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物語の中心に巻き込まれたくない令嬢は、今日も庭の草を抜いています。  作者: 京泉
after

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静かな牢獄(ラリッサ)

 もうすぐ冬が来る。


 三度目の満月の夜、わたくしは重ね着の上に毛織のショールを羽織り、寝室の窓をわずかに開けた。冷たい夜気が頬を撫でる。鋭い冷気なのに、どこか静謐で慰められるような感覚もあった。


 どうして、わたくしはこんな場所にいるのだろうか。


 ノルデン男爵家の邸宅は、あまりに静かすぎる。華やかさは微塵もなく、ただ厳格で整然としている。それはまるで、音のしない時計の箱庭の中に閉じ込められているかのような毎日。


 わたくしは、あの輝かしいグレイ公爵家の令嬢、社交界の華だった。王太子の婚約候補として誰もがわたくしを羨み、いつも注目の中心にいたのに。いまではこの、地方の男爵家の冷え切った屋敷で、日々を過ごしている。


——いや、正確には「過ごさせられている」のよ。


 今朝も、洗面道具を整えていた使用人に少し声を荒げてしまった。


「水が冷たいわ! 常識でしょう、淑女の肌に最初に触れる──」


 言いかけると、彼女は淡々と「失礼しました」と言って、すぐに新しい湯を用意した。怯えた様子など微塵もなく、まるで当然のことのように。


 叱られて萎縮するわけでもなく、無視しているわけでもない。ただ、淡々と自分の職務を果たす。その冷静な態度が、わたくしには耐え難い屈辱だった。


 わたくしは、公爵令嬢だったのよ。王都の頂点に立ち、誰よりも美しく、誰よりも注目された存在。


 それが、今や男爵家の夫人として、こんな地味な日常に縛られている。


 あの夜、この忌まわしい婚姻を告げられた時の怒りは、いまだ心の底に澱のように沈んでいる。


 ノルデン家のやり方は、わたくしの「常識」とはあまりにかけ離れている。


 身支度一つにしてもそう。わたくしのような上流の令嬢なら、起床から着替えまで侍女が取り仕切るのが当然だ。コルセットの締め具合やアクセサリーの選択に至るまで、すべて完璧に整えられるもの。


 それが、この家では「自分でできることは自分でやる」などと──信じられないわ。


「男爵夫人であるあなたが最も身近に範を示すべきです。格式は守りますが、日常では無駄な贅は慎む。それが我が家の方針です」


 ノルデン男爵の言葉はいつも冷静で、声を荒げることもなければ、押しつけがましさもない。


 けれど、その言葉には逃げ場がないのだ。


 わたくしが「おかしい」と言っても誰も取り合わない。使用人も男爵も、黙ってこちらを見ているだけだ。問い詰めるでもなく、ただ冷たい姿勢で。


 まるで、この家に飲み込まれろと言われているみたいに。


 ──ばかげているわ! わたくしはグレイ公爵家嫡出の誇り高き令嬢だというのに!


 わたくしは思わず拳を固く握る。ショールの毛が指に食い込み、痛みでわずかに冷静を取り戻す。


 この屋敷に来てから、何度も何度もこの言葉を繰り返してきた。呪文のように、呪いのように。


 誇り高きグレイ公爵家の令嬢として育ったわたくしが、いまや──地方の男爵夫人に堕とされて。


 格式も何もかも、わたくしの手から奪われた。

 怒りのあまり、階段の花瓶を投げつけたあの日もあった。


 だが男爵はただ、壊れた破片を使用人たちに片付けさせただけ。怒鳴ることも叱責することもなく、ただ「節度を持て」とだけ。


 媚びることも、持ち上げることもなく。


 かつてわたくしが享受していた「高貴さの特権」は、この屋敷には存在しない。


 そのことが、わたくしを最も苛立たせる。


 そして、恐怖さえ覚えさせる。


 わたくしは、この家の「常」に呑み込まれつつあるのかもしれない。


 使用人たちも誰一人としてわたくしに媚びない。失敗すれば静かに謝り、指示に淡々と従う。けれど必要以上には屈しない。反抗でも服従でもない、その冷静な中庸。それが最も自然な姿だと言わんばかりに。


