聴覚の目覚め
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桜井さんが救急車で近くの病院に搬送されたというメールを、私は日曜日の朝に立花君から受け取った。
搬送されてすぐに意識を取り戻し、命に別状は無いそうだ。けれど、大事を取って、二日ほど入院するらしい。退院は火曜日の午前。彼女の高校の期末テストは来週の水曜日からという内容も含まれていた。
私たち高校生は、なによりも成績に直結するテストというものを気にしなければならない。だから、そのメールを受け取ったときは内心ではホッとしたのだ。ともかく、テストを受けることはできる。そして、意識が回復したならば入院中はテスト勉強に集中することもできる。どれもこれも、私が勝手に思っていることで、桜井さんはもっと辛い状態にあるのかも知れないけれど。
どういう理由で入院することになったのか。立花君は私に教えるまでもないと思ったのだろう。だって、私は一度、それを体験している。体験しているからこそ、どういった形で桜井さんが搬送されたかもおおよそ、予想は付いてしまう。それがとても嫌だった。
昔の、あの恐怖を思い出してしまうから。
午後になってお見舞いに行く旨のメールを立花君に送った。一度、立花君の下宿先で顔を合わせてはいるものの、桜井さんは私のことをティアだとは気付いていなかった。恐らく印象や心象が悪かったので、私の顔をハッキリと見ていなかったのだろう。
でも、今回ばかりは、顔を見られればすぐに私がティアであるということがバレてしまう。だから、少しでも誤魔化すことができるようにと、私はいつものように黒髪をすっぽりと覆う大きめの帽子を被った。この季節にこの帽子では、どうにも暑苦しくて仕方が無いけれど、我慢すれば済むことだ。
なにもやましいことをしていないのだから、この際、はっきりと私がティアであることを伝えた方が良いのかも知れない。けれど、話すタイミングを見失ってしまっているから、どうしてか私の意識は“隠す方”へと傾いてしまっている。
それは、立花君に対しての、ほんの少しばかりの嫌がらせ……みたいな、或いはお茶目な悪戯のようなつもりでの隠匿だったのだ。それでこの有様なのだ。
私は立花君のメールで病院の所在地を教えてもらい、二時間と少しほど掛けて、彼女が搬送された病院に到着した。聞いてはいたけど、こんなに遠くに彼も彼女も住んでいたのかと驚きを隠せない。
そして、よっぽど嫌なことがあったから、立花君はここから逃げ出すように下宿生活を始めたのではないかとすら、思ってしまった。
病室の扉をノックし、中から声がしたことを確認して私は扉を開ける。
「桜井さんは、どう?」
病室のベッドの隣、丸椅子に座っている立花君が私の声に反応して顔を向けてくる。桜井さんはベッドで眠りに落ちているから、さっきのノックに対しての返事もきっと立花君がしたのだろう。
私は、なにかしらの覚悟をしていた。
幼馴染みを大切にし、彼女のおかげで立ち直ることのできた立花君。そんな彼が、狂気に堕ちているのではないかという覚悟を。
けれど、立花君は驚くほどに、清々しい顔をしていた。まるでなにもなかったかのように、まるでなにも心配していないかのように、私にいつも通りの、いやいつもよりも圧倒的に朗らかな顔を、向けてきたのだ。
「物理的にログアウトさせたから、記憶と神経関連の整理に脳と体が追い付いていないから、睡眠を催す薬を栄養と一緒に点滴注射しなくても、すぐ眠くなっちゃうんだ。そろそろその眠気も落ち着いて来るだろうけど」
「そ……う」
淡々と答える立花君が、私はどういうわけか怖ろしい。
「どうかした?」
「う、ううん、なにも」
「そう?」
言って、立花君は眠っている桜井さんを見つめる。
「でも、良かったよ。これぐらいで済んで」
良かった?
