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馬車は軽快に走っていた。

 御者も熟練者であり、トラブルもなく馬を操り予定通りに馬車を運んでいる。


 そこへ「きゃあああ!」と悲鳴が響いた。

 何事かとイヴェットは飛び起きるが、トレイシーもまだ把握していないらしい。

 声は若く上から聞こえたのでパウラのものだろう。

 がたがたと階段に繋がるドアを開けようとしているようだ。


「奥様、雨が降り出したようです」


 窓の外を見ると確かに雨筋が走っていた。

 すぐにパタパタと雨音も聞こえるようになり、ドアを開けようとする音も大きくなる。


「何をしているのかしら」


 風にかき消されてよく聞こえないがあけなさいよ!といった感じの声もする。

 しかし二階に取り残されることを防止する為に鍵の開閉は二階でしかできないのだ。

 イヴェットにはどうする事もできない。

 たまにすれ違う馬車の乗客がぎょっとして二階を見ている。

 珍しい魔動馬車な分注目されやすいのだろう。


「もしかして鍵をかけたのが自分なのを忘れているのかしら」


 そうこうしている内にも雨脚は強くなっていく。

 鍵の事を忘れていたとしても幌を全て下ろせば普通の馬車と同じように雨風をしのげるのだが、そこまで気が回らないのかもしれない。

 とはいえそれをどう伝えようかとイヴェットが悩んでいると状況に不釣り合いな笑い声が前方から聞こえた。

 連絡窓から覗いてみると御者が爆笑している。


「あの、どうされました?」


 小ぶりの窓を開けてトレイシーが御者に尋ねると、御者は振り向いて、またすぐ前を向いてヒイヒイ笑いながら答えた。


「いや、上で雨に右往左往してらっしゃるでしょ? こんな貴族の片は見た事がないもので、つい。すいませんね」


「彼らは鍵の事を忘れているようなんです。どうにかお伝え出来ませんか」


「ああ~そうですよねぇやっぱり。馬が冷えるのであんまり停めたくなかったんですが」


 御者は手元を繰りゆっくりと馬車の速度を落とし、路肩に停車させた。

 そうして馬車の外側に取り付けてある非常用タラップを登り、半ば恐慌状態に陥っているダーリーン達に何事か説明を始める。


「このまま二階にいらっしゃるなら幌を出しましょうか?」


「何を言っているんだ!」


 御者の呑気な物言いにグスタフが即座にキレた。


「馬車が整備不良だったせいで、見ろ! びしょ濡れだ! お前のせいだぞ!」


「一階に降りるドアが開かなくなったのよ! どう責任を取るつもりかしら」


「イヴェットがこんなことをするなんて……。やっぱり僕たちが邪魔なんでしょう。あわよくば病気になればいいと思ってるのかもしれない」


「なによそれ! ひどい話だわ! せっかく来てあげたって言うのに」


 各々我先にと非難轟轟である。


「あのですね、一階への扉は二階にしか鍵がないんですよ。それも非常用なので普段は使われないよう説明したはずなのですが」


「は、はあ?」


 特殊な馬車なので乗車前に簡単な説明があった。

 難しい事ではなく、車内で暴れないようにとか御者の指示には従うように、といった基本的なことだ。

 その中に鍵についての説明もあったのだが、珍しい魔動馬車、そして二階部分に気を取られて誰も聞いていなかったらしい。


「まあその、少し考えれば分かると思って停車までお時間かかってしまいました。申し訳ありません」


 御者がロックを外して扉を開けながら謝るが、ダーリーン達は立ち尽くしていた。


「あの、まだ雨は降っていますが入らないんですか? やはり幌を出しましょうか?」


 声をかけられてはっとしたのか、そそくさと一階へ降りていく。

 それを見送って御者は台に戻り馬を走らせ始めた。


 窓には雨筋が、車内には沈黙だけが流れている。

 気合を入れた衣服はみなそれぞれぐっしょりと濡れそぼり、頭からぽたりぽたりと雫も垂れていた。

