第161話 アイルランド
本編です。
信仰の島、シュケリッグ・ヴィヒルで暮らす修道士達の朝は早い。
水平線が白む前から粗末な寝床を抜け出し、暗闇の中にもかかわらず、一心不乱に神へと祈りを捧げ始める。
そんな彼らの出で立ちは特異であった。
毎日の祈りで何度も膝をつくせいか、丈夫に作ってある筈の修道衣でさえ膝小僧はボロボロで、過酷な運命に抗うかのごとく必死に補修した跡が見える。
外見を気にする者などいないのか、伸びてボサボサとなった髪を後ろでくくり、胸まで届きそうな髭を隙間風に揺らしている。
その表情は真剣そのもので、いささかの気の緩みも迷いも見えなかった。
隙間風が吹く彼らの小さな礼拝所も圧巻である。
知らない者が見れば小石を積み上げただけの、昼間でも薄暗く、狭くてみすぼらしい空間でしかないだろう。
しかしそれは彼らの先輩である歴代の修道士達が、小石を一つ積む度に神への讃歌を口ずさみながら、数百年に渡って築き上げてきた結晶なのだ。
朝早くから起きて神へと祈りを捧げ、夜遅くまで神への思索を深める毎日。
修道士達の日常は実に単調だった。
彼らの食事もまた単調である。
島で繁殖するニシツノメドリ(パフィン)の成鳥や卵を捕らえ、岩の窪みに僅かに堆積した土を耕して野菜を育てる。
それらと焼いたパン、それが島での食事の全てだった。
小さな島に木は生えない。
パンに使う小麦や煮炊き用の燃料は、離れた本島から運んで来るしかなかった。
また、水は岩に穴を掘り、降る雨を貯める事でしか得られないので、大変に貴重である。
昼過ぎ、二人の修道士が今日の糧を得る為、島の西斜面に来ていた。
そこはニシツノメドリの一大繁殖地となっており、夥しい数の鳥達が営巣し、島の周りを飛び交っている。
彼らは海に潜り、獲物である小魚を捕まえる。
波は荒いが島の周辺は良い漁場であるようで、空中から勢いよく海に飛び込む度、嘴一杯に獲物を捕らえていた。
子育ての真っ最中であるので、獲物は直ぐに巣へと持ち帰り、腹をすかせた雛へ与える。
そんな鳥達の中から、修道士は躊躇いなく一羽を捕まえた。
素早くもう一羽を掴む。
今日の糧が得られた事を神へと感謝し、立ち上がった時だった。
『船でしょうか?』
波の遥か彼方に白い点が見える。
その声に気づき、もう一人も顔を上げた。
『そのようです』
目を凝らさないと分からないが、確かに船らしき影が見える。
二人して今夜の晩餐を掴んだまま、しばらくその場に立ち尽くす。
徐々にではあるが影が大きくなっていった。
しかしいつまでもそのままではいられない。
灯りが貴重な島では日が落ちるまでに外の作業を終えねばならず、船が近づいている事を仲間に伝え、二人はそれぞれの持ち場に戻っていった。
『一体どこの船でしょう? イングランドでもスペインでもないようです』
小石で出来た庵に窓はなく、明かり取りの穴からは外が丸見えである。
なので島に接近してきた船の輪郭がはっきりと見えた。
白地の真ん中に赤い丸が描かれ、その丸から幾筋もの赤い線が放射状に伸びている。
修道士の誰も見た事のない図柄だ。
と、船の上から盛んに手を振っている人物がいる。
敵意はないようだ。
人懐っこい者がいるのだなと思っていると、手を振っている人物の顔まではっきりと分かる距離になった。
『ネイル?!』
一人の修道士が驚きの声を上げる。
島で最も長く修行している男、ショーンだった。
『知っているのですか?』
『この島で共に修行した仲間です!』
『まさか西方に船を出したという、あの!?』
『そのネイルです!』
修道士達は驚き、互いの顔を見る。
伝承ではアイルランドの西方に約束の地があるという。
バチカンによって奇跡認定された日本の出現は、イングランドの支配に苦しむ彼らにとり、心の拠り所となった。
伝承は正しいのではないかと。
数年前、それを確かめに船出したのがネイルだと聞いている。
『あの船は、まさか日本の船?』
『もしかしたらそうなのかもしれない!』
修道士達の心はざわついた。
船は島の近くに留まり、小舟に乗って数人が島へと上陸する。
波止場などある訳もなく、荒波が打ち寄せるに任せた岩場だった。
島にいる全ての修道士が珍客を待ち構える。
日が陰り始めていたが、正直それどころではない。
上陸した男達の中に懐かしい友の顔を見つけ、ショーンは叫ぶ。
『ネイル!』
『その声はショーン!?』
ネイルは驚き、自分の名を呼んだ声の主を探す。
髭モジャ達の中に再会を誓った友がいた。
互いに歩みより、固い抱擁を交わす。
『まさかまだ島にいたとは!』
『お前の無事を天の父に祈っていたのさ!』
『そのお陰なのだろうな、こうして無事に帰ってこれたよ!』
二人は互いの無事を喜んだ。
見守る周囲の事を思い出し、ショーンがネイルに尋ねる。
『その方々は?』
『日本人だ!』
『やはり!』
その答えに修道士達がざわめいた。
『お前は日本に辿り着けたのだな』
『神のご加護があったからさ』
気になる事のズバリをショーンが聞く。
『それで、約束の地はどうだった?』
『いや、それはなかったよ』
『そう、か。うん。そう、だよな』
その言葉に落胆した。
彼らの気持ちがよく分かるネイルは朗らかに声をかける。
『ショーン、落ち込むのは早いぞ?』
『何?』
顔を上げた友に告げる。
『我らにとっての約束の地は西方ではなく、東方にあったのさ!』
『東方に?!』
胸を反らし、決意に満ちた表情でネイルが指さす。
『東方とはどういう意味だ? 大陸にあると言いたいのか?』
『違う』
否定し、言う。
『我らが故郷、アイルランド島さ!』
『何だって?!』
修道士達殊更に驚いた。




