日々の暮らしと小さな変化(ラリッサ)
——こんな場所で、わたくしは終わらないわ。
開け放たれた窓から流れ込む涼風が、薄く揺れるカーテンをほんの少しだけ撫でた。朝霧を含んだ湿った空気は冷たく、肌に張り付くような気配を漂わせている。まるでわたくしの心のざわめきを映しているかのように。
わたくしの部屋は決して粗末などではない。石造りの壁は堅牢で、木の梁が天井の高さを強調する。絨毯は分厚く、家具はどれも手入れが行き届いている。けれど、そこにはいかなる華やかさも気品も感じられず、ただの「整いすぎた空間」という冷たさだけが支配している。
「⋯⋯息が詰まるったらないわっ」
吐き捨てるように呟き、わたくしは立ち上がった。鏡台の前に歩み寄ると、映った己の顔は誇り高く育てられた公爵令嬢の面影は薄れ、閉じ込められた囚われ人のように映っている。
ノルデン男爵家に嫁いでからまだ数週間。けれどわたくしにとっては、何年にもわたり牢獄の中にいるかのような感覚だった。
この家に甘やかす者はいない。朝は鐘の音で叩き起こされ、自分で着替え、自分で髪を整えるのが原則。礼装の日や外出時にだけ年配の使用人が助けてくれるが、それ以外は「自分でなさい」と言われるのだ。
そんなことが、貴族の妻にふさわしい扱いだとでも思っているの?
わたくしはグレイ公爵家の令嬢。王都で最も格式高い一族の娘よ。王太子妃の最有力候補として、舞踏会のたびにどれだけの視線がわたくしに注がれていたことか。
「⋯⋯滑稽ね」
自嘲するように笑い、ブラシを手に取る。ゆっくりと髪を梳くその手には、微かに苛立ちが灯っている。
外はすっかり秋の気配。朝の空は青く澄み、草木は金色に染まりつつある。けれど、わたくしの心は冴えないままだ。
部屋を出て廊下を歩く。ノルデン家の屋敷は質実剛健そのもので、装飾と呼べるものは皆無に等しい。扉は重厚、床板は硬く、無駄を一切排除した造りだ。階下からは食器の音と人の足音が聞こえてくるが、どこか整然としすぎていて息苦しさすら感じさせる。
食堂の扉を押し開けると、いつもの光景が広がっていた。
男爵家の朝は無駄なく整っている。誰かが指示を飛ばすわけでも、誰かが慌てふためくわけでもなく、それぞれが黙々と自分の役目を果たしている。食器を並べる者、湯気の立つスープを運ぶ者、パンを席に置く者。それぞれが他人に頼らず、迷いなく作業をこなしていた。
「おはようございます、奥様」
いつもの使用人が恭しく一礼する。言葉遣いは乱れず、態度も丁寧だ。
けれどどこかで、冷たく突き放されている気配があった。
貴族が使用人に挨拶するなどあり得ない。わたくしは一瞥だけしてその言葉を無視した。彼女は眉ひとつ動かさず礼を保ち、次の準備へとすぐに移っていく。
——あの子たちと、同じ。
思わずそんな考えが脳裏をよぎる。
リアーナとロザリン。
あの二人もそうだった。わたくしの命令に怯まず、眉ひとつ動かさずにわたくしを見据えていた。
もちろん、それが癇に障った。何もわかっていないくせに、まるでわたくしが間違っているかのような態度で。貴族としての上下関係もわきまえぬ者が、なぜあそこまで自分を持てるのか。
——本当に滑稽だったのはどちらかしら。
思わず呟きそうになり、唇を噛み締めた。
ここにいる者たちも、同じ。男爵家の者たちはわたくしに媚びへつらわず、恐れるわけでもない。かといって軽んじることもなく、ただ自分の役割を淡々と果たしている。かつてのリアーナやロザリンのように。
わたくしがいかに苛立ちを撒き散らそうとも、彼らの心はびくともしない。仕える身でありながら、自分の判断で動く──それがどこか腹立たしかった。
