第三十話:彼らはそんなに強かったのか
それはまるで激しい雷に撃たれたような――発生以来初めて感じた激しい衝動だった。
魔導機械は常に冷静だ。喜びもなければ恐怖もない。ならば、この身を震わせる感情は一体なんと呼ぶべきなのか――。
難易度SSS等級ダンジョン、【機神の祭壇】。
かつて神を目指した《機械魔術師》が生み出し、長い長い時間をかけ魔導機械達が増築を続けた結果、難攻不落の巨大な要塞と化したその最奥に、それはあった。
それは、無数の手足を持ち、伸縮自在の尾を持ち、飛行能力はないが翼を持ち、そして人に似た頭を持っていた。
それは、この世に存在する何者をも模倣せず、しかし全てを模倣していた。
強いていうのならば、万象を溶かし適当にくっつければこのような醜悪で、神秘的な存在が出来上がっただろう。
それは、神だった。古き《機械魔術師》の生み出した人造の神。
原初の一つ。荒野を支配する魔導機械の源。
自己進化による変容を続け、あらゆる能力を、知性すら獲得し、荒野の全ての事象を把握し、これまで立ち向かう者は疎か存在に気づく者すらほとんどいなかった奇跡の怪物は、誰も存在しない空間で呻き声をあげた。
『なんと、恐ろしい…………そこまで、人の脳で、読み切れるものなのか……』
意図した行動ではなかった。それは自然に出てきた言葉だった。
特殊個体の製造。これまで禁忌としてきた街への攻撃を解放しての、高エネルギー砲による一撃。完璧に近い奇襲を、予想していたとはいえ、あそこまで鮮やかに捌かれるとは――。
力づくではない。最善でもない。回避が極僅かでも間に合わなければ光はあの脆弱な肉を焼き尽くしたはずだ。
だが、結局それは成らなかった。
常人の所業ではなかった。まるで死に魅入られているかのような――。
あのような男に狙われてしまっては、ワードナーが、長き時をひっそり生き続けその役目を果たした同胞が殺されてしまったのも納得できる。
『アリス・ナイトウォーカー……夜の女王……』
フィル・ガーデン。その力を支えているスレイブの名を呟く。
あれは――災厄だ。己の敵の全てを破壊し尽くすまで止まらない、破滅を齎す怪物。秩序を保つオリジナル・ワンとはカテゴリーの異なる神だ。
同胞の縄張りを侵し、替えの利かない『子』を何人も破壊した。
数日前。【機神の祭壇】の一部――外壁である【駆動砦】を三分の一まで踏破したアリスに会話をしかけた時の事を思い出す。
守りを突破するために無数の警備機械と交戦し、大きな術を幾つも使い、明らかに消耗していたアリス。
交渉を試みるオリジナル・ワンに対して、アリスは嘲笑い、一言だけ返した。
お前を殺す、と。
その言葉は決して消滅を前にしての強がりではなかった。
生来の資質を磨き上げられた培われた力に、死地においてさえ輝きを失わないその意志。
まだ魔導機械の数が少なかった百年前ならば、あるいはアリスが大規模転移とやらで力の大部分が削られていなければ…………危うかったかもしれない。
あの時は逃してしまったが、既に必要な情報は揃っている。
対アリスのシミュレーションは済んだ。
物量だ。誘い込み、物量で殺すのだ。
アリス・ナイトウォーカーの力は無尽蔵ではなく、そして彼女には――フィル・ガーデンという明確な弱点がある。
策などではどうにもならない数の眷属を差し向ければ、間違いなく殺せる。
既に試算は終えている。ライフストックは未知のスキルだが、その魂を詳細に観測すれば彼女の命のストックがどれだけ残っているかも大体わかる。
たとえ彼女が人のルールを破り、三都市の生命種の全ての魂を吸い付くしたとしても、全て削りきれるはずだ。空間魔法についても、事前に知っていて対策しておけば問題ではない。
もちろん、こちらの被害もゼロではないだろう。彼らの戦い方次第では同胞の多くが滅ぼされる可能性もある。あるいは、神の元まで到達するかもしれない。
これは、生存競争だ。命ある者と命なき者の――生存競争。
