*10* 偽りも、やがては。
学園が夏期休暇に入ったのは知っていたものの、当然大人になればそんなものはない。むしろ宰相家という生まれのせいか、学生時分からそういったものとは縁が遠かった。
そこへきて夏や冬は文官の書類仕事が特に増える時期でもある。
その理由としては、様々な天候不順で引き起こされる自然災害やその後に出てくる公共物の補修費用額の算出、さらにそれに伴う農作物や畜産物の成長不良などが考えられる為、色々な影響を及ぼす前から、先々の準備をする必要があるからだ。
毎日外界の暑さとは無縁でいられる代わりに、机の上に山と積まれた書類の壁に囲まれ、アルバートと二人して忙殺されそうな時間を執務室で過ごしていたのだが、不意に終わりがない業務の中でアルバートが――、
『……おい、クリス。ここはもうお前が居ようが居まいが、作業の滞り方は大して変わらん。そんなことならいっそ、夏期休暇中のレイチェルに顔でも見せて来たらどうだ。休暇が始まってからもう二週間だろう? きっと夏期休暇の初日から、ずっとお前が来るのを待っているぞ』
……などと言うものだから。うっすらそうではないかと感じてはいたものの、職務放棄することも出来ずにいたので、アルバートにしては珍しい気遣いを有り難く受け取ってコンラッド家の屋敷へと出向くことにした。
四ヶ月ぶりに会ったレイチェルは、記憶の中の彼女よりほんの少し身長が伸びて、ふっくらとしていた頬がややすっきりとした印象だ。子供らしい幼さが抜け始めた少女は、見た目的な成長を止めた大人の中で働くボクには新鮮に映った。
しかし、いつもなら子犬のように目を輝かせて出迎えてくれるはずの小さな婚約者は、まるでボクと会う前に親しい者の葬儀にでも出たかのような、沈んだ表情をしていた。その顔を見た時の正直な感情を言い表すなら“どうにも面倒な時に来てしまった”だろうか。
夏期休暇に入る前に送られて来たレポートの内容は、いつもと同様に纏まりに欠けた日記のようで、日々の楽しい出来事に胸を踊らせていることが読み取れた。
だとしたら、何故この目の前にいる彼女はこんなにも浮かない表情をしているのだろう?
けれどその表情が気分を害するほどかといえば、それも違う。自分でもよく分からないものの、ボクは初めて見るレイチェルのそんな表情を疎ましいとは思わなかった。しかし、並んでいつも二人でお茶を飲むテラスへと向かう廊下でも、レイチェルは一言も発さない。
ただ、時折何かを訴えるような眼差しを向けてくるものだから、それを無視してテラスまで向かうことも可哀想に思えた。ちょうど庭園がある方角の窓の外へと視線をやれば、真夏の日差しを一身に浴びた花々が、今を盛りと咲き乱れている。
――だからだろうか。
自分でも意外な言葉が出たのは。
「ここの庭園は相変わらず見事ですね……。どうでしょう、良ければ庭を案内してくれませんか、レイチェル」
助けるつもりで提案したその内容に、けれど。
レイチェルの深い湖のような青い瞳が、不安気に揺れた。
***
ボクの急な申し出に、リンダを始めとする使用人達の発する空気は夏だというのに随分と涼しいものへと変わったが、表面上は穏やかにレイチェルへ日傘や帽子といった日差しへの対策をさせてくれた。
一言も喋らないレイチェルの代わりにリンダに人払いを頼み、今も周囲の気配を探っているが、一応聞き入れられているようで、ボク達以外に人の気配はない。
最初は並んで歩いていたものの、一向に打ち解ける様子のないレイチェルから数歩離れて、咲き誇る花々の花弁にそっと触れる。そんな風に過ごすだけでも、この屋敷の庭園は価値があった。それはひとえに、父親の帰りを待つ幼いレイチェルの為に用意された優しい世界だ。
