10.王太子が友達感覚で遊びに来るんだが……(汗)
ブリジット・ヘルファンド公爵令嬢はここのところ超ご機嫌である。
何故だかよく分からないけど、婚約者のスローアンからの便りがめっきり減ったからである。
自分は何も覚えてはいないが、先日の月曜定例の王妃主催の舞踏会でブリジットが何かやらかしたと父母がたいそう嘆いていたので、きっとその関係に違いない。
父母の口ぶりではだいぶ不名誉な感じだった。
きっとスローアンもさすがに愛想も尽きたのだろう。
待ってましたっ!
婚・約・破・棄ももう秒読みねっ!
引きこもり生活もこれで一生安泰だわ~!
とそこへ、侍女のウィニーが駆け込んできた。
「ブリジット様っ! たいへんでございますっ」
「なあに? そんなに大急ぎでどうしたの」
引きこもり人生満喫中のブリジットは悠長に構えている。
「聞いて驚きなさいますな」
「何も驚きやしないわ。私は今すこぶる快調なの。我が人生の幸せな未来に乾杯!」
「はあ……」
ウィニーはブリジットのテンションに呆れた顔をした。
「王太子様が来られたんですけど……」
しかし、確かにブリジットは驚かなかった。
「まあ、王太子様って臣下の屋敷にそんなにお気軽にお出かけなさるものだったかしら。まあいいわ。お父様やお母さまが適当におもてなしなさるでしょう。私は病気ってことにして、いつもどおり部屋で休んでおくから」
ウィニーは「分かってないな」といった顔をした。
「それが、王太子様はブリジット様にお会いに来られたようなんですよ」
「ああそう? まあでも、お断りして」
ブリジットはにべもない。
「は?」
「私病気なの。もう一回言うわよ。お断りして。」
「さっき『すこぶる快調』って仰ってたのに」
「そんなこと言ったかしら。まあ、もういいわ。さあ、行った行った」
ブリジットはウィニーを追い出した。
ところが今度は別の侍女のティナが駆け込んできた。
「病気なんて嘘だろうから呼んで来いと王太子様が仰ってます」
ブリジットは顔を顰めた。
「まだ帰ってなかったの? 王太子様」
「来ないなら部屋に踏み込むとまで仰っています」
「あのくそ王子~っ」
ブリジットはきいい~っと怒った。
王太子ともあろう者がもちろん未婚の令嬢の部屋に勝手に踏み込むことはしないだろうが、神聖な我が部屋に踏み込むとまで言われては、ブリジットは心穏やかでいられない。
「待ってらっしゃい。私が直接行って追っ払ってやる」
ブリジットが最上級の客間にずかずかと入っていくと、相変わらずにやにやしたヘンドリック王太子が長椅子にずしんと腰かけ、おろおろした顔のブリジットの母が所在無げに控えていた。
しかしヘンドリック王太子は、ブリジットの顔を見て急に慌てた。
ブリジットがたいしてお化粧をしていなかったので、ヘンドリック王太子はブリジットが本当に病床についていたのかと誤解したのだ。
「こ、これは……。悪いことをしたね、ブリジット嬢」
王太子は先日の化粧をしたブリジットしか見たことがなく、まさかブリジットが普段はほとんど化粧することがないということまではもちろんご存じない。
王太子は申し訳なさそうな顔で、
「泥酔の醜聞を恥じて人目を避けているのかと思っていたけど、本当に臥せっていたようだね。婚約破棄騒動(未遂)に巻き込んでしまったお詫びにと思って来たのだけど」
と、だいぶ常識的な誤解を込めて言った。
ブリジットの方は、「人目を避けて?」「臥せっていた?」と身に覚えのないことを言われてきょとんとしたが、面倒くさいので特段聞き返したりはせず、
「ええ。最低ですわ。帰ってくださいまし」
と、ただ自分の要求だけをすぱんと遠慮なく言い切った。
「分かったよ、日を改めるから。体調が戻ったらまた来る」
ブリジットが体調不良というのを信じて疑わない王太子が肯いた。
「なんでまた? 会いたくなぞありません。もう来ないでくださいまし」
「相変わらずブリジット嬢はつれないねえ。まあ、それがいいところでもあるんだけど」
王太子の言葉にブリジットはキッとなる。
「まだそんなことを仰ってますの? こないだ大変な目に遭ったばかりでしょう」
ブリジットはレベッカの婚約破棄宣言のことを言っている。
「ああ、まあね。何、別に君を口説こうってんじゃないよ」
王太子は苦笑した。
「君の従姉のキャスリーン嬢のことさ。他に話せる相手がいなくてね」
キャスリーンと聞いて、ブリジットも、ブリジットの母のヘルファンド公爵夫人もはっと息を呑んだ。