それは立花君が言うには、ちょっと軽すぎる言葉に思えた。
「バイオレンス行為で邪魔をされたかも知れないのに?」
さすがに性的な痛め付けされ方は、成人指定のVRゲームを除いて不可能だ。けれど、それ以外の暴力は、どんなVRゲームにも起こり得ると私は思っている。
「ログアウトの邪魔をされたぐらいで、バイオレンス行為があったかどうかの判断は早計だよ」
やっぱり、立花君らしくない返事だ。
「でも、可能性としてはあるでしょう? 私も、あなたも、その場には居なかったんだから」
立花君は表情一つ変えない。微動だにしない。私は少しばかり語意を強めに言ったつもりだ。
幼馴染みが殴られたり蹴られたりされたのだとすれば、それがたとえ仮想世界のことであろうと、そのことに言及した私に対して怒りを見せたっておかしくない。
「理沙から話を聞かないと、なにも分からないよ。全部が全部、仮定の話でしかないんだから」
なのに、立花君は極めて冷静なのだ。
「う、ん」
しどろもどろに、私は肯く。
そのとき、ベッドで眠っていた桜井さんの瞼がピクピクと動き、続いて呻くような小さな声が漏れたのち、瞼がゆっくりと開く。
「……ふ、ぁ……よく寝た。二時間ぐらい、かな?」
「そうだね、丁度、それぐらい」
「あ、はは、御免ね、迷惑掛けちゃって」
「普段から迷惑を掛けている僕に比べれば、こんなのはどうってことないよ」
二人の会話には割り込めない。ただ聞いていることしかできない。
そこにある強固な関係性に、踏み込む余地はないから。そもそも、私にはそこに踏み込む資格すら、無いのだから。
「でもさー、まだちょっと耳がおかしいかな。涼の声を聞いていると、スズの声も一緒に聞こえる感じがする。話して五分くらいで落ち着くんだけど、ちょっと聴覚に異常があるんじゃないか、って怖くなっちゃう」
「え?」
私は、無意識に声を発してしまっていた。それがどういうことを意味するかは、声を出してから理解した。
まずい。
私はゆっくりと、後ずさりして病室を出ようとする。
けれど、桜井さんの目は、ハッキリと私を捉えて離さない。
立花君の声が二つ聞こえる。涼とスズの声の二つが重なって聞こえる。そんな馬鹿な話、あるわけがない。けれど、桜井さんがそんな突拍子も無いことを嘘でも言うわけがない。ティアとしてルーティに接して来たから、立花君を心配させるようなことは言わない。そこだけは断言できる。
だったら、リアルに起こっていることと推測すれば、桜井さんが私を見つめている理由は一つしか無い。
私の「え?」というたった一言が、彼女の耳には“二つ”に聞こえた。別にティアで遊んでいる時に声を変えたりしていないが、声を変えていない立花君に、「スズの声もする」と言ったのだ。
現実の立花君と、仮想世界のスズの声。
だったら、現実の私と、仮想世界のティアの声が聞こえないわけが無い。
「ティ、アの声……? 倉敷……さ、んが、ティア?」
やっぱりだ。
私の隠していた事実を、暴かれた。
お見舞いになんて来るんじゃなかった。私は後ろめたい気持ちに溢れ、そんなことを考えた。
「それは、その……」
言葉が出て来ない。言い訳が出て来ない。
「黙ってた、の? 今まで、あなたも…………涼も!」
桜井さんが丸椅子に腰掛けている立花君を睨み付ける。
「私に黙って、二人で! 二人で私のこと、笑って……っ!!」
立花君は答えない。
その瞳は桜井さんを映している。確かに映している。けれど、その瞳が、桜井さんをちゃんと捉えているようには、見えない。
だって無反応なのだ。彼女の言葉を浴びても尚、立花君は無反応でいる。こんなのはもう、冷静を通り越して“おかしい”としか言わざるを得ない。
ああ、そっか。
もう私とここで話していた時点で、立花君は“おかしく”なっていたのか。
「私がずっと黙っていただけで、立花君はなにも悪くない」
「なんで黙っていたの!? どうして……ねぇ、どうして!? なんでも話してって言ったよね?! なんでも話してくれるって、言ったよね!! 私もなんでも話すから、なんでも話してあげるからって!! そうやって頑張ってきたのに、なんで私に、隠し事なんか!!」
私の声は届いていない。届いているのかも知れないけど、彼女の言葉は全て立花君に浴びせられていた。
「……出てって。涼も……あなたも、っ! 出てって!!」
すると、立花君はなにも言わずに立ち上がって、そのまま私の横を通って病室を出て行ってしまった。
一言も発しない。一言も謝ろうともしない。でも、謝らないのは正しい。だって悪いことをしていたのは、私なんだから。
「御免なさい」
だから私は謝る。けれど、桜井さんからは返事を貰えない。私はその場で土下座でもしてしまいそうなほどに大きく前方に上半身を傾け、謝罪の意を示したあと、反転して病室の扉に手を掛ける。
「少しだけ、待っていて、ください。今は、なにも、話せません。涼にも、そう、伝えてください」
苦しそうに、ただ苦しそうに私にそう伝えた彼女に、振り返るほどの勇気も無く、深く大きく肯くことで返事をしたことにして逃げ出すように病室を出た。