「わたくしが、間違っていたとでも?」
その問いかけは空気の中で消え、誰も答えようとはしない。答える資格もない。
使用人たちは食堂の整えを終え、静かに控えている。わたくしが席に着くと、食器が整然と並べられ、パンの香りとスープの湯気が立ち上る。カトラリーがそっと置かれる音すら不快ではなかった。
静かで整った空間。
わたくしの心だけがざわついている。
リアーナもロザリンも、屈しなかった。心の奥でわたくしを憐れんでいたのかもしれない。今になってそんな思いがよぎる。
「ふざけてるわ」
誰一人としてわたくしの苛立ちに応えようとはしない。
——まるで、わたくしだけが取り残されているみたい。
パンに手を伸ばしかけて、わたくしはふとその手を止めた。
何を口にしても、味などわからぬ気がした。黙々と働く使用人たちの背筋はみな真っすぐで、わたくしの苛立ちに反応する者は皆無。ここには、かつてのように空気を読みご機嫌をとる使用人も、口先だけの共感を示す者もいない。
誰も、わたくしの存在に反応しないのよ。
「──食後に、少し時間をいただけますか?」
ふいに声がして顔を上げると、ノルデン男爵が立っていた。
彼はどこかでわたくしの様子を察していたのだろうか。目は明らかに動揺を見抜いていた。
「執務室で待っています」
それだけ告げて男爵はわたくしに背を向けた。
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執務室で男爵は濃紺の上着を整え、あの初対面の時と変わらぬ、冷たく理性的な眼差しを向けてくる。
「今日は、少し話がしたくてね」
その声は穏やかだったけれど芯の通った重みがあった。
「⋯⋯話、とは?」
わたくしは表情を崩さぬよう努めた。男爵家の妻にさせられたとはいえ、公爵家の娘としての矜持だけは守らなければ。
「あなたは、この家を受け入れられずにいる」
「当然でしょう。わたくしは公爵令嬢として育ちました。ここは⋯⋯すべてがあまりに無骨です」
相変わらず彼は表情一つ変えずに頷いた。
「だろうな。だが、無骨という言葉の裏に何があるか、考えたことがあるか?」
「貧しさ、ですか」
「それも一つだ。だが、それだけではない。我が家は誇りと責任で成り立っている。金銀財宝ではなく、人の手と時間と敬意でな」
「誇り、ですって?」
わたくしは鼻で笑いそうになった。
「誇りとは、血統や育ちですわ」
「その誇りは、誰かが用意してくれたものだろう」
男爵の声がわずかに低くなる。
「だが、ここで言う誇りとは、ただ血筋や立場を誇ることではない。自ら選び、自分の手で守り築くものだ。地に足をつけ、己の意思で立ち続ける覚悟──それこそが誇りだと私は思う。
他人に認められるために生きるのではない。胸を張れるかどうかは、己の行いと意思次第だ。目に見える財や権力ではなく、日々の積み重ね、責任、思いやり、そして自分自身に対する誠実さが、本当の誇りを形作る」
わたくしは言葉に詰まった。
誇りとは他人に見せつけるもの。高い身分と美しいドレスや立ち振る舞い、父の名前や母の出自──それが誇りでしょうに。
「あなたは自分の力で、何かを守ったことがあるか?」
男爵の瞳が深くわたくしを見据える。
「⋯⋯ありませんわ」
小さく呟いた声は、自分のものとは思えなかった。
男爵は黙って立ち上がり、窓際に歩み寄った。
「ラリッサ。あなたはこの家で生きなければならない。この家の誇りを知ってほしい。否定するのではなく、見て触れ、自分の中で考えてほしい」
振り返った彼の顔に怒りはなく、静かに何かを問いかけていた。
「そうやって諭すのがお得意なのですね」
