第三十二話:前途に、祝福がありますように
軽くノックをして、寝室に入る。
エティの屋敷の寝室はかなり簡素だ。部屋というのはその人の性格を表している。余計な家具などがほとんどない寝室はきっと引っ越した直後だからとかではなく、彼女のこれまでの人生を示しているのだろう。
窓からぼんやりと月明かりの差し込む部屋は、施術で焚いた香の残り香か、仄かに甘い匂いがした。ベッドの中に身を起こすエティの表情に、表に出さずに眉を顰める。
だいぶ驚いたらしい、少し強張った顔。適当にベッドに入ったのだろう、髪も乱れていて、だが眠った様子はない。
弱い探求者がもっとも手早く成り上がる方法は実は、パーティのリーダーになることだ。スレイブ程厳密な関係ではないが、知識や経験があれば活躍できるし、もちろん本人も強いに越したことはないが、弱さや臆病さがリーダーの適性として働くこともある。
それなのに僕がリーダーになれなかったのは、ならなかったのは、僕にリーダーに必須とされる能力――他者に共感し、それに寄り添う能力が少しだけ欠けていたからだった。
頭ではわかっていても、経験から推測は立てられても、心で理解しなくては、きっとどこか致命的なタイミングでミスを冒す。それは僕が、交わした契約を遵守すれば大きな問題にはならない《魔物使い》になった理由の一つだった。
だが、彼女に共感はできなくても理解はできる。
何も言わずにエティに近づく。その表情を、仕草をじっと観察する。半強制的な施術を行ったはずだが、警戒している様子はない。
「こんな夜に……何か用ですか? 話なら、また明日に――」
そこで、僕はエティの前に立って、腕を大きく開いた。エティが目を丸くする。
「…………何やってるのです?」
「スレイブとのスキンシップは大切だ。だけど、相手がスレイブじゃなくても、役に立つ事もある。エトランジュ、君は多分、色々溜め込むタイプだ。おいで」
アムとあまり変わらない。実力の高さとそういう資質はまた別だ。アムは一人ぼっちだったが、彼女は孤高だった。
誰も頼る相手がいないというのは辛いことだ。仕事はできるのかも知れないが、《機械魔術師》は《魔物使い》と違って、スレイブを使っても頼ったりはしない。
ドライが僕の言うことを聞いてしまったのも、彼がマスターに日頃何も貢献できていないと感じていたからだろう。
「は、はぁ…………って、だ、誰のせいで溜め込んでいると――ッ」
前に出て、声を荒げるエティを抱きしめる。エティは一瞬、ビクリと震えたが、そのまま身動きを止めた。
薄い緩やかな寝間着の上から、その華奢な肉体の形がはっきりわかる。
メカニカル・ピグミーは魔力を通しやすい肉体構造をしている。肉付きは薄かったがその身体は柔らかく温かい。密着した胸部から純人よりやや早めの心臓の音が伝わってくる。
メカニカル・ピグミーはそこまで大柄な種族ではない。腕の中にすっぽりはまったエティの背に腕を回す。
エティは何も言わなかった。何も言わずに、僕の背に手を回し、胸に顔を押し付けてくる。
しばらくそのままの姿勢でいると、より力を込めてしがみついてくる。その身体はまるで何かを堪えるように震えていた。
抱きしめるという行為は非常に有効なスキンシップだ。もちろん、互いへの信頼関係を前提とするのは言うまでもないが、相手を落ち着かせる効果もある。
言葉などいらない。戦闘で役に立たない僕でも、精神的な支えにはなれる。
僕は彼女の味方だ。彼女が僕の敵にならない限りは。
背に触れた指を立てると、背骨の形を確かめるようになぞる。乱れている髪に手ぐしを入れ、丁寧に整える。
エティはしばらく擽ったそうに身を震わせていたが、すぐに顔をあげた。
双眸は滲み涙の跡もあるが、唇がわなわなと震えている。
「……フィ……フィル? い、一応言っておきますが…………私もあまり詳しいわけではありませんが……あのですね、こういうシチュエーションでは、私の手入れを始めるべきではないのでは?」
…………つい癖で。
「…………でも、調子は戻った」
「ぜんっぜん、戻ってないのですッ! 私はまだ、胸がいっぱいなのです!」
それは申し訳ない事をした。もう一度黙って腕を広げるが、エティはジト目でこちらを見上げると、抱きつかずにベッドに腰を下ろした。
仕方ないので、その隣に腰を下ろす。年頃の男女が同じベッドに腰を下ろしているというのに、こんなに色気のない話はない。
「エトランジュ、僕は何があろうと――君の味方だ。信用して欲しい。話でも何でも聞くよ」
「…………なら、私の味方ならば、お願いだから、少しは行動を抑えて……大人しくしてほしいのです。今思い返せば…………私は、あ、貴方のせいで、私は振り回されっぱなしなのですよ」
これまでの事を思い出したのか、エティがふるふると震えながら言った。不安が憤りに転換した形だ。
他者のために怒り悲しめる者に悪い人間はいない。
わかっていた。わかっていたが、やはり、恐らく、彼女は――『敵』じゃないな。
