第169話 暗雲
解放軍の進撃はアントリムで止まった。
あてにしていた食料が手に入らず、これ以上の作戦行動に支障をきたしたのである。
圧政の打破を題目としている手前、アントリムの住民から略奪の類は出来ない。
「敵にしてやられたな」
足止めを食った形の道雪がポツリ呟く。
勝二から話としては聞いていたが、相手に利用させない事だけを目的とした、兵糧を駄目にする行為などまるで実感が湧かず、対処が遅れた結果でもある。
数多の戦場を潜り抜けてきた彼であったが、たとえ負け戦であっても自軍の兵糧を焼き払った事などありはしない。
敵に攻め込まれた領地の防衛戦において、逃げる時にそんな事をすれば農民からの信頼を失い、大友家の支配体制に重大な影響を与えたであろう。
その支配に反感を持つ者達が俄然勢いづき、不満を溜めた領民を炊きつけて反乱を起こす事は必至だ。
だから想像すら出来なかった。
「敵の進軍を止めるのに、このような策があるとは思わなんだ」
経験豊富な道雪がそう思うのも無理はない。
これまで彼が戦ってきた戦場は、たとえ領地から離れても歩いて数日のうちに帰れる距離だった。
たとえ足りない物があっても急ぎの使いを出せば間に合う場合が多く、物不足で深刻に悩む事がなかったのである。
なので今回のような状況自体が初めてだった。
それは何も道雪の性格が呑気であった訳ではなく、宗茂ら戦国武将の多くが似たようなものだ。
当時、九州征伐において行われた、長距離移動を伴う作戦行動を取った織田家並びにその同盟国の事例こそ例外なのだ。
そして、その大作戦をつつがなく収める事が出来たのは、たとえば石田三成といった裏方の存在抜きには語れない。
表立っては評されにくい、地味で目立たない彼らの奮闘がなければ、かの第六天魔王織田信長とて遠い九州の地でひもじい思いをした事だろう。
そして、そのような戦いがあった事を詳細に知る者が一人、このアイルランドにいた事こそ解放軍にとっては幸いであった。
「解放軍が掲げる題目に共鳴し、挙げた戦果に喜び、アイルランド中から続々と支援物資が集まってはいますが、現状では今の状態を維持するので手一杯です」
「やはりこれ以上の進軍は無理じゃな」
勝二の言葉に道雪が頷く。
その卓越した業務手腕により、各地から寄せられる物資を分類、集計、集積して保管の都合を付け、本部(仮)に届く、物資に関する苦情や要請を精査し、必要な場所に必要な量を過不足なく届けられるよう、集積場所から送られてきた物資を確認して各所に分配しているのが、戦場働きの方はからっきしの彼であった。
それはまさに兵站と言える。
目立たないが戦いを継続していくのに欠かせない、大事なその業務を勝二が一手に引き受けていたが、それは彼の手足となって働いた、カトリック司祭らの献身なくしては成り立たない。
そして、圧政の解放を目指して戦う農民達を影から支えた彼らこそ、後のアイルランド行政を担う役人集団となるのだった。
勝二らの仕事ぶりを知る道雪に、その発言を疑う事は出来ない。
「ベルファストを襲えば、港に積んだ麦を取り返せるんじゃねぇか?」
豊久が己の考えを述べた。
軍港であるベルファストには、アイルランドから搔き集め、イングランドへと運び出す小麦が山のように積み上げられているらしい。
足りないなら他所から奪えば良い。
当時を支配していた弱肉強食の思考であるが、道雪が異を唱える。
「無駄になるのが一番嫌なんじゃと」
「何?」
意味が分からず豊久は道雪を見やる。
「奇襲が成功すれば良いのじゃが」
「やるなら必ず成功させるぜ?」
憂い顔の道雪に、豊久は挑むように答えた。
それだけの自信はあるし、自負を裏打ちする実績も上げているつもりだ。
しかし老将の曇り顔は晴れない。
「港を襲うには町へと近づかねばならんが、まるで悟られずにそれは不可能じゃろう?」
「それはそうだけどよ」
豊久も不承不承頷く。
一人で町へと潜入するのなら別だが、多くを率いれば無理であろう。
「勘づかれた時点でアントリムの二の舞じゃ。多くを海に捨てられるじゃろう」
「ある程度は仕方ねぇんじゃねーのか?」
何事にも犠牲は付き物だ。