一瞬だけ仕事仲間であるエッフェンヒルド領の二人……いや、小さいのも含めれば三人分の顔が浮かぶ。無神経な訳でも愚かな訳でもないというのに、あの一家はどうしていつもああ幸せそうなのだろうか。
そこまで考えてから、そういえばもっと身近に幸せそうな家族馬鹿が二人いたことを思い出す。だとすれば、そうあれないのはボク自身のせいに他ならない。何よりもこの現状がそれを物語っている。
ぼんやりと花弁を弄っていたら、いつからそうしていたのか、隣に立つレイチェルが、背伸びをしてボクの頭を夏の日差しから庇おうと日傘をさしかけていた。そのまだ翳りのある横顔に「ありがとう」と述べてから日傘を受け取り、今度はボクが代わりにレイチェルへとさしかける。
すると少しだけ落ち着いてきたのか、ポツリポツリと、ところどころぼかしながら“知人”のすれ違い話を聞かされた。レイチェルの交友関係の狭さから推測するまでもないことだが、どうにもあのヴァルナ家の者達のようだ。
話の内容は要約してしまえば、取るに足りない痴話喧嘩のように思えたが、レイチェルにとっては大事だったのだろう。
だからこそ「クリス様も、わたくしに嘘や隠し事をなさっていますか?」とレイチェルが訊ねてきた時も、遅かれ早かれこの手の話はすることになったはずで、それが思ったよりも少し早まっただけだと分かっていた。だというのに何故か、心が冷めていくのを止められない自分に軽い苛立ちを覚える。
「成程……大体話の内容は理解しました。では、仮にボクがその“知人”のように、君に嘘をついていたとしましょう。だとしたら、レイチェル。君はボクの何を信じたいのですか? そして、どんなところが疑わしいのです?」
「それは……まだ、分かりません。でも、もしもそうだとしたら、悲しいです」
「そうですか。分かりもしないのに君に疑われたボクも、同じように悲しいとは思いませんでしたか?」
無論そんな馬鹿げたことは有り得ないものの、少し意地悪くそう問いかければ、こちらを見上げてくるレイチェルの表情が僅かに強張る。……まるで、本当にボクを傷付けてしまったのではと恐れるように。
ああ、この子は本当に馬鹿すぎる。
どうして未だに目の前にいる婚約者が、そんな風に真っ直ぐな心を向けられるような人間ではないことにも気付かないのか。
「学園で五ヶ月過ごせた今の君にだから言いますが、ボク達の婚約は物語に出てくるような綺麗なものではありません。むしろその真逆で、大人の手垢にまみれた政治的なものです。我がダングドール家は、君の家が持つ貿易路が欲しかった。敵対されたならば困窮し、味方にすればこれほど心強いものはないですからね」
これ自体は嘘ではない。レイチェルの生家であるこのコンラッド伯爵領は、数ある貿易路の中でも特に重要な場所に位置し、加えて国外との貿易が盛んな海路も有している。
父親であるコンラッド伯は娘を溺愛しているが、仕事となれば切れ者で知られ、下手に親しい貴族を作らない。政治には無関心な彼に取り入りたい貴族は多くいるにも関わらず、誰とも深く付き合おうとしないのは、一人娘のレイチェルを危険な目に会わせたくないからだった。
しかしいくら断ろうと、次々に持ち込まれる縁談を前に頭を悩ませていたコンラッド伯の元へ、真打ちとして現れたのがボクの父である現宰相、ジュード・ダングドールだ。宰相家など、政権争いに熱心な魑魅魍魎の巣窟ともいえる場所。
きっと最初は断ったであろうコンラッド伯に“下手に地位の低い貴族に嫁がせれば、より危険ではないのか?”とでも仄めかしたのだろう。父はそういう人だ。
実際第二王子と騎士団長の息子が幼馴染みであるダングドール家に、そうそう楯突こうとする家はない。息子である自分にその縁談の話が届いたのは、全てが整った後だ。
最初から仕組まれただけの婚約にボク達の心など関係がなかったし、手駒として使われた当のボク自身も興味がなく、どこか遠い話だと感じていた。
