第17話:二酸化炭素はどこから来たのか
鈴宮は帰宅して早々、簡単な朝食をとり、そして洗い場に適当に皿を置いてから押し入れを開けた。そこから、プラスチック製の収納箱を取り出す。入れた物が虫に食われにくいようにと、数年前に買った物だ。彼は収納箱の蓋を外すと、中から『肘川雑記録』とタイトルがつけられた古い書物を取り出した。
明治時代中期に肘川市を訪れた旅人が、特に話題を決めず、ただただ当時の肘川で起こった様々な事件を記した書物だ。相当古いせいか作者名などは薄くなり読めなかったが、中身の文章はかろうじてまだ読めた。
「まさか、本当にジャガンジャとかいうのが出たんじゃ?」
まるで伝承に登場するジャガンジャ……正確には、かつて彼が解決したが、死を遂げる前に再び解禁したと思われる〝森のヌシ〟の瘴気にやられたかのような窃盗犯の末路に、彼は少々怯えていた。
そもそもこんな辺境の村で、来訪者が、寿命以外で死にかける事件が起きるなど思ってもみなかった。
もしもその原因が、伝承にある瘴気だとするならば、かつてジャガンジャなる者が成し遂げた奇跡を再現するための方法の情報が、今こそ必要である。
故に、かつて親に見せられたが、途中で飽きて押し入れに封印してしまった……もしかするとその事について書かれているかもしれない、この書物を再び出したのである。
書かれている内容と、自分が親から聞いた伝承とを当て嵌めていく。
だがジャガンジャが成し遂げた奇跡に関する情報は、どこにも書かれていない。そもそも、村人が見られない状況でそれを行ったのだから、当たり前なのだが……それでも、そのジャガンジャからこっそり聞いた、とかはないのか、と思わずにはいられない。
――まさか田井中が、瘴気の正体が二酸化炭素であると突き止めているとは知らずに。
「…………また、誰か被害に遭ったりはしないよな? というか……あの探偵達は大丈夫なのか?」
原因究明のため、彼らが森の中に入っていくのを、血液採取の後に見かけたが、その時は朝食前に血を採られたため頭が働かず、気にしなかった。だが、ようやく朝食を食べ、頭が働いてきている今は……彼らが心配になってきていた。
「あ、後で村のみんなと捜索隊を組むか。というかこれは俺達の村の問題だから、部外者だけに任せておけるか」
(ヘリが出動するくらいなのだから、探偵達は相当特殊な地位に就いているに違いない。二人が死んだら、この村のイメージダウンに繋がるんじゃないか?)
口と頭の中で同時に、それぞれ異なる事を言いながら。
※
『毒だお! 注意だお! 毒だお! 注意だお!』
自分の名を呼ぶ声と『ガスワカール』の注意報が頭上から聞こえ、田井中の意識は覚醒した。どうやら危険な場所のようだ、と思うと同時に後頭部に痛みが走る。思わず顔をしかめる。だが我慢できないほどではない。いったい何が起きたのか。ふと思い記憶を辿る。
茂みの中を歩いている時、片足が空を切った事を思い出した。
そして次の瞬間、下に引っ張られるような感覚がして……そこで彼はようやく、自分が自然にできた落とし穴に落ちたのだと理解した。
おそらく頭痛は、穴に落ちて打った時のモノだろう。
穴がどれだけの深さかは分からないが……間抜けな失態をしたものだな、と彼はふと思った。
(いや、それよりも……起きるか)
そしてすぐに彼は、気持ちを切り替え目を開けた。
いい加減、己の名を呼ぶ伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサンを安心させなければいけないし、先ほどからの『ガスワカール』の注意報が心配だ。
「あぁ、よかった」
田井中が目を覚まし、注意報を一時停止すると、それを確認した伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサンは安堵した。「この天然の落とし穴の縁に頭をぶつけたので、穴の底で頭をぶつけるよりは大丈夫だとは思いましたが正直ヒヤヒヤしました。すぐに目を覚ましてくれてよかったです。どうやらこの穴、毒ガスの発生源のようですし」
「心配かけたな、オジサン……というか、この穴?」
田井中は周囲の様子を、頭の痛みを堪えながら確認した。
穴の中から救出したならば、この、ではなくそこ、もしくはあそこ、と表現するハズだ。という事は、ここはまだ穴の中なのか。
目を凝らすと、確かに薄暗い場所だ。だが日が差し込むので壁の色は分かる。白色や灰色などの明るめの色だ。となるとここは、確かに落ちた穴の中なのだろう。
ならば伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサンは、まだ、穴の外にいるのか。声のした頭上へと顔を向ける。自分の髪を伸ばし、それを田井中の体へ巻きつけている彼が、心配そうな顔をしているのが見えた。
「…………大きな借りができちまったな」
心配をかけないよう、田井中は口角を上げて笑ってみせた。
「今度何か奢るよ」
「そんなこと言っている場合じゃないでしょう」
伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサンは、とりあえずは元気そうな田井中を見て安堵しつつも、厳しい口調で言った。
「引き上げますからね。痛くても我慢してくださいよ?」
「ああ。やってくれ」
田井中が返事をするのと同時に、彼の体が徐々に上に上がっていく。
予想外の事故はあったが、とりあえずこれでひと安心である。田井中は、安堵の息を吐いた。そして伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサンの髪の毛に全てを委ね、穴の下に視線を向けた……その時だった。
穴の底に、白く濁った泉のようなモノがあるのが見えた。
そしてそこから、時々ではあるが気泡らしきモノが出ているのも。
「………………そうか。ここなんだ」
すると田井中の中で……点と点が繋がり始めた。
『ガスワカール』が注意報を出していた事。そして、それが反応している毒ガス。濁った泉。三つの事実が、さらなる事実を彼の中で紡ぎ始める。
「?? 田井中さん? どうしたんですか?」
頭を打った田井中の体に負担がかからないよう慎重に引き上げながら、伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサンは問うた。
「河濤村に来た二酸化炭素が出ていたのは火口湖じゃない。ここだ」
田井中はすぐに返答した。
「底の方に泉のようなモノがある。白く濁ってる泉だ」
「…………まさか、石灰水ですかッ!?」
「ああ、おそらく」
物分かりが良い相棒に、田井中は頷きながら答えた。
「俺は、岩石に詳しくないんだが……もしかするとこの穴は、石灰岩が水に溶けてできたヤツかもしれん。ならばあの泉が石灰水である可能性は高い。そしてあの泉だが、おそらく……この先にある火口湖と繋がっている。そしてその水脈に溶けて向こうの二酸化炭素がこちらに来ている。もしもあれが石灰水なら……その証拠に充分なる。二酸化炭素は水に溶け、そして石灰水を濁らせるみたいだしな」
「…………という、事は」
伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサンは、ゴクリと、緊張して、唾を飲み込んだ。
「ああ、今回の事件は……事故だった可能性が高い」
田井中は、偶然被害に遭った伝説の宇宙怪盗を思い……眉間に皺を寄せた。




