第32話 信長の越後進軍
「通貨が市場に溢れてしまうとその価値が下がりますが、これを通貨膨張と言います。逆に、通貨が不足して物価が下がる現象が物価収縮です」
「通貨膨張、物価収縮……」
勝二は経済政策について語っていた。
ヨーロッパの歴史や文化、現在の世界情勢などは説明を終えている。
大航海時代を迎え、植民地を求めて西洋諸国が積極的に海外へ出ている中、大西洋に現れた日本の位置がどういう意味を持つのか、戦で培われた勘を持つ彼らに理解出来ない筈がない。
地図を示して説明すれば、たちまちのうちに飲み込んだ。
海を越えた先に豊かな領地を持つ西洋諸国にとってみれば、途中にある日本は是が非でも確保したい場所である。
船が寄れる港の為、出来れば自国の領土を得、少なくとも日本の諸侯とは友好関係は築いておきたい筈だ。
そして、その国と敵対している国の動きも当然のように予想出来る。
日本に対しては裏切るように工作し、その国が日本に持つ領土は直接に攻撃するだろう。
自分達ならどうするのか考えれば、当たり前すぎる展開だった。
そしてそれは、これからの日本に待ち受ける運命をも意味している。
南蛮国に関し、各地から続々と目撃情報が伝えられており、これまでとは事情が異なる事は容易に知れる。
対応を間違えれば家の存続が危ういと、鋭い嗅覚で感じ取ったのだ。
だからだろうか。
その話をしてから明らかに、上杉家家臣達の顔つきが変わったと勝二は思った。
それまでは半信半疑、眉に唾を付けて聞いていたが、目の色を変えて勝二の話す内容に耳を傾けるようになった。
一言も聞き逃すまいとする意志を感じた。
と思っていたら、肝心の兼続の様子がおかしい。
心ここにあらずな印象である。
「お金の話はつまらないですか?」
「いえ、そんな事は……」
いつもは爽やかな言説なのに、今日は歯切れが悪い。
「国の発展にはお金も重要ですよ?」
「金は賎しき物にございますれば……」
バツの悪そうな顔で兼続は言った。
そんな様子に勝二は秘かに感激していた。
伝えられる彼のエピソードそのままだったからだ。
関ケ原の後、伏見城にて伊達政宗が自慢の金銭を諸大名に回覧させた折、扇でそれを受けたという。
遠慮せずに直に見られよとの政宗の言葉に、賎しき物を取れば汚れるとして断ったそうだ。
政宗が嫌いなだけだった可能性もあるが、高潔な精神を持った兼続を物語るエピソードであろう。
また、愛の一文字を兜に掲げて戦った彼は、信長や秀吉といった有名人は既に知っている、日本好きの外国人を喜ばせるのに恰好の存在だった。
江戸時代、名君と名高い上杉鷹山が手本にしたのが兼続の取った政策で、鷹山の藩運営の手法と併せて商談相手に説明し、流石だと感心される事請け合いの話題であった。
勝二にとって兼続は、取引をスムーズに運ぶ為の雰囲気づくりに何度も登場してもらった、大事な大事な恩人である。
細かなエピソードもしっかりと覚えていた。
史実通りに物事が進む可能性がない今、もしかしたら聞けないかもしれない兼続のあの言葉を、自分の耳で直接耳に出来て感動していた。
もしもあのエピソードが起きなければ、自分がこの話を後世に伝えなければならないと、そんな場合ではないと思いながらも決意していた。
「大金に目が眩んで盗み、奪う為に人を傷つける者は絶えません。そういう意味で、お金は賎しき心を誘発する物でございましょう」
「富を独占する強欲さを生むのも、金の持つ魔性に魅せられるが故です」
税を商人より徴収しようとすれば、商人の数は少ない方が管理が容易い。
しかし、商人の数を減らせば富はその少数に集中してしまい、特権となってしまいがちだ。
富める者はその富に飽き足らず、どこまでも蓄財を追い求めてしまう。
