第104話 神の愛
『あら、あちらの少女は? 日本の方ではありませんわよね?』
ダンスの練習に取り組み始めた信長らを、部屋の隅から一心不乱に眺めている少女を見つけ、イサベルが尋ねた。
幸村に懐いてそのまま居ついた少女、ノエリアである。
カルロスに頼んで身寄りを調べてもらったが、半ば予想した通りに家族はいなかった。
どうやら近郊の村から流入した浮浪児らしい。
流行り病で全滅する村もあるので、生き残ってマドリードへと出てきたのかもしれない。
名前は聞きだしたが他の事はよく分からないままだ。
幸村が拾ってきた時には髪はボウボウ、服はボロボロ、痩せ過ぎてあばら骨が浮いていたが、今は食べる物を食べて風呂にも入り、すっかりと小奇麗な姿をしている。
『マドリードで出会った孤児です。縁あって我々が世話をしております』
『お優しいのですわね』
信長と踊っているイサベルに勝二が説明した。
踊りつつも周りに気を配り、他の者にも注意点を伝えている彼女であるので、信長とて無礼と怒る事はない。
自分が話題となっている事を知らず、ノエリアは尚もダンスに苦労している男達を見つめている。
イサベル、妹のカタリーナ、彼女らの教育係がその教師役だ。
初めは手を握る事さえ容易には出来なかった者達に、女達は呆れるやら珍しい生き物を見るかのような顔をした。
そして踊り始めれば足を踏むわ隣とぶつかるわ、大変であった。
徐々に形となり、周りに目を向ける余裕が出来たイサベル。
ノエリアを見つけ、その目が幸村を追っている事に気付いた。
『ふふふ』
思わず笑みがこぼれる。
僅かな時間だが日本人と直接触れ合い、その性格を少しは分かったつもりだ。
優雅さはないが礼儀を弁え、広い知識と深い見識を備えている。
一面では野蛮さを感じるが柔軟で合理的な精神を持ち、善悪の基準も明確だ。
ただ、父フェリペにとっては悲報だろうが、神への信仰心は持ち合わせていないようである。
全体的に判断し、ノエリアを応援せねばと思った。
『貴女も踊りたい?』
信長を誘導して部屋の隅へと移動し、ノエリアに声を掛ける。
話し掛けられたノエリアはひどく驚いた。
そして舞踏会の日がやってきた。
招かれた貴族達が続々と宮殿に集まって来る。
勝二のいる部屋から外を眺めれば、玄関へと続く道に長い馬車の列が出来ていた。
「何だったのだあれは!」
舞踏会を終え、眉間に皺を寄せた信長が言う。
「食べ残す量の料理を並べ、派手に着飾った女共が嬌声を上げるなど!」
憤懣やるかたないという表情であった。
無理もないと勝二は思う。
戦に備え、日頃から質素な生活を心がけていた戦国武将にとり、豪華さを競う西洋貴族の行う舞踏会など、想像の外であったろう。
ダンスを踊る大広間にはテーブルがいくつも並べられ、大皿に盛られた料理が所狭しと置かれていた。
集まった紳士淑女達は思い思いに料理をつまみ、談笑やダンスをして楽しむのであるが、今回の主役は信長ら日本人であった。
好奇心に満ちた貴族達から質問攻めに遭い、舞踏会の中心であり続けた。
光り輝く宝石で身を飾り、信長にダンスを求めた女がいる。
スペイン料理を自慢してきた貴族もいる。
そんな中、オランダでの戦争が話題となり、出来る出来ないから日本人部隊の派遣が決まる一幕もあった。
そのような会の様子もさる事ながら、信長らにとって驚愕したのが食べ残しだった。
大量に出た残飯をそのまま捨てるというのだ。
「あそこに集まっておったのは、その領地で政を行う者達だそうだな?」
「そうなります」
勝二の答えに信長が憤る。
「この娘のように食を乞う者が多い町で、政を行う者として、どうしてあのような贅沢が出来ようか!」
ノエリアに視線を向けて言った。
家久が口を開く。
「全く同感ですな。我が島津家当主義久様が日頃から口にされている事があります。いくら君主が豊かな暮らしをしていても、民の暮らしぶりを見ればその国の内情は分かるのだと。賢明な使者が来れば誤魔化せないと」
そして続けた。
「この国の武力は目を見張る物でしたし、教会やこの建物も随分と立派ですが、肝心の民の暮らしぶりは怪しいものです。この国の内情が知れましょう」
「成る程、島津は良い目を持っておる」
