*5* 社交の心得。
午前の授業を終えてお昼休みの鐘が鳴った途端、同級生の女子生徒達が一斉に制服のスカートを翻して談笑しながら教室を出て行く。その後ろ姿を今日もまた呼び止める勇気もなく、誰もいなくなった教室をトボトボと一人で出て行くという行為を始めて早いものでもうすぐ一月になる。
クリス様が学んでいたという学園はお話の通り広々として立派で、王城の一部だと言われても納得してしまうような場所ですわ。こんな風に同年代の子達が大勢いる場所などは、新年の挨拶にお呼ばれする時くらいなわたくしには、少し荷が勝ち過ぎな気もします……。
うう、初等部からある学園の中等部からの編入なんて――すでに出来上がっている仲良しグループの中に飛び込むことの難しさを、今まで少しも知りませんでした。クリス様が仰っていたのはこういうことでしたのね?
せめてリンダが同じ年齢でクラスメイトだったなら……とは思うけれど、それだと彼女の迷惑にしかなりませんし、リンダほど素敵な女性ならあっという間にクラスに馴染めてしまうはずだわ。
それに彼女は下級貴族の娘だと自身のことを言うけれど、編入試験を試しに受けたら満点だった。以前何のはずみかリンダが自分のことを卑下する発言を聞いたクリス様が、才女に身分なんて関係ないと仰っていたじゃない。
クリス様のご友人であるイザベラ様は、この学園でも有名な才女だったと言っていたもの。……いつかわたくしも、あんな風にクリス様に褒めて頂けるようになりたいですわ。
そんな情けないことを考えながら目指す先は、すっかりお昼の定番になってしまった学園の裏庭。実家ほどではなくとも、この時期はそれなりにお花が咲いていて少しだけ心が癒されますわ。思わず背中を丸めて溜息を吐きそうになるのを、ぐっと堪える。
そうですわ……こんなことでは、見聞を広げるように学園への編入を勧めて下さったクリス様に合わせる顔がありませんもの! わたくしまだまだ諦めませんわ!
けれど志も新たに拳を握りしめていたら、いつの間にか裏庭までやってきていたようで、少し離れた木陰でお昼の準備をしてくれていたリンダが「お嬢様こちらでございます」と優しい微笑みを浮かべながら手を振ってくれる。その顔を見た途端、つい今胸に抱いたばかりの決意が霧散しそうになってしまう。
わたくしはリンダに手招かれるまま、しょんぼりとシートの上に腰をおろした。
「リンダ、ごめんなさい……せっかく沢山昼食を用意してくれましたのに……わたくし今日も誰も誘えませんでしたわ」
「あらあら、何も焦る必要などありませんよ。お嬢様はそのままでよろしいのですから、今のままのお嬢様と無理なくお付き合い出来るご学友でなければ、このリンダ。シートの上にはお招きしませんもの」
そうニッコリと微笑んでよしよしと頭を撫でてくれるリンダを前に、徐々に肩の力が抜けていくのが分かる。今までこの優しさに甘えて来ただけの自分が情けない。クリス様だけでなく、こんなわたくしに着いて来てくれたリンダに相応しい振る舞いをしないといけませんわ。
だってハロルド様が『レイチェルはのんびりした性格してっからなぁ、あそこじゃ舐められたらお終いだぜ?』と教えて下さったし、アルバート様も『レイチェルはあのクリスの性格を許せる良い子だからな……おかしな虫がつかないと良いが』と過分な心配をして下さったもの。
意味はあまり分かりませんでしたが――とにかくわたくしが“舐められ”たら駄目なのよね? だけど、クラスメイトにそんなお行儀の悪い方はいらっしゃらなさそうだから、そこは心配いりませんわ。
「さあさあ、そうとお分かりになられたのでしたら、早くお召し上がり下さいませ。今日は女子寮のオーブンを借りられたので、デザートはお嬢様のお好きなアップルパイですよ?」
用意してくれた紅茶をカップに注ぐリンダは優しい声音のまま、ベーコンとチーズのケークサレを一切れ勧めてくれた。それに今の最後に告げられた言葉だってとても心を揺さぶる。リンダの作ってくれるお菓子は、この上級貴族の多い学園のカフェ・テリアで販売しても、きっと毎日売り切れるほど美味しいもの。
何でも出来る、七つ上のリンダ。
いつでもわたくしの理想の淑女は彼女ですけど、ここへ来てから最初から目指す場所が過ぎると気付きましたわ。わたくしのような世間知らずはもっと低いところから着実に積み上げないと。だけど――……。
「どうしましょう、リンダ。こんなことでは、クリス様に今月末に提出するように言われたレポートに何にも書くことが出来ませんわ……」
この学園に送り出される際にクリス様がわたくしに出した課題は二つ。