大きく深呼吸をし、声色を調整してエティと交渉する。
「よく言われる。だけど、それは無理だ。師に教わった。力の使いどころを――僕は、敵を前に黙っていられるような性格じゃない」
「フィルの…………師匠?」
エティが目を数度瞬かせ、僕を見上げる。
そうだ。師匠だ。《魔物使い》はスキルのみに頼ってどうにかなるような職ではない。《薬師》と同じように――書物だけで全てを得るには限界があった。
「素晴らしい師だった。資質は僕の方が圧倒的に劣っていたけど、《魔物使い》として、人として、最も重要な部分を教わった。今の僕があるのは彼らのおかげだ」
アモルの民、と呼ばれる者たちがいる。魔物を御する不思議な力を持つ、生来から《魔物使い》の職に適性を持つ一族だ。
既に滅亡の危機に瀕していたその一族の一人の下で学べたのは僕にとってアシュリーやアリス達との出会いに次ぐ幸運だったのだろう。
思い返しても最も忙しく、最も充実した日々だった。僕が弟子入りしたのはそこまで長い期間ではなかったが、生きる上で重要な事を幾つも教えて貰った。
「フィルの師匠……会ってみたい気もするのですが…………本当に、その……貴方の師匠は、そんな事を貴方に言ったのですか?」
「《魔物使い》は敵性種族と分かり合う職だ。職を進めた者の心には最も恐ろしい魔物が棲む。それを御せなければいずれその魔物は本人を滅ぼすだろう、と。師は言った、常に正しくあれ。そしてその魔物は好奇心であったり、倫理観であったり、欲望であったりする」
『フィル・ガーデン。忘れるな、きっとお前は――心の魔物を解き放てば世界の敵になるだろう。弱さは免罪符にはならない、お前は手を選ばなさ過ぎる。ならばせめて、常に正しくあれ。そうすればお前はずっと、死ぬその寸前まで幸福でいられるだろう』
アモルの民は《魔物使い》の民だ。その力はそこまで強くも完璧でもなかったが、逆にその弱さが、あらゆる種の敵意の対象となるには最適だった。
民の多くはその立場に耐えきれずその力を魔王――世界の敵になるのに使い、極僅かな例外はひっそりと各地に散った。師の言葉には歴史と、強い情感が込められていた。
エティは僕の話を聞き、しばらくじっと考えていたが、言葉を選ぶようにして言った。
「…………最初の言葉だけ聞くと、まるで貴方が正義漢のように感じるのですが――それはつまり、偉そうに言っていますが、噛み砕いて言うと…………戦意を御せないからせめて魔物にぶつけるという事では?」
「…………まぁ、当たらずとも遠からず、だな。エティ、君は本当に聡明だ」
「話を聞くだけ時間の無駄だったのです。もう!」
エティが腹立たしげに言うが、そんな事はない。随分顔色もよくなった。
相互理解を怠ってはならない。コミュニケーションは≪魔物使い≫にとっても、友人関係においても肝要だ。
「エティ、君は少し――真面目過ぎる。言われない?」
「フィル、貴方は少し――勝手すぎるのです。言われませんか?」
我を通すとはそういう事だ。どれだけのベストを尽くしても、求めるものを得ようとすれば押しのけられる者が出てくる。そして往々にしてそういう行為が――大きな因縁に繋がっているものなのだ。
僕は大きく息を吸うと、どこまでも純粋な強さを持つ我が友に言った。
「エティ、僕はこれからさらに危険な事をするよ。僕を守ってくれ」
「…………それは……スレイブみたいに?」
それは…………誘っているのかな? うちの子になる?
ふん…………わかっているよ。僕は誰でもスレイブにするわけではない。
嫌いな奴もいるし、互いのメリットデメリットが釣り合わない時もあるし、契約耐性の問題でどうにもならない事もあるしそれに――スレイブにするのが惜しくなる事もある。
手を伸ばし、エティの頬を摘まむ。きょとんとした表情をするエティの前髪を軽く上げると、そこにそっと唇をつけた。
――どうかこの娘の前途に、祝福がありますように。
エティが緊張したように身を強ばらせる。
「!?」
「キスは場所によって意味が変わるんだ…………おやすみ、エティ」
返事を待たずに、寝室を後にする。
≪魔物使い≫は迂闊にスレイブと口づけを交わしたりしない。アリスが僕を飛ばす寸前にしてきたアレは完全なルール違反だった。
キスもスキンシップも僕たちにとって武器である。
マスターたるもの公平であれ。だが、今回の相手はスレイブではないし、今日くらいは…………いいだろう。
扉を閉めるや否や、陰から恨みがましげにこちらを見るアリスに気づく。
影に潜んでいなくても、憑依を使えば視界をジャックするくらい簡単だ。
「御主人様、ずるい。私にはしてくれなかったのに」
「アリス、命令がある」
「…………はい。従います」
アリスが仰々しい仕草で、まるで忠誠を見せつけるように跪く。
明日からは少し……忙しくなりそうだ。余計なお節介だと知ってはいるが、友が危険な目に逢うと知りつつも放置する事などできない。




