忍び寄る悪意
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「……倉敷さん、か。でも、涼が信じている人なんだから、私が信じなきゃ駄目、だよね」
病室から緊張した面持ちで出て行った倉敷さんを見送り、私は大きな溜め息を零す。
私は苦しかったのだろうか、辛かったのだろうか、悲しかったのだろうか。
苦しいとか、辛いとか、悲しいとか、そんな風に思ったことは一度だって無い。
涼のためなら、なんだってしてあげようと思える。だって、それが私の存在意義だし、なにより涼だって私のことをそういう存在として認識しているはずだし。
逡巡しているとき、病室のドアがノックされた。「はい」と返事をして、数秒してドアが開かれた。
「こんにちは♪」
「っ、な……ん、で声が三重に……?」
目の前に現れた人物から聴こえる声は、二重ではなく三重だった。リアルの声、そして仮想の世界の声までは分かる。
けれど、あと一つは、誰の声なのか分からない。
「桜井 理沙。プレイヤーネームは、ルーティ。現実では前者を、仮想世界においては後者を自分と認識するために必要なものとして持っている。それが君のアイデンティティ」
「私のプレイヤーネームをどうして……?」
声が掠れていく。この視線を、この瞳を、この姿を、私は見ている。
そしてこの顔を、この顔の向こう側に見えるもう一つの顔を、私は知っている。
「君は“愚者”にならずに、その聴覚を手にした。共感覚によって、VRゲームをプレイしている人の声が二重、そして三重に聞こえる。それらの声を記憶と照合することで、仮想世界のプレイヤーにまで行き着くことさえ、できてしまう。実に素晴らしい聴覚だ。でも、“ボクら”のように集中力が欠如していると、使えない。共感覚を有していながら、その異常性の聴覚を獲得するまでティアが誰であるかを見抜けなかったのが、その証拠だね」
恐怖に慄きながら、私はナースコールに手を伸ばす。
「近付かないで。それ以上、こっちに近付いたら、人を呼ぶから!」
「君には、どう見える?」
「……え?」
「君に、ボクはどう映っているか、って聞いているんだよ♪」
「あなたは……涼の裏切り者」
「なんだ、知っているんだ?」
「教えてもらった。プレイヤーネームだって、知っている」
「ふぅん、だから声が三つ重なって聞こえてしまうのかぁ。ネットで出会ったあとに、リアルでその声を聞いてしまえば、あとは名前を調べるだけで相手のアイデンティティを見抜けるなんて、ズルいなぁ」
その人は澱み切った瞳を携えて、呟く。
「ねぇ、桜井 理沙? その聴覚を、少しばかり“真似させてくれない”?」
「貸す……? わけの分かんないことを言わないで!」
「ボクの五感は、君たちと違うんだ。狂いに狂って、全部ちょっとおかしくなっちゃった♪ だからね、脳の発達を模倣することだってできちゃうんだよ」
澱んだ瞳は、ただ私を見つめている。その視線があまりにも怖ろしく、私はナースコールを押すことさえままならない。
危う過ぎる。
私が少しでも抵抗すれば、この人はどこからか刃物でも持ち出して私を傷付けて来るような、そんな危険性を孕んでいる。涼を知っているからこそ、本能的に分かる。この“愚者”に、反抗してはならないと。
舐めるように澱んだ瞳は私の体を見渡して、そしてその舌が右耳を軽く舐めた。
「っ!?」
「御免ね、桜井 理沙♪ 真似したい時、ちょっと味見しなきゃならないんだ。それで聴こえが悪くなったとしても許してね♪ それは、ほんの少しの間だけだから。真似する限度が一週間。だから、その頃には元通りだよ。だぁかぁらぁ、気にしない気にしなーい♪」
「なんで、私の聴こえ、なんか……」
「リョウが、誰に化けているかを確かめたいから。『Armor Knight』の中じゃ、候補者が多すぎるんだよねぇ。でも、君の聴覚なら、一発で分かるからさぁ。じゃぁねぇ、桜井 理沙。ぼくの大好きで大嫌いな、“幼馴染み”さん」