 すぐさまトレイシーが気を利かせて車内に積んでいるケースからタオルを取り出して配りはじめる。

 その間にイヴェットは馬車に備え付けてある毛布を用意しておき、滴るほどの水分がなくなったタイミングでを差し出す。


「奥様、私がやりますからどうかお休みになってください」


「いいのよ。夜に宿でまた寝るにはもう起きていないとね。皆さんも寒いでしょうし」


 雨に濡れたまま風を受けていたのだからさぞ身体は冷えているだろう。

 今日の宿まではあと数刻といった所だから、それまでは我慢してもらうしかない。


 しかし鍵をかけられるのは二階の乗客だけだと知ってからダーリーン達は居心地が悪そうだった。

 パウラはもう思い出している頃だろう。

 誰がどういう目的で鍵をかけ、それをすっかり忘れて二階に取り残されたのかを。

 勿論カペル夫妻もヘクターもダーリーンもなんとなく検討はつけているだろうが、身内に辛く当たる事はできないようだった。

 イヴェットのせいだと騒いでいたあの時の勢いは見る影もない。


 騒動のせいか少し予定は推したものの、馬車は問題なく宿場に着いた。

 馬車街道沿いにある小さな町は街道の通過客がひっきりなしに入るようで賑わっている。

 日の落ちる直前は特に寝る場所を求めて人が集まるようで、徒歩、馬、馬車とそれぞれ宿を求めていた。

 イヴェット達は街の中でもランクの高い場所に泊まる。

 食事が出て、個室にベッドがある。ものすごい贅沢なのだが、費用は全てイヴェット持ちなのだからと当然のように要求されたのだ。


「なによ、こんな寒い思いしてるのに安宿に泊まれっていうの? 人でなし!」


(自業自得なのでは)


「おい使用人、すぐに熱い湯を用意しておけよ」


「はい」


 魔動馬車は目立つので常に覆いをかけるらしいが、そもそも大きいのでその辺に留めているだけでも普通に目立つ。

 高級宿の管理人に話を通し、馬車停めではなく裏庭に置かせてもらう事にした。馬にもしっかりと休んでもらう。



「は~……。移動するだけなのにこんなに疲れるとは思わなかったわ」


 トレイシーは衣服の処理や湯の用意に追われている。

 ダーリーン達は乾いた服に着替えるとすぐに一階の食堂に降りていった。

 今ごろお腹を満たしていることだろう。

 魔動馬車はダーリーンが用意させたものだが、彼らといる時間が短くなるのであればむしろ助かったのではないだろうか。

 非常に高くついたが今の所心はお金で買えないのだ。

 そこにトレイシーが熱いお湯を入れたバケツと水を入れたバケツを持って部屋に戻ってきた。


「イヴェット様、お湯の用意が出来ましたよ。先にお身体を清めてください」


「悪いわね。ああ、服は自分で脱ぐからいいわ」


「ですが……」


「旅行中は色々と手が足りないと思うの。自分で出来る事はやっていくから、その分彼らに注意を払ってもらえるかしら」


「わかりました」


 イヴェットがドレスを寛げている間にトレイシーは大きなたらいを部屋に用意し、そこにお湯と水を入れ音頭を確かめる。

 少し熱いくらいの温度になったのを確認し、タオルを沈め、硬く絞る。


 清拭が済むとイヴェットは寝衣に着替えてのんびり過ごすことにした。

 食事はトレイシーが食堂から持ってきてくれるので一緒に食べる約束をしている。

 燻製肉が二切れ入った温かい野菜のスープと保存に最適なライ麦の黒パン、チーズに干しアプリコットまでついていた。

 イヴェットとトレイシーはスープを一口飲み、その後黒パンにチーズを挟んでかぶりつく。


「沁みるわね。旅の中でこういうものが食べられるのは僥倖だわ」


「一階の食堂は誰でも入れますし、スープ以外は旅の保存食として別途購入できるようです」


「あら商売上手ね」

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