104 市場で
バーバラ様の件は、とりあえず海の向こうに手紙を送り、返事が来るまで待つしかない。
私は毎日サンドル君とアルバート君に料理を教えている。
責任感が強いサンドル君は必死にメモをして聞いていて、家でも練習しているらしい。
「マイさんと同じ味になるかなあ」
「やればできる!」
「マイさんは楽天家だからなあ」
サンドル君が不安そうだ。彼の不安を減らすために、レシピを紙に書き出してわかりやすくした。
覚えてほしい料理は材料と調味料を全部きっちり計量し、記録した。
二人に任せられる料理がひと品ずつ増えていくのが、私は楽しい。
客足も戻りつつある。何もかもが順調だ。
そんなある日の昼間、野菜と肉の選び方を教えるため、店を休憩中にして三人で市場へ向かった。
ゴウゴウと強い風が吹いていて、たまに私がよろめいた。
遠くの空に浮かんでいる黒い雲を見上げていたら、アルバート君が面白いことを教えてくれる。
「ばあちゃんの受け売りですけど、『嵐は奪って与える神の使い』だそうですよ。大雨で人の命や作物を押し流す一方で、雨や雷が大地に豊かな実りを運んでくるって」
「嵐は奪い与える神の使い……含蓄あるわね」
「でしょ? ん? あれ? 焦げ臭いですね」
アルバート君が鼻をクンクンさせている。確かに焦げ臭い。
「あそこだ!」
サンドル君が指さす上の方を見ると、五階建ての集合住宅の三階の窓から、真っ黒な煙が出ている。火事が風上だから焦げている臭いがこの辺りまで。
私は全力で走り出した。背後からサンドル君が叫んだ。
「マイさん! 近づいたら危ないっすよ!」
「行かないと!」
建物の前に着いた。三階まではだいぶ距離があるけれど、やるしかない。両手を持ち上げた。
野次馬を火事から遠ざけている警備隊員に「ちょっと! あんた! 下がって!」と言われながら水魔法を使う。
私の両手の先にバスケットボールぐらいの水の球が浮かんだ。周囲の見物人から「おお!」と驚きの声が漏れる。
空中に浮かんでいる水の球は、ゆっくり回転しながらどんどん大きくなっていく。
両腕でも回らないぐらい大きくしてから、それを風魔法で火元へ送る。水の球はスーッと移動し、窓の中に入る。バシャンと水が床に落ちる音。それを何度も繰り返す。でも、これじゃたぶん火は消えない。どうしたらいいか思いつかず、焦る。
「人がいるぞ!」という叫び声。火元の部屋の右斜め上、四階の部屋だ。
幼児を抱いた若い女性が「助けて! 廊下が燃えてる! 助けて!」と叫んでいる。
私が助けなきゃ。絶対に助けなきゃ。どうやったら効率よく火を消せる?
焦っているとサンドル君がどこかへ走っていき、すぐに猿人の姿で戻ってきた。なんで? こんなに人がいるのに!
「うわあ! 獣人だ! 逃げろ!」
集まっていた人が逃げようとして押し合いへし合いを始めた。サンドル君は群衆に目を向けることもなく建物のエントランスの屋根に飛び乗った。そこから二階の窓枠に飛びつき、立ち上がる。再び恐るべき跳躍力を見せて三階の窓枠に指先だけでぶら下がった。
逃げ惑っていた人々が静かになった。全員が無言でサンドル君を見ている。
サンドル君は窓枠に指先でぶら下がった状態で体を振り子のように動かし、外壁の幅の狭い出っ張りに飛び乗った。
そこを足場にして四階の女性がいる窓の下に移動した。女性は怯えて幼児を抱いたまま窓辺から奥に引っ込み、見えなくなった。サンドル君が四階の窓脇に飛びつくと、するりと窓の中に入って消えた。
「襲われてんじゃないのか?」
「いや、助けに行ったんだろう?」
「獣人がそんなことするか?」
「獣人なのに火を怖がらないんだな」
興奮した声が飛び交う中、気づけばアルバート君もいつの間にか大型猿人となって壁をよじ登っていく。
「また現れたぞ!」
見物人と警備隊員が見上げる中、最初にサンドル君が幼児を左腕に抱えて姿を現した。幼児はギャンギャン泣いている。サンドル君が下を見おろして躊躇している。どうするつもり? まさか四階から飛び降りないよね? そんなことをしたら子供が危ないよね? 私が、私がなんとか……なんとかしなくちゃだよ。
数秒だけ考えて、ひとつ方法を考えた。
「待って! 階段を作る!」
サンドル君がうなずいた。
水魔法は中止だ。心の中で階段をイメージして土魔法を発動する。
周囲の道の土がズルズルと動き始めた。近くにいた見物人が悲鳴をあげ、動く土に巻き込まれないように後ずさる。
私は両腕を動かして土を操り、建物の外に階段を作る。一階から二階へ、二階から三階へ。右に左に折り返す幅の狭い土の階段。
道から土が移動し続け、通りの真ん中にできたすり鉢状の穴がどんどん大きく深くなっていく。
離れた場所にいる人々も道に生まれている大きな穴に気づき、「は?」という顔をしてる。
ごめん、穴は後でなんとかするから。
道から移動する土、伸びる階段、両腕を動かす私。たくさんの人が私を指さして何か言っている。
移動させた土を圧縮し、絶対に崩れないようガチガチに固めなくては。
梯子なら早く作れるけど、あの子供や女性が落ちたら意味がない。
急げ、私!