 ノルデン男爵家の毅然とした空気に、わたくしは居心地の悪さを何度も覚えさせられた。


 けれど、最近は、少しずつ——慣れてきたのかもしれない。


 違うわね、馴染んだとは言わない。ただ、以前のように拒絶反応を示さなくなっている。


 かつて社交界の華であったわたくしにとっては、あまりにも地味で味気ない生活。

 それなのに、その味気なさだけで間違っているとは言い切れない気持ちを持ち始めている。


 男爵は多くを語らない。感情をあらわにすることも、声を荒げることもない。淡々と理を述べるだけだ。


 それが逆に重くのしかかる。


「あなたは『誇り』を持っているのだろう?」


 ある晩、暖炉の前で告げられたその言葉に、わたくしは目を細めた。


「ええ。もちろんですとも。わたくしは誇りを持っておりますわ。公爵令嬢として、社交界を彩る一員として、誰よりも美しく気品に満ちた者として。それがわたくしの誇りですの」


 わたくしの返答に男爵は否定する代わりに、ただ小さく笑った。


「それは『誇り」ではなく、私には『虚栄』に見えるな」


 静かな言葉だった。その無表情な響きが、逆に心に突き刺さる。


「人は己の地位ではなく、行いによって誇りを持つべきだと、私は考えている⋯⋯君の言う誇りは、ただの血筋と、他人に見られたい欲求に過ぎないのではないか?」

「⋯⋯っ!」


 悔しかった。否定されたからではない。見透かされたことが。


 わたくしは誇り高くあろうとし、だからこそリアーナやロザリンのような者たちを見下してきた。

 あの二人を、わたくしがどう扱ってきたか。思い出せば笑えるほど些細なことばかりだというのに、なぜ人はそれを罪と呼びたがるのか。


 けれどそれは、「誇り」ではなく、ただの嫉妬と優越感に過ぎなかった。


 何もかもを思い通りにしたかっただけ。


 何度もあの二人のことを思い出す。


 彼女たちは自分に与えられた立場の中で、誇りを保とうとしていた。


 いまのわたくしに、その覚悟があるだろうか?


 誇りはどこにあるのか。


 声を荒げ、怒鳴ることではない。


 わたくしは今、言葉で抗うことすらできなくなっている。


 部屋に戻り、寝台に腰掛ける。ロウソクの火が小さく揺れていた。

 それは誰かが、わたくしのために灯したもの。

 この家では、誰もわたくしに優しくはない。

 けれど、誰一人わたくしを軽んじてもいない。


 それが何よりわたくしを戸惑わせる。


 感情的に罵倒し合う相手がいれば、わたくしはまだ戦っていると思えただろう。


 だがこの屋敷では、誰もわたくしに戦いを仕掛けてはこない。


 その静けさの中で、わたくしは少しずつ、昔の自分の輪郭を見失っていく。

 それは怖くて寂しくて、けれど、どこかでわずかに安らぎを覚えてもいる。

 誇りはまだ胸にある。

 この屋敷の規律と静寂が、その形を静かに揺らしていることだけは否定できない。


 抗うでもなく、従うでもなく、ただ日々を重ねていく。

 そうして過ぎる時間の中で、わたくしは知らぬ間に、この屋敷の空気の一部となっていく。


 気づけば——かつての華やかな世界の記憶は遠く、手を伸ばしてももう届かない。

 

 ここは、静かな牢獄。

 揺れる誇りを抱えたまま、わたくしはその中で生き続けるしかないのだ。

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貴族の正妻のお仕事は、 何もしなくとも、世継ぎを産むことではなかろうか?
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