*7* 友達の心得。
午前の授業の終了を報せる鐘が鳴り、お喋りをしながらガタガタとクラスメイト達が席を立つ。そんな授業中にはなかった活気の中で、わたくしも教科書を片付けながら、リンダとの楽しいお昼休みに心が弾む。
クリス様に課題として出されていたレポートを、期限ギリギリに書き終えて提出したのは昨日のこと。実は書き上げるのに一週間もかけた大作だったのですけれど、きっとお忙しいクリス様が目を通して下さるまでには、後三日はかかりそうかしら?
それに、もしかしたらあんなに分厚いレポートを読む時間がなくて、困らせてしまったかもしれない。
だけどそれでも、ここへわたくしを編入させて下さった感謝の言葉と、初めて出来た友人の話を聞いて欲しかった。我儘をいうのなら、会いに来て褒めて欲しい、なんて。
「は~あ、しんどぉ……これでやっと午前の授業終わったとこやて。こんな疲れてんのに昼一時間休んだ程度で、また午後二時間もジーッと授業受けなあんのか思たらウンザリするわぁ」
そうどこか気怠げな独特の訛りのある口調で、ゆったりとこちらにやってくる、甘く香ばしいカラメル液をさらに深くしたような肌を持つ女子生徒。
同年代だというのにスラリと高い身長、癖の全くない烏の濡れ羽色の長い髪、潤んだ真っ黒な瞳にくっきりとした二重、言葉の訛りや、低く謳うような声も。全てが彼女を引き立たせている。
「まあ、そんなことを言わないでレティーナ。わたくしは午後からの授業も、放課後の時間を楽しく過ごすためには重要だと思いますわ。授業が難しいと、その後の解放感は格別ですもの」
「うう、レイチェルはホンマにええ子やねぇ。そんな可愛らしいこと言われたら毒気抜かれて、やる気のないアタシも頑張らなアカン気になってしまうやんか」
「本当に? だったら嬉しいわ」
「ホンマしょうないなぁ。そやったら、せめて美味しいご飯食べて息抜きせんなね。ほら、行こうや」
照れくさそうに微笑んでくれるレティーナに頷き返しながら席を立つ。クラスメイトと一緒に教室を出られるようになるだなんて、ほんの一週間前までは思いもよりませんでしたわ……。
◇◇◇
『おーい、レティもこの子と友達になりたいんやったら、そろそろ出て来て自分で挨拶せな。いつまでも俺任せやと、こっちの家のメイドさんが怒って連れて帰ってまうでー?』
『や、ちょっと待ってぇな。そんな暢気そうでポヤポヤした小動物っぽい可愛らしい子に声かけるやなんて……しかもこんなきつい訛り恥ずかしいし……。ああ、やっぱりまだアタシ心の準備――』
『あんな、そう言うたかて、レティの心の準備待ってたらもう一月経ちかけてんねんで? これ以上待っとったかて無駄やんか。それにレティが自分と同じでボッチなこの子が可愛い可愛いて、毎日喧しいから照れ屋な俺がこうして声かけたってんねんやろ?』
『く……何やのアンタ、おとんがおらんからて生意気に指図してからに! しかも何が照れ屋やねん! アンタが余所のメイドさん等に声かけまくってんの、アタシが知らんとでも思とんのか?』
『おーおー、物影から何やヘタレが吼えとるわ~』
『んなっ……誰がヘタレやて!? ようも雇い主の娘相手に言うたなこの糸目、覚悟はええんやろうなぁ?』
『旦那さんには“商売人の娘が内弁慶は格好つかへん。多少荒っぽくても構わんから、あれの性格直したってぇな”て言われとるから安心しぃ』
『あのオッサン……次の休暇になったら金より大事な髪の毛むしり取ったる……』
◇◇◇
ぽんぽんと飛び出す異国訛りのある言葉に、キースさんとの主従関係を越えた親しい会話の内容と『あ、あの、もしよかったらやねんけど……成金のアタシと、と、とも、友達になってくれませんか?』と涙目になって手を差し出してくれたレティーナの姿を思い出していたら、自分でも知らない間に笑っていたのか、隣を歩いていた彼女が「どないしたん? 何や可愛い顔して笑とるよ」とわたくしの頬を優しくつつく。
けれどそんなレティーナに「内緒ですわ」と返事をすれば「あ、分かった。好きな人のことでも考えとったんやろ?」と、からかわれてしまう。本当は違ったのにそう言われてしまって、咄嗟に浮かんだクリス様のお顔に頬が熱くなる。
それを見たレティーナは「ふふ、やっぱりそうかぁ。こんな健気で可愛らしい子がお嫁になるなんて、相手は幸せもんやね」と微笑む彼女とこうして並んでいると、視界の高さも相まって、レティーナとわたくしの大人っぽさに残酷な差があることに気付いてしまいますわ。
主に女性らしい胸元だとか、ほっそりとした腰だとか、近くにいるだけでソワソワしてしまう華やかな雰囲気だとか――きっとこんな風に綺麗な子なら、クリス様の隣に立っていても……と。そう思うと何故か胸の奥がツキリと痛んだ。
内心ではあっても、初めて学園で出来た友人相手にそんなことを感じてしまったことに、落ち込んで俯いてしまう。無言になって俯いたわたくしのことを、照れているのだと勘違いしたレティーナはそっとしておいてくれる。
彼女の優しさに感謝しないと。姉のようなリンダとは違い、初めて出来た友人で、しかもお家はわたくしの家と同じ貿易に力を入れる商人の家系。
貴族社会において、当主自らが商売で財を築くことを良く思わない方々も少なくない中で、レティーナと友人になれたことはとても嬉しいことだわ。彼女の従者としてこの学園に一緒にいらしたキースさんのことは、まだ詳しくはしらないけれど、これから知っていけば良いですわよね?
