18.婚約者のキス
1.
ヴィクターは思わず叫んだ。
「スローアン殿! なぜあなたがここに!」
「ああ、ここのことは関係者には伝えたんだよ、私からね」
グレッグは興奮するヴィクターを宥めようと慌てて声を上げた。
ヴィクターはスローアンを睨んだ。
恋敵……。
スローアンもヴィクターをじっと見た。
誘拐犯……。
いつぞやの酔っ払いブリジットを巡った応酬を思い出す。
が、ヴィクターは静かに言った。
「大丈夫。ブリジット嬢のことはあきらめましたよ」
スローアンは「えっ」と思わず口にした。何があったんだ?
思わずパッとグレッグの方を見た。この人が説得したのか? すごいな、どうやって……?
スローアンは半信半疑ながら、とりあえず
「それはよかった」
と返した。
ヴィクターは大変落ち着いていた。
「スローアン殿。あなたはまだあきらめないのですか。ブリジット嬢は誰のことも好きじゃない」
スローアンは「なるほどそういうことか」と思った。
「ああ、それに気付いたのですね。そうですね。まあ、私はあなたより少しだけ運が良かった。婚約させてもらってるんでね」
ヴィクターは「そうでしたね」と頷いた。
ブリジットに望まれていないという点ではたいして差がないように思えるスローアンとヴィクターだったが、「婚約しているかどうか」の壁は厚かった。
また、先ほどブリジットにコテンパンに拒否されたので、ヴィクターは完全に挫けていた。
だが、スローアン殿はもう少し頑張るということか……。
二人はまた少し無言になった。
やがてヴィクターが言った。
「ブリジット様は二階で休息を取っておられますよ。もしお会いしたければどうぞ。ブリジット様がどんな顔をするかは知りませんがね」
ヴィクターはもうこれ以上この話をすることをやめた。
スローアンもヴィクターのその空気を感じ取り、余計なことはもう言わないことにした。
2.
さて、スローアンが2階へ上がっていくと、掃除婦の女が背中を丸め掃除道具を片手にどこかの一室に入ろうとしていたところだった。
スローアンはハッとした。
「ちょっと君っ!」
掃除婦はびくついて固まった。
「え、あの、なんでございましょうか」
「なんでございましょうか、じゃないでしょう」
スローアンは叱りつけるような口調で、ずかずかと近づいて行った。
掃除婦は縮こまった。
スローアンは掃除婦の頬かむりをむしり取る。
「ねえ、ブリジット様! 何の真似ですか!」
姿を顕わにしたブリジットは「しまったー」といった顔をしている。
「よ、よく気づきましたわね……」
「よく気づきましたわね、じゃありません! 空っぽのバケツを見たら私だって不審に思います」
スローアンは腰に手を当ててブリジットを見下ろした。
ブリジットは首を竦めた。
う~ん、名変装だと思ったのに……。
スローアンの目は怒っている。
「私に気付いてましたよね。気づいてるのに、こっそり逃げようとしてたってことですよね。私がどんな気持ちでここまで追ってきたと思ってるんです!」
「あ~……、え~っと」
ブリジットは渇いた声を出した。
「おとなしく私に助け出されておけば全て解決じゃあないですか。なぜまた問題を起こそうとするんです!」
スローアンはブリジットににじり寄った。
ブリジットは後退りする。
ブリジットは、部屋で休息を取っていたときは、どうやって父やスローアンや王太子やグレッグに自分の居場所を知らせるか、具体的に考えようとしていた。
そう確かに、そのあたりまでは、『おとなしく助け出される』つもりだった。
が、度重なる訪問者の気配がして、階下からグレッグやスローアンの声が聞こえてくると、なんだかすっかり『おとなしく助け出される』気がなくなってしまった……。
だって、ヴィクターはすっかり意気消沈していて(ブリジットがガツンと言ったせいだが)もはやスローアンに対して無抵抗だったので、この状況はまるで『婚約者がブリジットを迎えに来ただけ』といった構図になってしまっていたから。
ブリジットの直感は語っていた。
『おとなしく助け出されたら、スローアンとの婚約はもはや不可避!』
どうする、どうするっ!? 逃げないとっ!
じゃないと、私の引きこもり安穏ライフがぁっ!
ブリジットは後先のことを深く考えず、目に付いた掃除婦から服を借り、ただその場から逃げることにしたのだった……。
―――そして今に至る。
スローアンはたいそう怒っている。
「どれだけ心配したと思ってるんですか!」
「し、心配……?」
ブリジットは首を傾げた。
「いやあ~。こんなお飾りの婚約者がどうなろうとスローアン様には……」
「お飾りの婚約者なんかじゃありませんっ!」
スローアンはついつい叫んだ。
「スローアン様はいつもそう仰るけど、それはうちのお母さまの手前、そう仰ってるだけで……」
ブリジットは気の毒そうにスローアンを見る。
「違いますよ。何度言ったらわかるんですか!」
スローアンはイライラしてきた。
「え? な、何を……?」
ブリジットはスローアンの剣幕にびくっとした。
『何を……』だって? スローアンはがっくりした。
「もう! ブリジット様は少しも私の気持ちに気付いてくださらない!」
スローアンはふうっと大きくため息をつくと、突然ずいっとブリジットの腰を抱き寄せた。
「え? あ……」
ブリジットがいきなりのことに驚いて反応できずにいると、スローアンは自分の唇をブリジットの唇に力いっぱい重ねてきた。
ブリジットの腰を抱いていたスローアンの手がブリジットの背に移り、力がこもる。
「ちょっと……」
ブリジットは腕でスローアンを押し退けようとした。
「何をなさるの……」
しかしスローアンは手を緩めなかった。
ブリジット様が誘拐されてしまい、どんなに心配したことか!
この数日間ずっと、ブリジット様がヴィクター殿のものになってしまったらと想像して気が狂うかと思った。
それでもまだブリジット様は自分の愛を信じてくださらない!
もう、もうこれ以上どう説明できるというのだ!
スローアンはまた感情が込み上げてくるのを感じ、もう一度強くブリジットの唇をふさいだ。
ブリジットの方は体を捩じって抵抗していたが、熱っぽいスローアンの唇からは逃げられなかった。
こ、こんなスローアン様は初めてで……少し、怖い……。
ブリジットが少ししゃくりあげたので、スローアンはハッとして唇を離した。
しかし、まだ抑えきれない想いがあり、スローアンはブリジットの肩を引き寄せると、ブリジットの顔を自分の胸に押し当てた。
「すみませんでした」
スローアンはブリジットの髪に自分の唇を当てながら呟いた。
「でも……。これでもまだブリジット様は、私があなたのことを愛していないと仰るんですか」
「あ、えっと……」
ブリジットはあまりに衝撃で頭が働かなくなっていた。
スローアン様は私を好き?
さすがに今のは演技じゃなさそう……、こんなに取り乱して。
スローアン様は私を好き?
スローアン様は私を好き?
スローアン様は私を好き?
お読みいただきましてありがとうございます!
あと2話となりました。ここまでお付き合いくださいまして感謝感謝です。
さて勝手に混乱しているヒロインです。
次回、ヒロインの引きこもる理由が明らかになります。
しょうもない理由なので期待は絶対にしないでください……。すみません。