わたくしは冷ややかに言った。
男爵の言葉は正論なのだろう。どこにも綻びはない。筋道立ててまっすぐで強い。男爵家そのもののように。
だからこそ素直には頷けなかった。
わたくしはゆっくりと椅子から立ち上がり、背筋を伸ばして威厳を保ち、視線を男爵に向ける。
「確かにここではすべてが違う。わたくしが慣れ親しんだものは何一つありませんのよ」
わたくしの言葉など、男爵には一顧だにされなかった。
まるで最初から予期していたかのように、視線はただ窓の外へと向けられている。
横顔には微塵の感情も浮かばず、石細工のごとく冷ややかで揺るぎない。
窓の向こうでは木々が風に揺れ、紅葉が色を帯び始めていた。
この屋敷の空気は、季節の移ろいと同じく淡々と流れ、わたくしの声を静かに呑み込んでいく。
「あなたがこの家で何を感じようと、それはあなたの自由だ」
男爵はやがてそう言ってこちらを見た。
「ただ一つだけ言わせてほしい。あなたが誇りを持って生きてきたように、この家も誰かの誇りで成り立っている。相容れぬものでも否定ではなく、理解する努力は⋯⋯時にあなた自身を強くする」
その言葉は真っすぐだった。
優しさでも慰めでもない。逃げ場のない、押しつけがましくない言葉。
「⋯⋯努力、ね」
わたくしは目を伏せて小さく笑った。
「そんなもの、わたくしには似合わないわ」
けれどその言葉を口にしながらも、心のどこかでその言葉が小さく灯ったことを、わたくし自身が一番よくわかっていた。
どこかで風向きが変わり始めている。まだ認めたくはないけれど。
執務室を出て自室に戻る足取りは重かった。短い言葉の交わし合いのはずなのに、心の奥が鈍く痛む。
壁にかかった鏡の前で立ち止まる。ぼんやり映るわたくしの顔は、かつての公爵家の令嬢とは違って見えた。疲れているせいかもしれない。唇の端に、見下すような笑みも勝ち誇った光も消えていた。
──あの人に言い返せなかった。
ノルデン男爵の目は静かだった。責めず否定せず、「誇りとは何か」をただ問いかけてきた。わたくしはその問いを否定したかった。
貴族の誇りは家格だ伝統だ血統だ──と即答したかったのに、口が動かなかった。
「⋯⋯わたくしは、公爵令嬢だったのよ」
鏡の中の自分に呟く。だがその言葉にすがりついた時点で、すでに何かが壊れていることを薄々感じていた。
窓を開けると風が頬を撫で、見下ろした庭では老いた庭師が背を曲げつつ手入れを続けている。
──ここには、わたくしの知る貴族の生活はないのよ。
ノルデン男爵の言葉が胸にじんわり広がっていく。
── 誇りとは、ただ血筋や立場を誇ることではない。自ら選び、自分の手で守り築くものだ。
── 自分自身に対する誠実さが、本当の誇りを形作る。
そんな考えは、これまで一度もなかった。
デイドレスを脱ぐ手を止め、わたくしはひとりごちた。
「⋯⋯もし、わたくしが本当に『誇り』を持っていたのなら、こんなところでうろたえたりしなかったでしょうに」
その声は誰にも聞かれぬよう、小さく静かだった。
「男爵夫人」として迎えられた以上、この家の空気に少しずつ慣れていくしかない──やっとそう理解したのだ。
しかし、それでも忘れることはできない。
──わたくしがかつて誰であったか。あの屋敷で、どれほど誇り高く生きていたか。
胸の奥で呟きながら、公爵令嬢としての自負が、決して消えていないことを確かめる。
この誇りは、まるで呪いのように、わたくしを縛りつけ、揺らし、戸惑わせる。
それでもなお、手放すことはできない──公爵家嫡出の誇りはわたくし自身の証であり、過去と矜持の残響として、微かに胸を焦がし続けているのだから。




