第117話 イスラム教
説明回です。
信長一行はテヴェレ川を下り、ティレニア海に面した町オスティアに着いた。
ローマ帝国の時代から港町として栄え、豊かな海産物が有名である。
一行にとり、海沿いの町は心が落ち着いた。
内陸部を多く旅し、海を見るのは久しぶりである。
潮の香りはどこの国でも同じらしく、遠い故郷の事が思い起こされた。
「やっぱ魚はうめぇな!」
「醤油があればと思いますね」
マルコの営む商会へと顔を出し、遅めの昼食にありつく。
ムール貝や牡蠣といった、新鮮な魚介類に舌鼓を打った。
悔やまれるのは醤油が切れている事だ。
塩味だけでは味気なく、オリーブオイルや香辛料を使った料理は確かに美味いのだが、やはり何かが足りなかった。
『マドリードは海産物に乏しいですから、ここのお料理は珍しいモノばかりですわ!』
『私もずっと山育ちだから、初めて見るモノばかりだよ』
『凄いね!』
イサベルらも大興奮である。
珍しくノエリアもウキウキだった。
『これは何だかご存知ですか?』
勝二はふとした悪戯心から、店頭に飾られていた魚介類の中から、特徴ある生物を彼女らに示す。
客はそれらから好きな物を選び、新鮮なうちに料理してもらう事が出来る。
冷蔵施設こそ整っていないが、現代でも普通に見られるシステムであった。
海に近いからこそ出来るのだろう。
『それは何ですの?』
『うへぇ、足が多いねぇ。1、2、3……8本もある?!』
『ウネウネしてて気味が悪い……』
赤黒い色をして足が8本ある海の生き物。
『これこそ、かの悪魔の魚にございます!』
『これが!?』
イサベルらは驚愕した。
名前は聞いた事があったが、実物を、それも生きている状態の物を見るのは初めてである。
「何だ? タコが悪魔なのか?」
信長にはピンと来ない。
「ユダヤ教徒は鰭と鱗のない魚、タコやイカ、ウナギなどは食べませんので、転じてそうなったのでしょう」
「何ぃぃぃ?!」
一同、驚愕する。
「信じられねぇな。タコもウナギも美味いじゃねぇか。特にウナギのかば焼き……。思い出しただけで涎が出るぜ」
「そうですよ。どうして嫌うのか理解出来ません」
幸村も信親も考えが及ばなかった。
因みにウナギのかば焼きは、醤油の増産に伴い大坂で普及しだした料理である。
「好き嫌いの問題ではなく、信仰上の理由です」
「面倒くせぇな」
「そうですね。我々から見たら面倒この上ないですね」
不満そうな幸村に勝二が言った。
勝二とて、日本は食のタブーがないに等しい国で良かったと思っている。
もしも江戸時代に来ていれば、肉食は忌むべき事だった。
『それはそうと、その方らは国へ帰らぬのか?』
信長がイサベルに尋ねる。
いつになったら帰るのだと思った。
どこまで着いて来るのだと。
信長の意に反し、返ってきたのは旅の継続である。
『ここまで来たのですから、最後までお供致しますわ!』
『別の国も見てみたいし!』
『私は、ゆきむらがいるところなら……』
ノエリアは何を思ったか、突然顔を真っ赤にして口をつぐんだ。
『物好きな奴らだ。好きに致せ』
そんな彼女らに溜息を漏らす。
昼食を終え、一行はマルコの商会が所有するガレオン船に乗り、まずはシチリア島へ向かう。
「イスラム教とキリスト教は何が違う?」
暇な船の上である。
信長は、これから訪れる国の特徴を把握しておこうとした。
「キリスト教ではナザレのイエスが救世主ですが、イスラム教におけるイエスは不完全な救いを伝えた預言者となっています。そして、最後にして最高の預言者であるムハンマドが、完全なる神の教えを預かったとしています」
「完全なる?」
「まさしく完全です。これ以上はないという意味です」
勝二は説明する。
「唯一神であるアッラーはムハンマドを通じ、その教えであるコーランを示されました。教えの全てはコーランに書かれており、コーランに書かれてある内容が神の教えの全てです」
それに対して疑問が湧いた。
「イスラム教が興ったのはいつだったか?」
「神から啓示を受けたのが西暦610年頃ですから、今から約千年前です」
「千年? つまり、それから一切内容に変更はないという事か?」
「そうなります」
「真か……」
それだけで以て信じ難い。
信長の考えている事が想像出来たが、他の者に説明する為にも勝二は続ける。
「天使ガブリエルを通じて伝えられた神の教えであるコーランは、その一語一句に至るまで全て神の言葉であり、コーランに書かれている事を信じ、厳守するのがイスラム教徒である事と同義になります」
一行には馴染みのない考え方であろう。
「信者の守るべき事柄はコーランに書かれていますが、さほど難しい表現は用いられていないようなので、アラビア語が読めれば内容を理解出来るようです」
「分かりやすいという事か」
「はい」
