*5* 命が足りませんわ……。
「あ……あの! こちらですわ、アリスさん」
女性で混雑する店内で、キョロキョロとわたくしの姿を探す待ち人にはしたないけれど、少しだけ椅子から腰を上げて手を振る。今のわたくしは“街の少し大きな商家の娘”を演じている最中ですもの。これくらいのことで恥ずかしがっていてはいけないわ。
わたくしの声に気付いたアリスさんが、席の間を縫いながら「そっちにいたんだ! 久し振り~!」と見ている人の心をパッと明るくさせるような笑顔を浮かべてこちらにやってくる。
「最近ハロルドのデートの内容が斜め上過ぎて面白いんだけど……メリッサ様、何かアルバート様から聞いてないかなぁ?」
休日の昼下がりに待ち合わせ場所に現れたアリスさんは、席につくなり開口一番に溜息と苦笑混じりにそう笑った。
前回イザベラさんも交えた三人で顔を合わせてから三週間。場所はあの日と同じ喫茶店で、季節は街路樹の緑が眩しい五月に入っていた。
「えぇと、それは……そんなに遠い目をするようなことがおありになるの?」
「いやぁ~、微笑ましいと言えば微笑ましいんだけど……実はちょっと実家の母さんとわたしが困ってる、かな? まぁ、でも今は取り敢えず――、」
椅子を引いて座ったアリスさんにケーキのメニューを差し出すと、彼女はしばし沈黙して真剣にメニューを眺める。わたくしも一緒に黙り込んでメニューを吟味するけれど――ここはやはり季節のケーキが良いのかしら?
チラリとアリスさんを見やると、彼女もそう思っていたのか「メリッサ様、この季節のケーキっていうの二種類頼んで半分こしない?」と笑う。わたくしもそれに賛成だったので「ええ、勿論ですわ」と力強く頷き返した。
今回は季節のケーキの中から選んだこともあり、前回のようにケーキを選ぶ時間をそんなに取らずに済んで良かったですわ。とはいえ他の季節のケーキも気になりましたけれど。
するとアリスさんもそうだったのか「ねぇねぇ、いま頼んだケーキ食べた後にお腹に余裕があったらさ、もう一つずつ注文しない?」という魅惑的な提案が……。これにも「勿論ですわ」と手を取り合って頷き返す。
――こういうときに持つべき物はカロリーを折半して下さる友人ですわね。
そう待たされることなく紅茶とケーキのセットが運ばれてきたところで、わたくし達は今日ここに集まれなかったイザベラさんから、両者に宛てて届いた二通の手紙をテーブルの上に置く。
「でもわたしの話より先にこっちに目を通そうか?」
「そうですわね……でも、わたくしにはアリスさんのお話も大変興味深いわ。ですから是非このお手紙を読んだら詳しく教えて下さいませね?」
「ふふ~、もっちろんだよ! 悩みって言っても結構下らない悩みだし、内容的には面白いと思うよ」
もともと一週間に一通確実に届くことから“週間イザベラ通信”とアリスさんが命名したお手紙。
けれど筆まめな彼女らしく内容はどちらも異なっているので、わたくしとアリスさんの時間が合えば、こうして交換して楽しむこともあって、なかなか学園を卒業しても縁が切れない関係性を保てているのは素敵ですわ。
ちなみにこれは文通を始めて一月くらい経ってから、イザベラさんに“手紙の交換をして読んでも構わないかしら?”と手紙で訊ねたところ、あっさりと“良いですわよ”とのお返事を頂いている。
あの時は学園でわたくしの取り巻きをしていた彼女達とは違う、包み隠すことのない公平さがイザベラさんらしくて嬉しかった。
““一週間ぶりですわね、お元気かしら? もし体調を崩したりしているのなら直ちにお家の方に伝言して私に報せて下さいませ。それでは本題ですけれど、そちらは何か進展がありまして? こちらは――、””
この書き出しだけはいつも同じですけれど。ケーキを一口頬張るアリスさんと視線を交わして笑う。いつもならこの後に“進展なしですわ”と続くのですが……今回は一味違うのですわよね?
““結婚してから苦節一年。ようやく寝室をダリウスと一緒にすることが出来ましたの!””