貧しい者はいつまでも貧しいままで、薬さえ買えない貧乏暮らしを余儀なくされている。
兼続は為政者として忸怩たる思いを抱いていた。
勝二にお金の話をされ、そんな意図はないと思いながらも、心に浮かんだ感情がつい表情に出てしまったのだろう。
また、相手が勝二だからこそかもしれない。
ふと思いついた、つまらない質問にも丁寧に説明をしてくれる勝二に、人の上に立つ者として相応しい振る舞いを忘れてしまったのだ。
「兼続様のご見識、大変素晴らしいと思います」
「ありがとうございます」
勝二の賞賛に兼続は緊張が解けた。
的を射た質問や鋭い洞察の度に褒めてくれるので、勝二の講義に参加した者は誰もが進んで意見を述べている。
それもまた、兼続が感心した勝二の人柄であり、大いに真似しようと思った事でもある。
「お金は容易に人の心を狂わせます」
「ですから人の上に立つ我らは、自らを強く制する必要があります」
「流石です」
兼続らしいと思った。
「人の上に立つ者だからこそ、お金の扱いには慎重でなければなりません。論功行賞などは特にそうです。約束した額が足りなければ信用を失い、下の者は不平を溜めるでしょう。上の者はしっかりとお金の管理を行い、不測の事態にも不足する事がないようにしなければ」
「確かに」
勝二の言葉に兼続は頷いた。
もらえる筈のモノがもらえないと、初めから期待していなかった時より怒りは大きくなる。
「為政者が優先して為すべき事とは、領内のお金の巡りを停滞させない事と言えるのかもしれません」
「と言うと?」
おやという顔をした。
「景勝様にご説明しましたが、誰かが手元に貯め込み過ぎると市場を巡る通貨の流通量が減り、皆が貧しくなります。まあ、大体の場合が豪商ですね。彼らが貯め込み過ぎないように税なりを課し、集まったお金を治水工事や新田開発などに費やし、民にお金が流れる事を図る必要がございます」
「成る程、循環させるという事ですね」
「まさしく」
相変わらず理解が早い。
「武田信玄公の教えに、人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なりというモノがございます」
「聞いた事があります」
隣国甲斐は長らく敵国だったが、勝頼の代になって誼を結んでいる。
それもあって信玄の言葉も伝え聞いていた。
「しかし、人がその地に安定的に住むには、その者だけでなく家族の生活を成り立たせる生業が必要です。どれだけ情けを掛けた所で、情けで腹は膨れませんから、生活の糧を得られるべく考えるのが為政者の務めです」
「生業を……」
兼続はその意味を考えた。
彼の理解が早いのは、自分の頭で考えながら聞いているからだろう。
「お金というのは不思議な物で、多くの人の懐を巡れば巡る程、人も世間も豊かにしていきます。お金を借りずに清貧な国造りを目指すよりは、商人に借りてでも使った方が結果として多くの者の生活を支える事になり、国の発展に繋がるでしょう」
「借りてでも使う、ですか……」
当時であれば、いざという時には難癖をつけて財産を没収するという手がある。
税率も税を課す相手も思いのままなので、多少は強引な方法を取る事も出来た。
「また、何かの事業を興す際、成功した時に配当金をもらえる条件で資金を調達する方法もございます。これを株式と言いますが、西洋ではこうやって新大陸への冒険の旅に出ているようです」
「ほう?」
1553年、イングランドの合資会社が、ロシアとの交易の為に株式を発行して資金を調達した。
世界初の株式会社は、1600年に設立された東インド会社となる。
「富める者が懐に貯め込む事を防ぎ、尚且つ新たな事業を興す方法として株式は有効です」