王太子は二人の様子をじいっと眺めていて、反応が期待通りだったのでほっとした様子を見せた。
しかし、王太子は何か特別に思うところがあるらしかった。
キャスリーンにとっても自分にとっても親族の一人であるはずのヘルファンド公爵夫人に向かって、
「すみません、ヘルファンド公爵夫人。あなたの前ではお話しできない。これはブリジット嬢と二人きりで話したいのだ」
と申し訳なさそうに言った。
ブリジットは「キャスリーンと言われたら、ちょっと事情が変わってくるわねえ」と思った。
「王太子様。いいですわ。お時間差し上げます」
ブリジットはきっぱりと言った。
キャスリーンの名を前に、ブリジットも後日に回す気にはなれなかったのだ。
マイ・引きこもり・ソウル・メイト。
「お母さま。王太子様がこう仰っているから、少し席を外してくれない?」
ヘルファンド公爵夫人は王太子とブリジットの顔を交互に見て少し躊躇った様子を見せたが、
「分かりました」
と王太子に礼をし、部屋を下がっていった。
「さあ、二人きりですわ。お話って何」
さっそくブリジットは王太子に聞いた。
ブリジットがずいっと身を乗り出したので、王太子は少し腰が引けた。
「え~っと……。あ、まず最初に、形通りお詫びから入らせてくれ。先日はレベッカの婚約破棄宣言で元凶扱いされちゃったみたいですまなかったね」
ブリジットは
「そんなん要りません」
とそっけなく言った。
むしろ悪役令嬢の立ち位置、望んでましたので。
「いや、要りませんじゃないよ。私にとっては大きな意味があったのだから」
王太子は苦笑した。
それから王太子は少し言葉を迷いながら、ゆっくりとブリジットを見つめた。
「あの騒動に遭遇して、君になら私の本当の気持ちを話せると思ったんだ。君は気取らないし、王宮内の派閥のようなものに距離を置いているように思えたから。何よりあの日あの場面で、私とレベッカを庇ってくれたことには本当に心を動かされた」
「はあ……」
心を動かされたとまで言われては、ブリジットは少し決まり悪そうな顔をした。
―――王太子とレベッカを庇ったと言っても、あれは完全にブリジット都合。ただブリジットが悪役令嬢になって断罪されたかっただけだから。
そんなことは王太子は露にもも知らない。
まあ、ただブリジットが、王宮内の派閥的なものには完全にニュートラルであることは確かだった。
父のヘルファンド公爵の派閥にさえも無関心。
あまつさえ、父の政敵と呼ばれるロイスデン侯爵の息子と恋仲の噂が流れるくらい。
陰謀ゴリゴリのブラッドフォード公爵の娘レベッカ嬢にも懐かれる始末。
婚約者のスローアン・ジェラードが彼と親交のある貴族たちにブリジットを紹介したくても、ブリジットの方は笑顔さえ見せない徹底ぶり。
王宮内の微妙な力関係について色々気に病んでいた王太子は、このブリジットの不思議な立ち位置が、逆に信用し得ると映ったようだった。
―――繰り返すが、これらも全部ブリジット都合。ひとえにブリジットが婚約というものを破棄したいがため。
そしてもちろん、そんなことは王太子は露にも知らない。
王太子はもう一度眩しそうにブリジットを眺めた。
そして、言いにくいことを吐き出すように低い声で言った。
「笑わずに聞いてくれるかい。私はね。こう見えて、君の従姉のキャスリーン・ウィルボーン嬢のことが好きだったんだ」
ブリジットは単純に驚いた。
ブリジットもキャスリーンのことの顛末は詳しく知っている。
しかしブリジットの聞いた話の中では、王太子のアクションは少しも出てこなかった。
「無関心なんだと思っていましたわ」
ブリジットは呟いた。
「とんでもないね。私がどんなに傷ついたか知らないだろう」
王太子は恨めしそうに言った。
「相手の男ってやつを絞め殺したかったさ」
「ああ、それは私も」
ブリジットは力強く同意した。
「本当に最低だわ。孕ませて逃げるなんて。本気じゃなかったのかしら」
「本気になれない理由があったんだと思うよ」
王太子は少しもの知り顔で言った。
「何その顔」
ブリジットは閉口した。が、途端にブリジットはハッとした。
「まさか! 王太子様、あなた何か知っていて?」
「そのまさかさ。私の気持ちを見くびらないでほしいね。キャスリーンを傷つけた男を許せるわけなかろう。相手の男をずっと探していた」
ブリジットはしげしげと王太子を眺めた。