わたくしの手紙にも書かれていた色んな意味で衝撃的内容は、やはりアリスさんの手紙にも書かれていた。
「よっぽど寝室が一緒になったことが嬉しかったんだろうね、イザベラ。あれだよね、幼馴染みみたいな関係の婚約者から始まって、結婚して一年での進展がこれって……何だかちょっと不憫」
“不憫”はあんまりな言いような気もしましたけれど、実際わたくしも少しだけ思っていたことなので苦笑する。
学園に在学中からあんなに熱心にダリウスさんを慕っていたイザベラさんだもの。きっと本当ならもっと進展していたいところだろう。
「でも、わたくしは結婚初日から寝室自体は同じですけれど、アルバート様はいつもお仕事をなさってからお休みになられるから、実質わたくしも寝室が別々だったイザベラさんと変わりませんわね」
「あー……それは、わたしもそうかも。初日に失敗してからハロルドってば、わたしが眠るまで入ってこないんだもん。寝たフリしててもすぐに気付いちゃうし。そんなとこばっかり鋭くなくて良いのに!」
「はぁ……夫と同衾してみたいですわね……」
「本当それ、全く同感だわ。むしろ何でそんな簡単なことがここまで大変なのかって話」
「か、簡単では、ないと思いますけれど――?」
「いやいや、少なくとも一般市民は普通に出来てるよ。でなきゃどうやって国民が増えると思ってんのさ?」
そう言いながら、ピシッとわたくしに向かいフォークを突きつけてくるアリスさんの手をやんわり下ろす。アリスさんはそんなわたくしに「淑女の真面目さも大事だけど、そればっかりだと進展しないよ?」と助言して下さる。
「でもメリッサ様のそういうところも含めてアルバート様の好みなんだし、無理しなくても良いか~……ってことで手紙の続き読もう! ね!」
もう一口ケーキを切り取ったアリスさんは、フォークを咥えたままモグモグと口を動かすので、わたくしは無言でその艶やかな唇からフォークを引き抜いてお皿の上に載せた。
その後わたくし達は季節のケーキをもう一つずつ注文し、お互いに無言で手紙に視線を走らせる。
周囲の席から聞こえるざわめきも、目の前に誰かが座っているのに無理をして会話を探さないで良い不思議な心地良さも。
――何もかも未だにわたくしには信じられないほどの新鮮味を持っていて、だからこそふとした瞬間これが全て都合の良い夢で、自分がまだあの学園の中で呼吸を忘れて生きているのではないかと怖くなることがある。
視線を上げると、アリスさんと目が合う。
すると視線だけで“どうしたの?”と訊ねられた気がして、ホッとしながら首を横に振る。紅茶と、ケーキと、友人と、手紙だけで成り立つ世界がここにはあって。
曖昧だったわたくしの世界は優しく甘い、この時間のように穏やかで。手にした手紙に視線を落とせば、もう一人の友人が語りかけてくるような、楽しく親しげな文面が踊る。
カップに手を伸ばしたわたくしは、紅茶を一口。
まずは手紙の中のイザベラさんのお話を伺うことにしますわね?
***
「……は? 何だ、それではハロルドの奴はアリス嬢とのデートどころか、彼女の父親との木工に勤しんでいるのか?」
夕食も終え夜着に身を包んだ寝室でアルバート様に今日あった出来事を話していたら、いつものように明後日の方角を見つめながら話を聞いていたアルバート様が、困惑した表情を浮かべてそう訊ねてこられた。
「えぇ、アリスさんのお話ではそのようでしたわ。一番最初の“デート”は材木店に良い木材を探しに、二度目はそれを購入して切り分け。三度目でアリスさんのお父様にその木材を持って行って“弟子入り”させて頂けるように頼み込まれたそうですの。それで兼ねてからお困りだったあの椅子を――、」
わたくしはお昼間にイザベラさんからの手紙を読んだ後、アリスさんの聞かせてくれた“面白い”近況に声を立てて笑ってしまった経緯を、さらに詳しくお話した。
「あぁ、あの低いと愚痴をこぼしていたやつか。それで、その自分用の食堂で使う椅子を仕立てたら木工にハマったと」
「ふふ、そういうことですわ」
「それにしても、もう三度もデートが出来ているとは羨ま……いや、けしからんな。騎士団は人手余りなのか? それとも単に平和惚けしたハロルドが仕事をサボって――は、ないな。あいつは馬鹿だが、そういう小狡い類の愚かさを持ってはいない」
「――ええ、それは勿論。ですが正確には五度目ですわね。ハロルド様はアリスさんに、騎士団では何かが形になるような体験をあまりしてこなかったから、何かを作るのは楽しいと仰ったそうです。今はアリスさんのお父様と棚を作ったり、踏み台を作ったりと……実家の中が木工品で溢れて、アリスさんとお母様のお二人で困っているそうですわ」
わたくしは話を続けながらも、幼馴染みであるハロルド様の“らしさ”に苦笑とも、微笑みともつかない笑みを浮かべるアルバート様の横顔に目を奪われる。ふと湧き上がる幸福感に胸の奥が切なく痛む。
ほんの少し手を伸ばせば届くのに、わたくしにはまだ言い表しようのない“躊躇い”がある。それは言い換えれば“覚悟”の足りなさとも言え、アルバート様は恐らくそれを感じ取っておいでなのだと思う。
これでも以前よりはずっと落ち着いているとは思うのだけれど……あと一歩。もうあと一歩が踏み出せない。
だからイザベラさんがアリスさんに宛てた手紙の内容は、わたくしへ宛てて下さる新しく庭に咲いた花が美しいだとか、甥っ子さんがだいぶ大きくなったという優しげな内容の物と違い“如何にして殿方をその気にさせるか”という、ある種の意気込みを感じさせて下さる内容の物なのだとも。
そのせいで刺激を受けた、とは言いませんけれど……思わずアリスさんに頼んでお店を出た後に、新しい夜着を選ぶのにお付き合いさせてしまった。
けれどお陰で二人で可愛らしい物を一着ずつ選べましたし、せっかくだからイザベラさんにも贈ろうとお店で配達の手続きも済ませてしまいましたわ。あれが届いたらイザベラさんどんなお顔をなさるのかしら?