二人してフムフムと頷いた。
そして信長が問う。
「勝二よ、神の愛とは何だ? 彼らはそれを信じているのだろう? そして神の教えを世に広めようとする者が、民の困窮を放置してあのような贅沢をするのか?」
それはフェリペを指していた。
カトリックの盟主を自認し、その教えを広く世界に広めようとしている。
しかし、神の前には全てが平等とうたう割に、その日の食べ物にさえ事欠く者がいる一方、手を付けもしない料理を並べる貴族が同じ町にいるのである。
信長らが大いなる矛盾を感じたとしても不思議はない。
勝二は痛い程理解出来た。
「おふた方の仰る通りです。他国に軍を派遣しているこの国の財政は逼迫しており、何度か国の借金を帳消しにしております」
「何だと?!」
フェリペは国家の破産宣告を行っている。
しかしそれは彼だけの責任ではない。
即位した時には既に膨大な借金があったのだから。
「神の愛とは何か、私には分かりかねます。そして西洋では階級の差がはっきりとしているようで、貴族と民とでは生活水準が断絶しているようです」
だからこそヨーロッパでは民主化への渇望が生じたのであろう。
勝二の説明に信長は呆れた。
「最早この国に長居する意味はない! 次に行くぞ!」
製鉄や造船、武器の製造、繊維産業など、見るべき物は既に見た。
一刻も早く帰国し、得た知識を活用すべきと思った。
とはいえヴァリニャーノとの約束でバチカンへの訪問がある。
『お疲れ様でした』
慰労の為に訪れたイサベル、部屋の雰囲気の違いを鋭敏に感じた。
特に信長の機嫌が悪いらしい。
『どうされたのです?』
小声で勝二に尋ねる。
この通訳は話が分かると思っていた。
『いえ、旅を急ごうと決まりまして……』
その答えに驚く。
もっと滞在するモノだと思い込んでいた。
『もうスペインを発たれるのですか?』
『訪れたい国は他にもありますし……』
歯切れが悪い。
事情が変わったのだろうと、不機嫌な信長を見て察した。
『次はどちらに?』
『バチカンを訪ねる予定です』
『バチカン?!』
当初の予定ではフランスに行ってからバチカンだった筈だ。
『船で向かわれるのですか?』
『ハンニバルの足跡を辿る意味で陸路です』
『まあ!』
更に驚いたし、興味が湧いた。
『それはそうと、イタリア語を話せる方はいらっしゃるのですか?』
『ラテン語ならばある程度話せます』
『ラテン語を?!』
『イエズス会士に教えて頂きました』
『それは、素晴らしい、ですわね……』
勝二の説明に落胆する。
『どうかされましたか?』
何かあるのだろうかと思い、今度は勝二が尋ねた。
イサベルは慌てた。
『いえ、何でもありませんわ! イタリアに行ってみたいなど、少しも思ってはいませんわ!』
語るに落ちるという事だろうか。
勝二はフェリペの語っていた事を思い出す。
『イサベル様はイタリア語に堪能でいらっしゃいましたね』
娘がイタリアから届く書類を訳しているという話であった。
無表情を保ちながらも、目じりが下がっていた事に気付いた。
『イタリアにはローマ時代の遺跡が沢山残っているのでしょう? いつかこの目で見たいと必死で勉強しましたわ……』
夢見るような顔をして言う。
王族なので好き勝手に旅をする事も出来ないのであろう。
尤も、当時の旅は命がけである。
「一体何を話しておる」
長々と話し込んでいるので信長が問いかけた。
「実は……」
勝二が事情を説明した。
「ならばその者に通訳を頼めば良かろう」
「え?!」
信じられない思いで主の顔を見る。
相手はスペイン王家の姫であり、通訳に使おうなどと、明るみに出れば外交問題に発展しかねない。
「構うものか! 神の前に人は平等なのであろう!」
吐き捨てるように言う。
すっかりとへそを曲げてしまったらしい。
間に挟まれた勝二は仕方なく、イサベルの意志を聞くだけ聞いた。
『ワタクシがお助け致しますわ!』
『えぇぇぇ』
こちらはその身分を弁えないらしい。
『しかし、国王陛下が許可されなければ無理でございましょう?』
『説得しますわ!』
そしてイサベルは父フェリペとの交渉に成功し、バチカンへと向かう信長一行に同行する事となった。
舞踏会はイメージです。




