
イヴェットはこれ以上なくか弱く、貴族らしく見えるように話しかけた。
そうして店番の手をとると、そこに金貨を握らせた。
手の中身を確認して驚く男に困ったような表情で助けを求める。
「こりゃあ……」
「あなたの力が必要なのです。助けてください」
グスタフはまだベッドの上で伸びていた。
「運ぶのは骨が折れそうですね」
「ですから、ね」
口止め料も兼ねて金貨を渡したのだと暗に告げる。
「この方は知り合いなのですが、酔って部屋を間違われたみたいで……。このままベッドを占領されて眠れないと困りますわ。かといって私では運べませんし、男性が女の私の部屋にいるのはあらぬ誤解を招きますでしょう? この方にもご迷惑をおかけしますし」
ね? と何も分からぬ令嬢を演じる。
店番の男がイヴェットの顔と手の中の金貨を見比べて、了承した。
グスタフ運びは意外にも静かに行われた。
斜め向かいのカペル夫妻の部屋に移動させる時に誰にも会わなかったからである。
パウラは既に寝ていた。
婦人もグスタフの酒癖は知っているのか眠いのか、あるいはその両方なのか「この旦那が酔って階段を落ちた所をお嬢様に聞いて運んできた」という言葉をすんなり受け入れていた。
「あらごめんなさいね。この人重かったでしょう」
「はあ、まあ。でもお客様なんで」
それをイヴェットは自室のドアを少しだけ開けて聞いていた。怪しまれていない。大丈夫だ。夫人が部屋に入ったのを見てそっとドアを閉じる。
「イヴェット様。差し出がましいとは思うのですが私のソファで寝ませんか?」
ベッドは二つ。そしてトレイシーが使う予定だったカウチソファがある。ただしその内の一つでグスタフに襲われたのだ。正直そこで寝るくらいなら床の方がマシ、許されるなら外で寝たいくらいである。
「それに関して一つ提案があるのだけれど。……一緒に寝ない?」
トレイシーは躊躇していた。きっと床で寝るつもりだったのだろう。こんな状況でも使用人の鏡である。
「あなたを床で寝させたくないっていうのもあるけれど、怖いのよ」
それは偽らざる本音だった。
ドアには鍵があり、簡単なバリケードも置いてある。
誰かが入ってきたらすぐに分かるが、だからといって安心できるかといわれるとそんな事はない。
それはトレイシーも同じらしく結局は一緒にソファに座って寝た。
勿論ぐっすりというわけにはいかず、目を閉じて長い夜をすごし、ただ朝を迎えたというだけだ。
朝日が顔を出すか出さないかくらいにはドレスに着替え、食堂が始まると一目散に駆け込んだ。
メニューは昨日の夜と代り映えしなかった(果物が干しりんごになっていた)がやはり温かいスープが嬉しい。
正直食欲などなかったが今日にはピスカートルに着く。
ただでさえトラブルを起こす人々なのですから、とトレイシーに言われ無理やり胃に入れた。