一瞬わたくし達から届いた箱を開けたイザベラさんの表情を思い浮かべて、愉快な気持ちになる。すると黙り込んだわたくしに気付いたのか、アルバート様がチラリとこちらを窺う気配がしたので、勇気を出してそれとなく夜着がはだけたように装う。
すると途端にまたあらぬ方向に視線を彷徨わせ、いつかのように首筋を赤く染め上げてしまった。わたくしはそんなアルバート様の反応に、思わず胸の中でアリスさんに感謝を捧げる。
この薄紫色の“ベビードール”というデザインは初めて試したけれど、アルバート様はこういうのもお好きなのかしら?
甘くて可愛らしいデザインは、わたくしのキツイ顔立ちには合わないからとアリスさんに言ったら『大丈夫。むしろそれが良いんだよ!』と力説されて、半信半疑で購入してみたのだけれど良かったですわ……!
わたくしが嬉しくて火照った頬に手を当てていると、アルバート様がこちらを向かないまま「今日は……俺とメリッサのデートの話も教えたのか?」と訊ねられたので、反射的に「秘密基地のお話はしていませんわ」と答える。
アルバート様のお仕事がお忙しいのでこの三週間デートはお預けでしたけれど、わたくしはあの一日だけであと三月は堪えられますわ。
あの日は秘密基地から二人で再び市場に出かけて、下町の色々な買い物場所や遊びを教えてもらったり、初めての“食べ歩き”というものをしたりと、とにかく刺激的で。
周囲に護衛を付けずに、外で買った食べ物を歩きながら食べたのは初めてでしたわ。行きつけの本屋さんしか知らなかったわたくしには、アルバート様と歩き回ったあの一日がとても自由に思えた。
けれどその答えは意外だったのか、アルバート様は瞬間こちらを向き、瞬時に違う方向を向いてしまう。
あぁ、惜しい! 今の表情……正面から見てみたかったですわ。
「そ、そうか。てっきりメリッサは彼女達と仲が良いから、教えてしまったのだろうと思っていた」
「まぁ……いくらアリスさんとイザベラさんがわたくしの親友でも、夫であるアルバート様との秘密を教えたりは致しませんわ。お話したのは下町での買い物や遊びくらいですし、そういうことはやはりアリスさんの方がずっとお詳しいですもの。それに――、」
そこで言葉を切ったのは何となく胸の辺りが少しだけモヤッとしたから。仲が良いのは事実ですし、彼女達は一生涯の親友だと思っているわ。
――――でも……。
「アルバート様の秘密は、妻であるわたくしだけのもの……でしょう?」
不意に手を伸ばして、アルバート様の腕に触れる。
すると弾かれたようにアルバート様がわたくしを振り返り、またすぐに視線を逸らそうと身体を捩るけれど、逃がしませんわ。
「“そうだ”と言って頂戴……アル」
アリスさん直伝の“ここぞという場面での愛称呼び”に、アルバート様は耳まで真っ赤にして「勿論、そう、だ」と少しだけ掠れた声で望んだ言葉を下さると、僅かな逡巡の後、わたくしの頬に熱い手で触れる。
熱に浮かされたようなその瞳と見つめ合った状態から口付けを二度、三度と交わし、ついに今夜こそ――……と、思ったのに。
「……明後日にでも何とか休日を作るから、また下町へ出かけよう。その為に今から少しでも仕事を減らして来るから、メリッサは先に休んでいてくれ」
そう間近で囁いたアルバート様は一度深く口付けて、その唇の温もりが名残惜しそうに離れた時には、わたくしの心臓は破裂しそうなほど脈打って切ないどころか痛いほどだった。
アルバート様の真っ赤なお顔を正面から見られたのは良かったけれど……これだけのことがこんなに心臓に負担をかけるなんて、アリスさんが言う“一般市民”の方々に敬意を表しますわ。
あぁ、もう――……前途多難過ぎて、わたくしの身体と精神は保つのかしら?