一つは見聞を広げて自分で自分の“やりたいこと”を探すこと。
もう一つは何を見て、その物事のどこに興味を引かれたかを紙に書き出して提出すること。
「困ったわ。編入してから一月もあったというのに、たった二つの課題もこなせないだなんて、このままだとクリス様に呆れられてしまいますわね」
思わず零れた弱音に、ほんの少しだけ困った様子で「そんなことはございませんわ」と言ってくれるリンダに無理矢理笑って見せ、ケークサレを一口齧る。ホロリと口の中で解けるケークサレは、リンダの作ってくれるものには及ばないけれど美味しい。
そっと空になったお皿をわたくしの手から取り上げたリンダが、温かい紅茶の入ったティーカップを持たせてくれた。けれどカップから上がる香りの良い湯気に包まれたわたくしは、その香りを嗅いだ瞬間に悲しくなってしまう。ああ、確か以前この紅茶を口にした時は、クリス様と一緒にバラを眺めていたんだわ。
あの日を思い出すと、キュウッと胸が痛んだ。せり上がって来そうになる涙をグッと堪えて紅茶を一口含めば、今度は大きく切り分けたアップルパイを乗せたお皿が目の前に差し出された。
「ふふ、リンダったら……餌付けしなくても、わたくし泣いたりしませんわ。だってまだ何も挑戦しないうちから泣いたりしたら、クリス様に怒られてしまいますもの。強くて賢い女性でなければ、クリス様ほど完璧な方のちゅ、つ、妻に、なれませんわ」
ああ、頑張って強がろうとしたのに声が裏返って格好が……! でも今更言い直す方が格好悪いのかしら? こういう時は皆さんどうするの? そ、そうだわ。ここは取り敢えず平静を装って紅茶を――……と。
「何かええ匂いがすると思ったら、それ、もしかしてサヴォイ産の紅茶やない? こんな人気のないところで飲むにはちょーっと勿体ないなぁ」
いきなり背後から声をかけられて声もなく驚いたわたくしの手から、咄嗟にリンダがティーカップを取り上げてくれたお陰で、火傷をするには至りませんでしたけれど……。
「申し訳ありませんが、通常呼ばれてもいないお茶の席に突然殿方が現れるのは無礼ではありませんか?」
そうわたくしの背後に立つ人物に向けた声も、表情も。いつも通り優しげなはずなのに、何故だかリンダの雰囲気が冷たい気がするのはどうしてかしら?
「イヤやなぁ、そう怖い顔せんといてぇな、せっかくの美人さんが台無しやで? 別に何も悪いことなんかせぇへんやん。ただその紅茶をどこで仕入れたんか教えて欲しいなぁて思て」
けれど何となく人懐っこそうな印象を受けるハスキーボイスの男性は、そんなリンダの牽制を少しも気にせずに「なあ、ここ隣座ってもええ?」と、こちらの了承もなく座り込んでしまった。
緊張でその姿を確認することも出来ずに凍り付くわたくしに向かい、リンダは「お嬢様はこちらに」と表面上はにこにことした表情を浮かべながら、わたくしの手を引いて場所を移動するように促してくれる。
こんなに近い位置にクリス様やハロルド様達以外の男性がいることは、今までなかったので、素直にリンダの隣に逃げるように移動した。恐る恐るだけれど、今まで聞いたことのない訛りの言葉に興味を引かれて突然現れた賑やかなお客様の方へと視線を向ける。
けれどパッと見た男性の印象は“眠いのかしら?”だった。開いているのか、瞑っているのかという細い目は、日向で丸くなっている猫のようで。ツンツンと逆立った短い金髪に、ハロルド様よりもまだ少し浅黒い肌の色は、どこかここよりもうんと遠い土地の気風を思わせる。
歳はわたくしとそう変わらないようにも見えますけれど……ううん、纏う雰囲気からだとリンダに近いようにも感じますわ。するとそんな不躾なわたくしの視線に気付いたのか、男性は“ニイィ”と唇を笑顔の形に持ち上げる。あら、唇の端から覗く八重歯が、さらに猫を思わせますわねぇ――。
リンダの陰に隠れながら、ふとそんなことを考えて男性を眺めているうちに、知らず口許が綻んでいたらしいわたくしを見て、男性は「ああ、何や、君も笑うとめっちゃ美人さんやね。教室でもそんな風に笑たらええのに」と今度こそ本当に“ニッコリ”と笑う。そして何を思ったのか、不意に身体を後ろに反らしてこう言った。
「おーい、レティもこの子と友達になりたいんやったら、そろそろ出て来て自分で挨拶せな。いつまでも俺任せやと、こっちの家のメイドさんが怒って連れて帰ってまうでー?」
その緊張感のない説得にリンダと二人で視線を交わし、相手に気付かれないように無言で頷き合う。これは――……もしかするとクリス様への初レポートの題材になるかもしれません!