焦りと緊張で吐き気がする。落ち着け、落ち着け。ちゃんと息をして。丁寧に均一に階段を作れ。
土の階段が四階まで届くのを待って、サンドル君が幼児を抱えて階段に立った。そのまま階段を駆け下り、地面に幼児を立たせた。サンドル君はアルバート君が母親と階段に立ったのを確認して、走り去った。母親は高さと獣人に怯えて動かない。
「その子を信じて! 階段を下りて! その階段は絶対に崩れないから!」
私がそう叫ぶと、女性がアルバート君を見た。猿人姿のアルバート君が女性に何か言って手を差し伸べる。女性が手をつないだ。二人は前後になって手をつないだまま階段を下りる。
アルバート君と女性が無事に地面に下りると、子供が駆け寄った。
「ママ!」
「ああ、ビスタ! よかった! よかった! ありがとうございます! 助けてくれてありがとうございます!」
アルバート君はコクリとうなずくと、人垣を突っ切るようにしてサンドル君が消えた路地へと走り去った。人垣はアルバート君が近づくと、サッと割れて彼を通している。
やれやれひと安心だ、と思いたかったけれど、火事は消えていない。四階の親子がいた部屋からも、今や炎が盛大に吹き上がっている。強風が炎を煽っている。消防隊らしい人たちは、中に入る様子がない。
燃えにくい布も酸素ボンベもないんだから、そりゃ無理か。
この強風だ。火が周囲に燃え広がったら、大惨事になるだろう。
魔法を使うことに夢中で気づかなかったけれど、最前列で群衆整理をしている警備隊の中にヴィクトルさんがいた。心配そうに私を見ている。大丈夫、私が消すから。
水魔法で畳一枚分くらいの大きさの分厚い雲を作った。それを操って開いている窓から中へと雲を送り込む。雲が部屋の中に入ったところで薄く広く広げ、雨を降らせる。中の様子がわからないからイメージのみだ。
頼む! 消えて! 火事を広げたくない!
繰り返し雲を作って送り込んでいると、噴き出していた真っ黒の煙はやがて白っぽい煙に変わり始めた。
次第に煙の量が少なくなる。持ち上げ続けていた腕がだるい。魔法を使い始めてからどのくらい時間が経ったかな。一時間は経ったよね。
煙がほとんど出なくなり、ヴィクトルさんが私に近寄ってきた。
「マイさん、あとは消防隊がなんとかします」
「わかりました」
走って人垣を突っ切り、隠れ家へ急いだ。店に着くと先に戻っていたサンドル君たちが揃って頭を下げる。
「マイさんに何も言わずに行動して、すみませんでした!」
「俺もすみませんでした!」
「なんでよ。謝ることないわよ。あなたたちは立派だった。獣人が怖くないこと、勇気があること、知ってもらえたわよ。それに、誰が変身したのかわからないようにしたのも賢かった。あなたたちだって怖かったでしょうに、親子を救った。私はとても誇らしかったよ」
二人がモジモジしている。
「火事を見ていたら、俺らが捕まったあの夜を思い出しました。リドリック憎さに放火しようとしたのは、大馬鹿でした。マイさんたちが止めてくれなかったら、今頃俺は、たくさんの人を死なせていたかも。火事があんなに恐ろしいとは思いませんでした」
「問題は顔を晒した私かな。もう隠れないと決めたからいいんだけどさ。面倒なことにならないことを祈るわ。それより火傷は? してない?」
二人とも背中や腕に火傷をしていた。
「早く言いなさいよ」と言いながらポーションを飲ませ、火傷にもザバザバかけた。
「あの獣人は誰だと聞かれても、知らないって答えるね」
「そうしてください」
二人とはそう約束をした。
覚悟の上だったけど、私の顔は覚えられた。市場に行くと「魔法使い様、この前はありがとうございました」とか「魔法使い様、素晴らしいご活躍でしたね」などと言われるようになった。「あの人よ、この前の火事のときにさ……」という声もよく耳にする。
いいんだ。気にしない。土の階段と道路の穴は、その日の深夜に私が元に戻しておいた。
ヘンリーさんはお城で宰相様から「お前の婚約者はすごい活躍をしたらしいな」と言われて、初めて火事で私が何をしたか知ったらしい。なぜ話してくれなかったと怒るかと思ったが、怒られずに心配された。
「多くの人に顔と能力を知られたのですから、戸締りはしっかりしてくださいね」
「ええ。そうします」
火事の日以降、寝るときは家全体を結界で包むようにしている。
だけど、熟睡すると結界が消えてしまうことを、私は後日知った。