全ての余剰のリソースを使い、軍勢をより厚くする。一斉攻勢をかける。
相手に何かするような時間を与えはしない。
角にも見えるアンテナを持ち上げ、シグナルで同胞――今も尚各地のダンジョンに潜む者たちに連絡を取ろうとしたその時、その巨体がびくりと震えた。
その身体の中心に隠された魔導コアが震え、エネルギーを供給する。思考回路に激しい雷が流れ、その適当に貼り付けたような手足がまるで駄々を捏ねるように床を殴りつける。
思いつくべきではなかった。だが、後悔してももう遅い。
いくら人に近い知性を持っていても、いくら長い時間をかけて自己進化を重ねていたとしても――ふと浮かんだ最善の策を無視する事などできるわけがない。
『このような…………このような策が、存在すると言うの、か。あぁ、ワードナー――我はお前のようにはなれぬ』
空間が激しく震える。感極まっているような、慟哭のようなその声を聞く者はいない。
そして、その機神はその役割を、機能を果たすため、ゆっくりと動き始めた。
§ § §
諸々の話し合いを終え、少し元気のないエティとドライと共に屋敷に戻る。
帰路での追撃はなかった。あの攻撃には情報コストの他にも多くのリソースを注ぎ込んでいたはずだ。
次の攻撃は更に慎重で、確実に僕を殺せると確信した時に放たれるだろう。
昨日は徹夜だった。肉体面はクタクタだが、精神は充足していた。
死地に赴いた後は精神が昂ぶるものだ。気をつけないとまた電池が切れたように気絶してしまうかもしれない。
屋敷に入るや否や、エティがドライに指示を出し始める。
「ドライ、セキュリティ、最高レベルで。襲撃者がやってきた時には即座に迎撃に入れる用意を。遠距離攻撃対策は私がするのです」
「どうするの?」
何気なく尋ねると、エティはどこか素気ない態度で言った。
「…………フィル、内外の空間を…………少しだけ、ずらすのです。これなら、空間魔法でも入ってこられませんし、高エネルギー砲でもびくともしないのです」
それは、僕の記憶が正しければ《機械魔術師》の有するスキルツリーの中でもかなり上位に位置するスキルだった。
薄々勘付いていたが、この子――《機械魔術師》の中でもかなり上だ。位相をずらす結界を長時間張るなど並大抵の能力ではない。少なくとも、王国で僕と付き合いがあった術者よりは格上だろう。
空間魔法と機械魔法、結果は似ていても術理は違う。だが、どちらにせよかなり消耗する事は間違いない。
魔術というのは起こす奇跡が世界にとって異質であればあるほど消耗が激しいのだ。
恐らく、相手は一度失敗した手は使わないはずだ。そもそも、外と違って屋敷の中は空から見えないし、ピンポイントで僕を撃ち抜くのはかなり難しいだろう。
結界などいらないと言おうと口を開きかけ、エティの表情を見て閉じる。
今の彼女を説得するのは難しそうだな。
防衛関係はエティに任せ、部屋に入る。ドライが片付けたのは、室内には昨日の施術の後は残っていなかった。
やれやれ、ようやく帰ってこられた。お腹もぺこぺこだし、今は思い切り眠りたい気分だ。マスターたるもの常に余裕を失ってはならないし、次にいつしっかり眠れるかもわからない。
だが、その前にやる事がある。
薬屋で買った紙袋をリビングのテーブルに置くと、固いソファに腰を下ろし、僕は膝を叩いた。
「アリス、出ておいで」
「………………はい」
影から這い上がるように、アリス・ナイトウォーカーが現れる。
丈の短い紺と白のドレス。切れ長の眉毛に、鈍い銀の瞳。透き通るような肌は霊体種の特徴の一つで、触れれば壊れてしまいそうなくらい美しい。
膝をつき顔を伏せるアリスの頬に触れる。ひんやりした感触に、ぞくぞくするような悪寒を感じた。
彼女は本来無意識に放たれる邪気を完全に抑え込んでいるが――種族としての格が違いすぎるのだ。
アリスが小さく吐息を漏らす。僕はいつも以上に口数の少ないスレイブに命令した。
「アリス、横になるんだ。僕の膝の上に頭を乗せて、楽にしろ」
「…………はい、私の御主人様」
