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第156話 出航

 「話したい事があります」

 「何でございますか?」


 勝二は意を決し、お市にアイルランドの事を話す事にした。


 「一緒に帰ったネイルさんなのですが……」

 「会話はほとんど出来ませんが、性根の良い人でございますね」

 「ええ、そうですね」


 言葉を選びながら話し始める。 


 「あの方がどうかしましたか?」

 「間もなく故郷に帰る事になりました」

 「まあ! それは龍太郎も寂しくなりますわ」

 「随分と懐いていましたね」


 毛色の違うネイルに息子は興味津々で、彼の一挙手一投足に注目していた。

 彼の歌う讃美歌を真似、口ずさんだりした。

 そんなネイルが帰るとなれば悲しむだろう。


 「お別れの宴を開かなくては」

 「そう、ですね」


 奥歯に何か挟まったような顔をしている夫に、お市は何かあるのだと察する。 


 「何でございましょう?」

 「ええ、まあ、何と申しますか……」


 歯切れが悪い。

 相当に言いにくい内容であるらしい。


 「はっきり仰って頂かないと分かりませんわ!」

 

 妻の語気に促され、勝二は一気に喋る。


 「彼の帰国に合わせて私も行く事になりました!」

 「またですか?!」


 お市は驚き、夫の顔をマジマジと見つめる。

 深刻そうなその表情から、軽口や冗談の類ではないらしい。

 思わず嘆息した。


 「折角兄様にお願いしましたのに……」

 「すみません……」


 お市は兄信長に訴え、夫を国内に留めた。

 その苦労が水の泡である。


 「今度はどれくらい?」

 「一年二年では帰れないかもしれません……」

 「そんなに長く?!」


 直ぐ帰るという樺太でさえやきもきしたのに、1年以上というのは長すぎると思う。


 「今度は何をされるのです?」

 「ネイルさんの故郷は隣国から圧力を受けているのですが、それを跳ね返す兵法を授けに向かう、戸次道雪様の通訳です」

 「まあ!」


 ネイルの他に客はもう一人いて、それが道雪だった。

 おきなと呼んで過言ではない年齢で、幼い龍太郎を孫のように可愛がってくれていた。

 お市は自身の祖父信定の事を知らない。

 生まれた時には既に亡くなっていたからだが、そのせいか、道雪の事を赤の他人のようには扱えなかった。

そんな道雪を手助けする為と言われれば、尚も強硬に反対する事は出来ない。 


 「お役目であればこれ以上は申しませんが、いくら民の為とはいえ、甲斐のような考えなしは二度となさいませんよう、くれぐれもお気をつけ下さいませ」

 「……はい」


 とはいえ、釘を刺すべきところは刺しておく。

 恐るべき住血吸虫に際しての、自己犠牲とも取れる夫の振る舞いについてだ。

 美談として持てはやすのは容易い。

 しかし、妻としては心穏やかではいられない。 


 「それでなくとも、貴方様はご自身の身を軽んじておられるように見受けられますので」

 「申し訳ありません……」

 「責めている訳ではありませんわ。武家に仕える身なのですから、命じられればその命を投げ出す事も立派な務めです」

 「そう、ですね……」


 お市の言葉に、流石は戦国大名の姫だと勝二は思った。

 とはいえ、そんな命令は御免こうむりたい。

 

 「ですが甲斐の場合、貴方様の独断でございましょう?」

 「そう、です」


 勝二は躊躇いがちに頷いた。

 自慢するような事ではないし、したらたしなめられそうである。


 「人を危険に晒すよりは自分がと、そのようにお考えでしたか?」

 「そんなところです」


 嘘ではなかった。


 「怖くはなかったのですか?」

 「一度きりなら死ぬような事はないと思っておりましたので」

 「随分と冷静にご判断されたのですね」

 「昔から私にはそんなところがありました。自分の事なのに他人事と言いますか……」


 言葉を濁す。

 心理学で言うところの離人症に当たるが、上手く説明する自信はない。

 けれどもお市はハタと手を打ち、言う。


 「合点がいきましたわ」

 「合点、ですか?」

 「そうです。嫁いだ当時は、感情の起伏が少ない方だと思っておりましたので」

 「当時は、ですか。今は違うのですか?」

 「そうですわね。喜怒哀楽の違いが分かるようになりました」

 「成る程」


 流石は信長の肉親だと思った。

 観察眼に優れているのだろう。


 「私は昔から、どこにも帰る場所がないと感じておりました」


 勝二は少しだけ自分の事を語った。


 「帰りを待つ家族もおらず、どこで野垂れ死んでも構わないと」

 「まあ……」


 お市は夫の言葉に絶句した。


 「美味しいという感覚が乏しく、楽しいという気持ちが薄く、悲しい出来事に遭遇しても心が動かないような、そんな男でした」


 その告白に疑問を抱く。

 息子と接する時には、心から嬉しそうな表情をしていたからだ。


 「今もそうなのですか?」

 「いいえ、今は違います」


 否定されてホッとした。

 