「しかしそれですと、配当金でしたか、金が金を生む事になりませんか?」
「お見事です」
兼続の慧眼には素直に脱帽であった。
「仰るように、富める者は生活に困らない資金を存分に株式に使う事が出来ますので、事業が成功すれば莫大な配当金を得る事が可能です。お金がお金を生み、富める者は益々富む事になります。貧しい者は株式にお金を使う事など出来ませんから、いつまでも貧しいままとなりがちです」
「やはり」
その説明に納得した。
「ですが考えてみて下さい。儲からなければ誰もその商いをやろうとは思わないでしょう。それに、事業が成功すれば新たに人を雇う事もあります。それは生業が増え、その地に住める人の数も増加する事になります」
「そう言われてみれば……」
「何を優先するのか、それが重要です。清く正しくあろうとする事は素晴らしいのですが、群雄が割拠する今、弱ければ他国に飲み込まれてしまいます」
「それは確かに」
史実では天下統一までもうすぐだが、今は状況が異なる。
「大西洋に移動し、他国の富を奪う事に躊躇のない西洋諸国がすぐ近くに現れてしまった今、我らを守るのはこの日本全体の筈で、城も石垣も堀も、この地に住む者全てとなります。織田家にとって上杉家の領地開発は、我が領地を整える事と同義です」
「そのような意識で?!」
兼続は言葉を失った。
見ている先が違い過ぎると思った。
後継者問題で家を二分する争いを起こし、ようやく外にも目を向け始めた自分達とは比べようもない。
「経緯は兎も角、我らはこうして知己を得ました。西洋諸国に対抗するには、我らが心を一つにする必要がございます。いえ、そうでなければ成し得ない事です」
「はい!」
こうして勝二と兼続の間に友情が芽生えた。
以来、親しく付き合う事となる。
時間を少々遡る。
信長は、いつまでも帰らない勝二を連れ戻さんと、必要な兵を越後に向け進めようとしていた。
進軍の準備が整った丁度その頃、唐突に連絡が入る。
「お館様、明智様が丹波に続き丹後を平定、勝利のご帰還にございます!」
「やったか!」
信長に対して謀反を起こした、丹波の大名波多野秀治。
数年に渡り攻めていた明智光秀がようやく勝利し、報告の為に安土に向かっているという事だった。
「如何なされますか?」
このまま報告を待たずに出発するか、報告を受けてから出発するか、蘭丸は問うた。
信長は暫く考え、答えを出す。
「丁度良い、待つ」
「ははっ!」
丁度良いという言葉に違和感を覚えつつ、蘭丸は控えた。
「丹波の平定、大儀であった」
「有難きお言葉」
光秀が信長に頭を下げている。
「届きました武器弾薬のお陰にございまする」
「石山に大量に蓄えられておったからな」
無血開城した石山城には、織田軍も驚く程の火縄銃、火薬類が保管されていた。
それらは接収後、いち早く最前線の秀吉、光秀らの下に送られており、戦を有利に進める事が出来たのだ。
光秀は信長の配慮に感謝した。
「それはそうと、お館様直々に越後に向かわれると耳にしたのですが、誠でございまするか?」
慌ただしさに包まれた安土城の様子に、光秀はただならぬ空気を感じた。
思いおこせば、太陽の方角が変わったあの時からおかしな事が起こり続け、前代未聞の噂話が民衆の中でも広まっている。
曰く日本が大西洋に移動したとも、南蛮人が艦隊を組んで堺に現れたとも、君主信長がスペインと同盟を組むともある。
勅旨にも目を通したが、俄かには信じられない内容であった。
情報は集めていたが、伝聞だけでは釈然としない。
信長の真意を質したい所だったが、いくら戦勝の報告時とはいえ出過ぎた真似は出来かねる。
そんな光秀の思いを躱すが如く、信長はあっさりと告げた。