覚束ない手付きでソファの上によじ登り、アリスが僕の膝に頭を乗せる。
霊体種の体重はその種の魂の強度に比例している。膝の上に感じる重さは人間のそれよりもずっと軽かった。
髪を撫で付け、リラックスしたようにとろんと潤んだ双眸の周りを、その形を確かめるようになぞる。
スレイブと触れ合うのは至福の時間だ。僕は早速、確認作業――メンテナンスに入った。
「アリス、疲れているな?」
「…………少しだけ。御主人様」
ふむ。まだ強がりを言えるなら大丈夫か。
空間魔法はとにかく消耗が激しい。彼女には無理をさせすぎた実感はあった。
単騎でのフィールド調査に、SSS等級魔導機械の討伐。ワードナー戦でも消耗したし、そして――影に潜航するのも、次元の裂け目に身を隠すのも簡単な事ではない。
空間魔法は強力だ。だが、世界の法則を捻じ曲げて現象を起こしているのだ、その代償は他の魔術師の起こす奇跡などとは比べ物にならないくらい大きい。だから、古今東西、《空間魔術師》は莫大な魔力を持って生まれる種か、突然変異で恐ろしい才能を持って生まれた者にしか扱えない特別な職だった。
存在があやふやな自分一人ならばともかく、肉の身体を持つ僕を裂け目に隠すのは相当な負担だろう。
アリスが僕の手の甲に触れ、頬ずりしてくる。何も言わずに役割を果たしたアリスに、やや声色を柔らかくして尋ねる。
「僕は重かったか?」
「……息をずっと止めているくらいの辛さ」
「君は呼吸をしないだろう」
吐息が漏れているが、これはただの模倣だ。彼女は生存に酸素を必要としない。生き物の真似をしていると考えれば、その仕草も愛おしくなってくるものだろう。
唇に指を当て、小さく開いたそこから漏れる呼気を確認する。アリスの体内から吐き出されるそれはまるで人間のように生暖かく湿っていた。
「ご主人さま、もっとしっかり確認を――」
「よし、命のストックは後、幾つ残っている?」
「そういう意味じゃない」
アリスが眉を顰め、もどかしげに僕を見上げる。鈍い銀色をしていた瞳が仄かに赤みを帯びていた。
髪がさらさら流れている。彼女のドレスは自分の髪でライフストックで再生するために自分の髪を加工して作られている。魂からなる彼女は生命種と違い、物理的にはとても不安定な存在だ。
アリスが小さく喉を動かして言う。
「少し…………妬いた」
「んー? どれの事?」
スイの事か、ブリュムとトネールの事か、それともエティの事か、あるいはアムな可能性もあるか?
「……………………ぜんぶ」
全部とは驚いたな。わがままになりすぎじゃないだろうか?
頬に朱が差していた。随分と人間味のある悪霊になったものだ。
最初に出会った時は――攻撃しても血液すらほとんど出ていなかったのに。
親指の先を唇の隙間に入れると、冷たい舌がぺろぺろと指を舐め始める。指を伸ばし、霊体種特有のひんやりした口内を確かめた。
尖った犬歯も、舌も、頬の内側も、その全てを理解できるように触れていく。アリスの体内は冷たく、どろりとして、生きた泥のようだった。
アリスが舌っ足らずな声で求める。
「ごしゅじんさま、キスしてください」
「駄目だ、それはまた別の話だ。でも、触ってあげる」
アリスソードはいつ確かめても惚れ惚れするような輝きだ。
王国にいた時は抜身の刃のような冷たい鋭さがあったが、今の彼女はまるで生きているかのような熱っぽい感情を宿している。
あの時の彼女も素晴らしかったが、今のわがままを言うようになったアリスはそれに輪をかけて美しい。
左手は唇に触れたまま、右手で白い首筋を撫で、耳の形を確認し、髪の間を通り過ぎ、鎖骨をなぞる。アリスは、指が皮膚を通る度にぞくぞくと身体を震わせた。
悪性霊体種はスキンシップに飢えている事が多い。そして、彼女達は痛みに強くても快楽には慣れていないのだ。耳元で先程のわがままに反論する。
「ブリュムやトネールには触らなかったぞ」
「……スイには触った」