そんなに純情なところがあるなんて思いもしなかった。
「それで、見つかったの?」
「……見つかったよ……」
王太子は言葉とは裏腹にため息をついた。
ブリジットは王太子の言葉の響きにまでは気が回らなかった。
「なぜその男を捕まえないの!?」
とすぐさま叫んだ。
「他の人には言えなかったんだよ! 裏に良からぬ企みがあったんだってことまで分かってしまったのだから!」
王太子としては陰謀うんぬんについては知りたくなかったのだろう。呆れたような飽き飽きしたような、とにかく不満そうな顔をした。
「キャスリーンは別の男を選び、私にはレベッカが婚約者としてあてがわれたのだ。曰くつきの男が明らかになればまた王宮内がゴタゴタする。もう謀とか計略返しとか、そういうものにはうんざりなのだ」
「キャスリーンの件が何かの陰謀だったとして、キャスリーンをあんな目に遭わせた男やその首謀者をほっておくつもり?」
ブリジットの声は怒りで震えていた。
「暴いて何か変わるのか? ブラッドフォード公爵が失脚し、レベッカとの婚約がなかったことになり、また王宮で権力を持ちたい誰かが筋書きを作り、私にはまた別の婚約者があてがわれるだけだ」
「今の仰りよう。つまり……ブラッドフォード公爵なのね」
ブリジットは何か感づいた顔をした。
「ブラッドフォード公爵が、レベッカ様を未来の王妃にしたくて仕組んだってことなのね?」
「そうだ」
王太子は苦々しい顔をしながら頷いた。
ブリジットは激昂した。
「ブラッドフォード公爵めぇ!」
そしてブリジットの怒りの矛先は王太子の方へも向いた。
「でも、あなたはそれでいいの? レベッカ様と結婚すると言うことは、キャスリーンを苦しめたブラッドフォード公爵の意のままになっているのよ? 悔しくはないの?」
その言葉に王太子は悲しそうに目を伏せた。
しかしその目には何か悟ったような光が宿っている。
「そのことは何度も考えた。だが、キャスリーンがその男を選んだと言うのは本当なんだ」
「騙されていると分かっていても選んだかしら」
「……そんなのは今だから言えることだ。すでにキャスリーンは子を得たのだ。そのときは彼女の心に私はいなかったはずだ」
王太子の言葉にブリジットは黙ってしまった。
それはそうだと思ったからだ。
ブリジットはキャスリーンの子が生まれてからお見舞いに行ったことがある。
キャスリーンはその子を愛しんでいるように見えた。
父親のことは一言も口にはしなかったが―――キャスリーンが後悔しているようには感じられなかった。
王太子の表情からは苦悩が見え隠れした。
愛した女が奪われた悲しみと、相手の男への嫉妬と、仕組んだ者への怒りと……。
しかし、愛した女の気持ちを一番に考えたいという姿勢が根底にはあった。
王太子はため息をついた。
「キャスリーンを奪われた反動で私も少々自棄になったという自覚はあるけどね。王太子なんてものの婚約なんて王宮内の微妙なバランスの上に成り立っているんだ。そこは嘆いても仕方がない」
「軽々しく女性を口説いていたのはそのせい?」
ブリジットはこそっと呟いた。
せめてもの抵抗だったのかもしれない。
この人は王太子という立場に縛り付けられて、あまり自分の気持ちを公には出さないようにしてきたのだ。だから「ブラッドフォード公爵にしかえししてやるっ」という風にはならない。王宮内に対立ムードが生まれてしまうから。
―――まあ、このお調子者王太子も、実は気苦労の多い人生を送っていたのである。
だが、王太子はどうしても許せないことがあるといった顔をして言った。
「ただ、ひとつだけ。……純粋にキャスリーンを傷つけた男にどういうつもりかと問い詰めたい、謝罪させたい。ブリジット、陰謀や権力などに興味のなさそうな君になら頼める。その男に接触してきてくれないか?」
「いいわ!」
ブリジットは即座に請け負った。
確かに、そういう王太子のご意見なら、私みたいな(どの派閥にも属さない)スタンスの人間に頼みたいでしょうね。
「で、その男は誰なの?」
「グレッグ・ロイスデンという男だ」
王太子はさらっと答えた。
「ロイスデンって……」
「ああ。ロイスデン侯爵の息子だ。庶子らしいがね」
王太子は頷いた。
ブリジットは少し怯んだ。
「え~っと。てことは、ヴィクター・ロイスデン様と兄弟とかそんな感じですか?」
「そうだね、ヴィクターの兄にあたるんじゃないかな」
王太子は少し悪戯っぽく笑った。