「光秀よ、貴様も越後に参れ!」
「私もでございまするか?!」
呆気に取られた光秀に言葉を重ねる。
「堺で南蛮の船に乗り込み、瀬戸内を抜けて越後へと向かう!」
「何ですと?!」
更に驚愕する内容であった。
言葉を失う光秀に信長はニヤリとする。
「あの南蛮の船団を見れば、頭の固い毛利とて信じざるを得ぬだろう。勝てぬ争いをしている場合ではないとな」
「そんな事が……」
砲艦外交のつもりであった。
尤も、当時の艦砲の射程距離は短く、陸地を攻撃する能力は低い。
むしろ、南蛮国との関係を誇示する目的であり、先々で彼らから手に入れる武器が、誰に使われるのか考えろという暗示であった。
「されど、冬の山陰の海は荒れると申しまする」
光秀が懸念を述べた。
瀬戸内海は兎も角、冬の日本海は波が荒く、航海どころではないと聞いている。
「過去の常識は通じぬと知れ! 大海を渡る南蛮船である! 多少の嵐は堪えぬわ!」
「ははっ!」
信長の怒気に光秀は慌てて平伏した。
「直ぐに出立する! 用意致せ!」
「はっ!」
こうしてスペイン艦隊に乗り込み、信長らは越後へと向かった。
越後、春日山城。
「景勝様! 沖合に見慣れぬ船団が現れたとの報告です!」
「何事だ?!」
景勝が受け取ったその報告は、勝二を連れて領内を回っている時に届いた。
蝦夷地との交易回廊設置に向け、越後における港の事前視察である。
不思議な事に、異変後は海が荒れなくなったという漁民の話だった。
早速沖が見渡せる場所に移動する。
「何だあの巨大な船は?!」
遠目にも巨大な船が多数、沖合に浮かんでいる。
帆も複数で、掲げた旗が風にたなびいていた。
「あれはスペインの旗!」
「あれが南蛮船なのか?!」
勝二の言葉に上杉家の面々は驚愕した。
初めて目にする南蛮船の威容に言葉を失う。
そんなスペイン船に、勝二は目を疑う物を発見する。
「織田家の旗?」
「何だと?!」
スペインの旗の横に織田軍の永楽銭が見えた。
「まさか、織田が攻めてきたとでも言うのか!?」
景勝は不安げに勝二を見つめた。
君主たる者、心の動揺を表に出しては不味い。
しかし、噂でしか聞いた事のない南蛮船に乗って織田軍が現れるという、およそ思いもしなかった展開に気が動転したのだろう。
安心させる為に断言する。
「いえ、それはあり得ません。南蛮船とは言え、たかが数隻です。軍備の整った国を攻める程の兵力は乗せられません」
「左様か!」
勝二の説明に他の者達もホッとしたようだった。
「では、何故現れた?」
「それは……」
そう言われても見当も付かない。
そんな時だ。
「景勝様、船に動きです!」
監視役から声が上がった。
見れば大砲をこちらに向けつつ小舟を下ろしている。
上陸するつもりなのだろう。
勝二はハッとして景勝に言った。
「向こうに攻撃の意思はありません! ですが兵装を整え、出迎えて下さい!」
その言葉に慌ただしく上杉家は動き始めた。
「まさかカルロスさん?」
先頭に見覚えのある西洋人を認めた。
帰国してからそんなに時間が経っていない筈である。
もう来たのかと呆れた。
「なら、ジャガイモやサツマイモも?」
カルロスに頼んだ、有用作物の種苗を思い出した。
それらが手に入れば、気候変動に備えて大変に心強い。
そして、彼の横にいる人物の姿が目に入り、勝二は呆気に取られた。
「え?」
信じられず、思わず二度見する。
「信長様?」
どう見ても信長であった。
上陸に際し、泊まった小舟の上、すっくと立ってこちらを睨んでいる。
「嫌な予感が……」
当時の冬の装いは不十分で、長時間外にいると体の芯から冷えてしまう。
それなのに、背中を流れる冷たい汗を感じた。