それは僕が風の船で倒れかけてた時、やむなくだろう。人命救助の一環だ。だが、なんというかまあ、全くよく覚えている。
「肌には触れなかった」
「……エトランジュには……触れました」
どうやら僕の負けのようだな。あれも仕方のない事だったが、確かに触れた。だが、断じて言うが、その時も今も、僕の行為には一切の性的な意味は含まれていない。
手を動かし続けると、アリスの身体ががくがく震え、その目の端から涙がこぼれ落ちる。僕はもう一度確認した。
「アリス、命のストックはいくつある?」
「……秘密……内緒です。ご主人さま、容赦なく、私を使って――」
虹彩は更に赤みを増し、先程までさらさらしていた皮膚は触れた手の平に吸い付くように濡れていた。
霊体種の肉体をなすその心臓が、魂核が、感情に呼応し活性化しているのだ。霊体種は生命種と違い、感情の発露が直接肉体に伝わりやすい。
魔力や魂が補充されるわけではないが、戦闘能力を手っ取り早く上げられる。
そこで、僕は気合いを入れて、久方ぶりに《魔物使い》の――《支配使い》のスキルを使った。
脱力感が脳を揺さぶり、仄暗いパワーが右手の指先に灯る。
悪性霊体種の育成に特化した《魔物使い》上級職、《支配使い》。
そのスキルツリーには、悪性の魂に繊細に干渉するスキルが揃っている。この職は逃げだ。僕は、先人の知恵なくしてアリスを御するだけの自信がなかった。
最初に出会った時と比べれば随分育ってしまったその胸元に指を這わせる。これまで蕩けていたアリスの表情に一瞬、恐怖が宿る。
指が沈むような柔らかな疑似肉体。
――そして、僕はスキルを行使した。
『堕落の杖』
「――ッ!!」
感触が変わった。指が文字通りその柔らかな肉体にずぶずぶと沈み、アリスが声にならない絶叫をあげる。
痛みによる絶叫ではない、快楽による絶叫だ。ソファの上に重ねて置かれていた両脚がまるで陸に打ち上げられた魚のように力なく跳ね、手がまるで耐えるかのようにそのスカートの裾を掴む。
『堕落の杖』。それは、指先に魂への干渉能力を与えるスキルだ。相手への信頼を大前提とするこのスキルは心をこちらに委ねた相手にしか通じない反面、強烈な干渉能力を誇る。《魔物使い》は強力な職ではないが、そのスキルは何かと極端なものが多い。
僕の右腕は今、アリスの疑似肉体に埋没し、何の比喩でもなく、その魂の核に触れていた。
魂を握られた相手は強烈な快感に襲われ、一切の抵抗を許されない。皮膚に触れるだけでも心地が良いらしいが、その指先が魂の核にまで達したとなるとどれほどのものだろうか。
生体種で言う、麻薬の類を使って達成できるエクスタシーを遥かに超える快楽を得られるらしいと聞いた事があるが、そもそも悪性霊体種には麻薬など通じないので怪しいものだ。
「ッ……ら……ら…………あ……」
アリスの双眸は完全に真紅に染まっていた。その口から溢れる言葉は意味を伴っておらず、その双眸はこちらに向いているが、しかし僕の顔を見ていない。
魂の核に触れられて嘘は付けない。これは仕置きを兼ねている。いくら僕のためとは言え、質問に答えないとは悪い子だ。
それとも、スキルを使って欲しがっていたのだろうか? どちらにせよ悪い子だ。スレイブの掌握を強い快楽に頼るのは僕の流儀ではない。
僕のスレイブの命の使い道は僕が決める。
直に触れた魂の様子。その強度から幾つのストックが残っているのは推測を立てる。
残り……十かそこらだろうか。王国ではまず見ない消耗っぷりだ。
「随分消耗したね、アリス…………彼らはそんなに強かったのか」
大きく深呼吸をすると、右手を魂核から離し、ゆっくりと引き抜く。
僕の質問に対し、アリスは何も言わず、ただこくこくと壊れた人形のように首肯した。
相手がアリスのストック数を知っているかはわからないが、どちらにせよこの状態で激戦に挑むのはかなりまずい。
彼女の命のストックは攻撃の要というのもあるが、そもそもストックある限り復活できる彼女は余り防御や回避が得意ではない。
これは…………『補給』が必要だな。