ブリジットは微妙な顔をした。
まったくの別件とはいえ、ヴィクターとキャスリーンの相手がこんなところで繋がってしまうとは。
「どんな気分だい?」
王太子は苦笑した。
「ああ、え~っと……」
ブリジットは明後日の方を向いて言葉を濁した。
しかし王太子は追及の手を緩めなかった。
「ところで、私も君の噂には興味津々なんだよね。ヴィクターとの噂はどこまで本当なのかい? スローアンとのことはどうしたいと思っているの」
「えっと、話が逸れますので……」
ブリジットがもごもご言うので王太子は余計に目を光らせた。
「私ばっかり秘密を喋って、そんなのずるいだろ。そちらの話も聞かせなさい」
「いや~お話できることは……」
「先日の舞踏会でヴィクターと喧嘩したからって、スローアンは父親から謹慎を命ぜられているよ。みっともないことをしでかしたって」
王太子はちらりとブリジットを見やった。
「えっ! 謹慎っ!?」
ブリジットは寝耳に水だったので、さすがに驚いた。(それっぽいことは実は侍女のウィニーがブリジットに伝えてはいたのだが、ブリジットの耳にはちっとも入ってこなかったのだ。)
「てっきり私に愛想を尽かしたものとばっかり」
「愛想を尽かすって何」
王太子は楽しそうに笑った。
「そんなことあるはずないのに。あの状況でまだ君を巡ってヴィクターと喧嘩していたというのだから、よっぽどだよ。気づいてやりなよ」
ブリジットはこめかみを押さえた。
「いや、すみません。まったく理解が追いつきません……。スローアン様は私と婚約破棄したいはずで……」
「だーかーら! そんなことは絶対にないってば。考えても見なよ。もし婚約破棄したかったんならとっくに破棄してるだろう」
「えええええ!?」
ブリジットはそれこそ思ってもみなかったので、驚いて仰け反った。
が、それもつかの間。
通常のブリジット脳変換機能が発動し、
「またまた、王太子様が何か言ってるわ」
と一笑に付した。
しかし王太子はやめない。
「こんなにスローアンに想われているのに、それでも、君はヴィクターの方がいいと言うの?」
「あ、どっちも嫌です」
ブリジットは開き直って素直に答えた。
「は?」
王太子はポカンとした。
「君確か、ヴィクターのことが好きって言ったんだよね?」
「言ったと思いますけど、間違いだったんで」
ブリジットはさらっと言ってのけた。
王太子は呆気に取られて口をポカンと開けた。
「君がそんな調子なのに、あの二人は公衆の面前で喧嘩し合ってたのかい?」
「いや、その喧嘩ってのが私にはよくわかりませんけど、なぜスローアン様が婚約破棄しないか私は分からないんですの。ヴィクター様は好いてくださってるみたいですけど、それも、どうしてこんな得体の知れない女を好きになるか、さっぱり分からないんですよね」
「い、いや、だからスローアンだって君のことが好きなんだってば……」
王太子は、俄然スローアンとヴィクターが気の毒になった。
「またまたご冗談を」
ブリジットは苦笑する。
「とにかく、話を戻しましょう。グレッグ・ロイスデンの件ですわ」
「……」
王太子はため息をついた。
なるほど。こりゃ、スローアンもヴィクターも大変だなあ。
「で、そのグレッグ・ロイスデンはどこにいるんです?」
ブリジットは自分の話から逃げたいのもあって、さくさく話を進めたのだった。
―――さて、キャスリーンへの気持ちを洗いざらい話してしまった王太子だったが、話してみるとたいへんすっきりしたし、またブリジットとの時間は何にも気取る必要がないのがたいへん心地よく気に入ったので、その日以来何度かヘルファンド公爵邸を訪れることになった。
ブリジットがイヤな顔をしたのは想像に難くない―――。
が、王太子の来訪とあってはヘルファンド公爵夫人が半ば強引にブリジットを拘束しては着替えや化粧を施すので、王太子はいつも美しいブリジットと対面できた。
美人というのは、まあ嬉しいものである。
臣下の屋敷に王太子がたまに訪れるのはあんまり普通ではないというのは王太子も自覚していたのだが、王太子は何となく自然とブリジットの方へ足が向いてしまうのだった。
ここまでお読みくださいましてありがとうございます!
とてもとても嬉しいです!
婚約者、謹慎中です……。気の毒に。
次回、ピンクブロンドちゃんが再登場、怒鳴りこんでくる予定です。
王太子が遊びに来るのは、やっぱり人々の噂になっているようで……。