何よりも得難い“同性で同年代”の存在であるレティーナに、嫌われるような感情を持ってはいけない。お父様も“人を妬むとそれだけ心は安く、軽くなるものだ”と仰っていたもの。
すると一人でうんうんと納得していたわたくしの隣で、不意に「んん、あれ誰やろ……? 何やうちの糸目とリンダさんの他に、えらいキラキラした人がおるんやけど」とレティーナが警戒した声を上げる。
わたくし達は二人揃って傍につけてもらった人材が優秀だったせいか、同年代の子達と比べればかなりな人見知りなので、彼女のそんな声に不安を感じずにはいられない。だから初対面の人に挨拶を顔を上げて……直後に信じられない思いを胸に駆け出した。
自らが生み出すパタパタという足音が、この学園の子女らしからぬ行為を咎めているように感じるのに。
いつもとは違う時々学園内ですれ違う聴講生達のような格好をしていても、その背中を、立ち居振る舞いを、わたくしが見間違うはずがないの。
一番最初にわたくしの存在に気付いたのはリンダ。次に背後からわたくしを呼ぶレティーナの声に気付いたキースさん。そして一番最後に振り返ったその顔を見た時に、胸の鼓動が一際大きくなった。
「……レイチェル、子女がそんな風に走るのははしたないと、いつだったか幼い君に教えたはずですよ?」
直前で勢いを抑えて踏みとどまろうとしたはずなのに、そう出来なくて胸の中に飛び込んだわたくしを抱き留めて下さったクリス様が、少しだけ呆れた声を頭上から落とすけれど……恥ずかしいよりも嬉しさの方が何倍も上回ってしまう。
ギュウッとしがみついたシャツからは、学園に来てからというもの一度も嗅ぐことのなかった、クリス様のミントを使った香水の香りがして。ほっそりとしていて綺麗だけれど、丸みを帯びたリンダの女性の指とは違う、男性らしく角張った指が優しく髪を梳いてくれた。
両側から「お嬢様、良かったですね」「へえ~、レイチェルちゃんは見た目によらず大胆さんやなぁ」と声がして、とっても軽率なことをしてしまったと思ったけれど、もう遅いです……。
気を取り直して“どうしてここにいらっしゃるの?”と訊きたいはずの言葉はけれど、喉の奥に張り付いて出て来ない。
そんな内心での葛藤の中、背後から追いついて来たレティーナが「えっと、この綺麗な男の人……どちらさん?」と困惑した声を上げるのが聞こえ、慌てて紹介しようとシャツに埋めていた顔を上げて振り返る。
でも少しだけ冷静になったわたくしが口を開くよりも早く、抱き留めていて下さったクリス様の方が口を開いた。
「ああ、貴女がレイチェルが手紙で初めて出来たと自慢していた、ご学友のレティーナ・ヴァルナ嬢ですね? 手紙に書かれていた通りお美しい方だ。初めまして、ボクはクリス・ダングドールと申します」
自分で書いた手紙の内容だというのに、クリス様がレティーナを褒める言葉が、誇らしいと同時に苦しい。せっかくしまい込んだはずの汚い心が、再び浮上しそうになって自己嫌悪に陥ったわたくしの耳に届いたのは――。
「多少歳は離れていますが、レイチェルの婚約者です。以後お見知り置きを」
そうシャツに香るミントのように涼やかに、レティーナに微笑みを交えて挨拶をしたクリス様は、少しだけ身を屈めて。
「君がここに来るまでにリンダとキースに聞きましたよ。ちゃんと頑張っているようですね、レイチェル」
耳元でそっと囁かれたその言葉は、授業でもらえるどんな【優】の文字よりも嬉しかった。