こちらも無傷で成し遂げられるとは言わないし、多少の損害には目を瞑るべきだろう。
そうでなければ大きな事は為せない。
その言葉に同意しつつも道雪が反対する。
「多少であれ無駄にされるよりは、たとえ敵といえども誰かの腹の足しになる方が余程良いと言うておる」
「百姓の矜持ってやつか」
汗水垂らして収穫した物が無残に扱われるのを見たくないのだろう。
土壌が痩せ気味の島津領にあり、屋敷の庭で多少の畑いじりをした事がある豊久には、彼らの気持ちが幾分理解出来た。
「ま、奴らがそれでいいならこれ以上は言わねぇさ」
「すまぬのぅ」
敵の懐を温かくしない事を考えれば、たとえ全てを海の藻屑としようとも、ここは強引にでも攻めるべきだろう。
そう主張したい道雪であったが、この戦いは自分達の物ではない。
ここはネイルらの意志を尊重した。
「しかし分かんねぇぜ」
「何がじゃ?」
思案気な豊久に今度は道雪が尋ねる。
「俺達の国で言えば年貢で集めた米をむざむざ捨てるようなものだろ?」
「そうじゃな」
「そんな事を仕出かす奴の下で、領民が大人しく従うとは思えねぇんだが」
「確かにそうじゃな」
「実際、こうやって反乱が起きている訳ですからな」
宗茂のいう通り、農民達は物言わぬ案山子ではない。
不当な命令には断固とした抗議をし、振るう刀がなければ鍬や鎌を振り回し、武力で抵抗する集団である。
彼らの統治方法には常に注意を払っていた武将らであるから、アイルランドで行われていた乱暴なやり方が信じられない。
何故だろうと自問している彼らに勝二が口を開く。
「反抗的な民ならば、いっそ全て死んでしまえば良いと思っているのかもしれません」
「死んだ方が良いとな?」
「それでどうやって国を治めるんだ?」
その説明には見当がつきかねた。
「民が足りなければ自国から連れて来れば良いのです」
「何だと?」
「成る程。距離が近ければそれで解決出来る訳ですか」
「領民を置き換えるのかよ? 血も涙もねぇ話だな!」
「国を奪われるとはそういう事です」
その答えに唖然とする。
事実、アメリカ大陸ではそれが行われ、スペインから次々と男達が渡っているそうだ。
これまで見た事も聞いた事もないような話に道雪らは慄然とした。
幸い、侵略者をこの島から追い払う寸前まで持って来れたが、先の事は分からない。
連勝が続き、皆の気が大きくなっている事が気にかかるし、敵を侮る空気も生まれ始めている。
勝って兜の緒を締めよと言うが、育った環境が違い過ぎるアイルランド人にそれを上手く伝える事は出来なかった。
商売関係には精通した勝二も、集団の意思を一つにまとめ上げる能力は持っていない。
道雪は何となく嫌な流れを感じていた。
戦の神とまで評された道雪だが、実は人使いの巧みさこそ彼の真骨頂である。
個々人の資質に大きく左右される鉄砲普及以前の戦は、士気のあるなしが戦況に大きく影響した。
たとえ劣勢にあっても、士気が高ければ決死の攻勢を仕掛ける事も出来る。
逆に優勢であっても、士気が低すぎれば何かの拍子に総崩れを起こしてしまう事もあり得た。
自信のない者は鼓舞し、失敗して落ち込む者は慰め次の挽回に奮起させ、逸る者は落ち着けて冷静さを取り戻させ、兵士の持つ力を存分に引き出す事によって大友家に勝利をもたらしてきたのである。
そんな道雪であったが、アイルランドでは勝手の違いに苦労していた。
喜怒哀楽には大して違いがないが、気質の違いとでも呼ぶのか、思ってもみなかった反応に戸惑う事もしばしばだった。
今は逸る気持ちを抑えるべきなのに、次こそ敵を完膚なきまでに叩き潰してやるぞと誰彼構わず口にしている。
意気軒昂なのは良いのだが、過ぎれば敵の罠に容易にかかってしまいかねない。
その辺りの加減が分からず、道雪は対応に苦慮していた。
そんな時だ。
「イングランド軍がベルファストを出て、こちらに向けて進軍を始めたそうです!」
放っていた密偵から連絡が届いた。
「初めて敵を迎え撃つ訳じゃな……」
「へっ! 望むところだぜ!」
「存分に暴れてみせましょう!」
戦に臨んで血気盛んな豊久らと違い、微かな暗雲の垂れ込みを道雪は感じた。