「……ボクはね、レイチェル。人として感情にどこか欠陥があるのだという自覚があります。現状から言えば、ボクには幼馴染み達の二人のように、誰かを深く愛したりは出来ないでしょう。だから結婚してから思い描いた生活ではないと嘆くよりも、早く自ら気付いて選んで欲しかった。本音を言えば、君に逃げて欲しかったのかもしれません」
言葉にして初めて自らの本心に気付く。ああ……そうか、自分は彼女に逃げて欲しかったのかと。元よりアルバートやハロルドとは違い、妻になど望んでいない男の元へ嫁いで不幸になるくらいなら。
宰相家に嫁げば公の場に顔を出す機会は多く、今までのようにレイチェルを庇ってくれる大人と行動させることは出来ない。彼女が望む望まぬに関係なく“宰相家の息子の妻”として多くの輩が汚い思惑を抱いてすり寄るだろう。
レイチェルの、愚かすぎるほどに“素直”なところが気に入っている。
裏を返せば、自分は彼女にそれだけしか求めていないのかもしれない。
だとしたらそんな男のために、煌びやかな見た目をし、隙あらば人を貶めて這い上がろうとする汚い人間の渦巻く世界に立ち入らせるなど――どうかしている。
きっとあの汚れた場所に連れて行けば、優しいだけの世界しか知らないこの子は、笑わなくなるだろう。笑えなくなるだろう。
――……そんなことが、ボクは自分で思ったよりも嫌だったのか。我がことながら実に下らない。こんな感情が何の役に立つというのか。
「幸いボク達は歳も離れている。君が学園で他の誰かを好きになったり、誰かに見初められても、この婚約を破棄する時の世間的な傷は、同年代の人物と解消するよりもずっと浅くて済みます。若干下世話ですが、ボクが“幼すぎる婚約者に食指が動かなかった”と言えばいい」
彼女が好まない言い回しをわざとすれば、レイチェルは悲しげに表情を曇らせた。ああ、やはり――たったこれだけの悪意にもこの子は堪えられないのだと。彼女が何も疑問を持つことなくボクに嫁いでしまわなくて良かった。
この綻び始めたばかりの花を手折るのが、心の欠けた人間では勿体ない。いつか開くこの花を褒める言葉も持たない人間では駄目だ。
「婚約破棄をするなら、早い方が良いですね。ボクは埃っぽい身ですから、叩けばどれだけでも破棄の原因が出ます。君にも、コンラッドの家名にも傷はつかない。父はボクに家を継げる能力さえあれば、それ以外のことに興味がないので」
これで仕上げだとばかりにたたみかけたものの、最後に思いがけず零れた自嘲めいたその言葉に、それまでドレスの裾を握りしめて俯いていたレイチェルが顔を上げる。
「わた、わたくしは、家同士のことも、政治的な繋がりも分かりません。愚かだと嗤われるかもしれませんが、わたくしは……クリス様の“それ以外”の部分にしか興味がないのです。それを、それをそんな風にクリス様ご自身が大切にしないなんて、嫌です! 婚約破棄も……勝手に納得なさって終わらせようとしないで下さい!!」
突然そうボクを叱りつけて肩で息をするレイチェルの姿を、まるで今日初めて会った人間を見るような気持ちで眺めてしまう。煙る蜂蜜色の髪と、涙を湛えた深い青の双眸が、射るようにこちらを睨み付ける。
しかし、その直後にせっかく凛々しく見えたその表情は、すぐになりを潜めて。
「わ、わたくしは――初めてお会いした日から、クリス様が……どうしてだとか、そんなことは自分でも分からないですけれど……誰かと結婚するのなら、クリス様が良いのです」
レイチェルの発言に反射的に「それはただの刷り込み現象ですよ」と答えた自分の声に笑みの気配がすることが、何故だか妙にこそばゆくて。いずれ宰相の地位を引き継ぐ以外に初めて出来た、未来らしい未来の気がした。