 「今は死ぬのが怖いです。この家に二度と帰って来れないかもしれない、お市さんや龍太郎に会えないかもしれないと考えると、堪らなく怖くて恐ろしいです」

 「それを聞いて安心しましたわ」

 「え?」


 今度は勝二が驚く。

 そんな夫にクスっとし、言った。


 「死ぬのが恐ろしいから必死になり、必ず生きてお帰り下さいね」

 「必ず!」


 勝二は強く言い切った。




 「道雪様!」


 龍太郎に剣の稽古、と言っても軽い真似事であるが、それをつけていた道雪に声が掛かる。

 誰だと思い振り返ったところ、思いもしない訪問客で目を見開いた。


 「婿殿?!」


 その器量に惚れ込み、娘の婿にと強く望んだ高橋宗茂その人であった。

 宗麟追放後の豊後を引継ぎ、領内経営に忙しくしている筈であるが、のほほんとした顔でたたずんでいる。

 その後ろに立つ者にも驚いた。


 「誾千代ぎんちよもおるのか!?」


 一人娘がその腕に赤子を抱え、笑顔でこちらを見つめている。 

 道雪はハッとした。


 「その子はまさか!」

 「そのまさか、道雪様の孫にございますよ」

 「なんと!」


 宗茂の言葉に衝撃を受ける。 


 「この地を離れる前になって初孫に会えるとは!」


 娘が妊娠したという噂さえもなかったので、予想だにしていなかった。


 「して、どちらじゃ?」


 スヤスヤと眠る顔からは男か女か分からない。


 「元気な男の子でございますよ」

 「でかした!」


 跡継ぎを生んだ誾千代を褒める。

 自身には男児がなく、少し寂しく思っていた。


 「名前は?」

 「八幡丸にございます」

 「八幡丸か! 元気に育てばそれで良い!」


 乳幼児死亡率の高い当時、無事に成長するだけでも幼い子供にとっては大変な試練である。

 感慨深げにウンウンと頷く道雪に、何を思ったか宗茂がその場に平伏した。


 「お願いがございます!」

 「一体どうしたのじゃ?」


 戸惑い、その意図を尋ねた。

 宗茂が頭を下げて懇願する。


 「私も異国へ行きとうございます!」

 「何を馬鹿な事を!」


 道雪は言下に否定した。

 宗茂が食い下がる。


 「馬鹿な事ではございませぬ! 熟慮を重ねた結果です!」  

 「何が熟慮じゃ! そもそも豊後はどうするのじゃ!」

 「父上に任せました!」 

 「紹運めが承知する筈がなかろう!」


 その人となりは知り尽くしている。

 責任ある政を放り出し、異国へ行くなど許す筈がない。


 「後の事は任せると伝えたところ、快く引き受けて下さいました!」

 「大坂に出ている間はという意味に決まっておる!」

 

 婿を叱りとばす。

 真意を隠してそれっぽい事を言い、都合の良いように解釈しているのだろう。


 「それに子が生まれたばかりじゃろうが!」

 「跡取りが出来たからこそ、多少の無理が出来るというモノです!」


 ああ言えばこう言う宗茂に手を焼き、娘の方を向いた。


 「誾千代も何か言ってやりなさい!」

 「別に構いませんが?」

 「何ぃ?!」


 思わぬ裏切りに唖然とする。

 その声に目を覚ましたのか、八幡丸がぐずり始めた。

 

 「赤ん坊がいるのですから大声は止めて下さい」

 「す、すまん……」


 道雪は慌てて謝った。

 娘はそんな父親に、腕の赤子をあやしながら言う。


 「父上のなさる無茶をずっと見て育ちましたので、夫とはいえ人にこうあるべきとは言えません」

 「む、むむ」


 道雪は言葉に詰まった。


 「重ね重ねお願い申す!」


 梃子てこでも動きそうにない宗茂である。

 道雪は困り果て、遂に観念した。


 「勝手にせい!」

 「ありがとうございます!」


 こうして宗茂を加えた一行は、準備の出来た島津の船で大坂を発った。

主人公の話はもっと前、お市と結婚して暫くした頃に書く予定でした。

唐突感がありますがご勘弁を。

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