勝二のアラビア語は辛うじて会話が出来る程度であり、文章を読む事は出来ない。
「対して般若心経ですが、色即是空、空即是色とは一体どういう意味になるのでしょう? 私は浅学ですから、字を読む事は出来ても意味が分かりません」
「ほれ頼廉、どういう意味だ?」
「それを説明するには一晩掛かりますが?」
「冗談だ」
信長は勝二に向き直る。
続けよという意味だった。
「イスラム教はコーランの実践が神への信仰の証です」
具体的に述べる。
「イスラム教を信じる者の事をムスリムと呼びますが、ムスリムにとって重要なのは6つの信仰箇条と5つの信仰行為です」
「信仰箇条? 信仰行為?」
それについて説明を加える。
「信仰箇条において、まずはアッラーが唯一の神である事を認める事が最も重要で、ムハンマドがアッラーの召命を受けた、真の預言者であると信じる事が続きます」
続ける。
「信仰行為について、まずは信仰の告白です。アッラーの他に神はなし、ムハンマドは神の使徒なりです。他、礼拝喜捨断食巡礼となります」
勝二はそれぞれの内容を語った。
「イスラム教を信仰する者をムスリムと呼びますが、ムスリムの在り方は信長様にとって好ましく映る筈です」
「何故だ?」
信長が問うた。
話を聞く限り厄介な存在に思える。
「言わば論より証拠、お題目を唱えるのではなく、行う事を良しとする教えですから」
「成る程」
それは納得出来た。
一向宗でもカトリックでも口先だけの者が多く、内容が伴っていないと感じていた。
口でなら何とでも言える。
言ったからには実行してもらわねば説得力がない。
「そしてそうであるからこそ、我々にとって信仰する気にはならない教えの第一です」
「何故だ?」
全く逆の事を言い出した勝二に、一同はその顔を見つめた。
「まずは食べ物が一番です」
「食べ物? それが神と関係あるのか?」
「大いに」
勝二は力説する。
「ムスリムにはハラールと呼ばれる、ムスリムに合致した食べ物が規定されております。例えばムスリムは、豚やイノシシを食べる事が禁止されております」
オスティアで聞いた、ユダヤ教徒におけるタコのようだった。
「イノシシを? 何故だ?」
「コーランに書かれているからです」
「だからそれは何故だ!」
「アッラーが禁じたからです」
「話にならぬ!」
信長は語気を強めた。
「アッラーはこの世界を作った唯一神であり、コーランはそのアッラーの言葉です。コーランに書かれている内容を疑う事は、神を疑う事と同じです」
「堂々巡りだな!」
これだから神を信じる者はと言いたげな表情だった。
「話を続けさせて頂きます。ムスリムにとり、食べる事が許されている牛にしても、育て方も屠殺の方法も事細かに決められております」
それを話す。
「まず、ハラールに合致した餌しか与える事は出来ません。ムスリムに酒はご法度ですが、間違って牛に酒を与えた場合、その牛を食べる事は出来ません」
「酒が駄目なのか? それだけで俺には無理だ!」
重秀が堪らんと声を上げた。
放っておいて話を進める。
「屠殺する時はムスリムが神の名を唱えながら牛の首を切り、異教徒が行ってはなりません。血を食べる事は禁止ですから、血を全て抜かねばなりません。また、隣で豚を殺しているようなところで屠殺、解体する事もしてはなりません」
一同、ウンザリ顔である。
「また、豚を切った刃物で牛を切る事は出来ません。明確に分別する必要があります」
「もうよい! 面倒な事だけは分かった!」
信長が止めた。
これ以上は聞きたくない。
「ああせよこうせよと、作法に五月蠅かった平手の爺のようだな!」
信長は自身の振る舞いに苦言を呈し続けた、平手政秀を思い出した。
「浅い付き合い程度ならば問題は少ないのですが、ムスリムを家に招いて食事を振舞ったりする際には注意が必要です。信仰に関わるので下手をすると争いに発展しかねません」
「知らずにイノシシ肉でも出せば問題だな」
「イスラム教を知らない人に対し、殊更に怒るような事はない筈ですが……」
その辺りは難しい。
厳格な信徒であれば、修復不能な禍根となるやもしれない。
「かようにイスラム教は事細かな宗教です」
「確かにな」
むしろ日本の方が特殊なのかもしれない。
しかし、と勝二は思う。
「私はそんな生活を窮屈に感じてしまいます」
「うむ」
一同も頷いた。
話を聞くだけでも面倒臭い。
「ところで、これから向かうオスマン帝国ですが……」
「酒がないのか?」
重秀が絶望の叫びを上げる。
何を楽しみにすればいいのか分からない。
安心させるように勝二は言った。
「オスマン帝国はイスラムの中でも穏健なので、その辺りは緩い筈です」
「本当かよ?!」
実際は知らない。
船は波の穏やかな海を進む。
あくまでイメージですので、正確ではありません。




