第五十三話:――そして、僕は目覚めた
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まるで、昏い泥の中にいるような気分だった。四肢が、身体が、柔らかい混沌の中に飲み込まれ、かろうじて思考のみが自由だった。
僕は《魔物使い》になって初めて、自分のスレイブの事が心底わからなかった。
視界が暗闇に包まれてからもずっと僕はその事だけを考えていた。
何が悪かったのだろうか。信じられなかった。いや、信じたくなかったのだろう。
アリスが。僕のアリスが。僕を裏切る? 暗闇の中、僕はようやくその言葉を飲み込んだ。
アリスは非常に従順でよく出来たスレイブだった。力は言うまでもなく、性格も理知的で冷静沈着、ほとんど我儘も言わずいつでも僕の要求に十全以上に応えてきた。
彼女は魔物使いにとって、至高の剣だった。それも、伝承で語られるような魔剣の類。錆びず、折れず、ありとあらゆるものを紙切れのように切り裂く魔剣。僕にできるのはその刃が曇らぬよう、定期的に磨く事くらいだった。一人の魔物使いとして、彼女と出会えた事は僕の人生の中でも上位に入る幸運だ。
アムの推測は正しいのか? いや、最早疑う余地はない。
意識が消える寸前に僕の口から出た声は確かにアリスのものだった。認めるしかない。
フィル・ガーデン。お前は全然、スレイブの事を理解していなかったのだ。敗北を認めろ。
――そして、再び立て。ずっとお前はそうやって生きてきたはずだ。
死ななければ、何度だってやり直せる。後一歩で届かなかったのならば、もう一度挑戦すればいい。
何が悪いのかは正直まだよくわかっていない。詳しい分析が必要だ。
だが、このまま寝ているわけにはいかなかった。
目を覚ませ、フィル・ガーデン。仲間が、戦っている。スレイブが、泣いている。
このまま寝ていたら、今までの友に、今までの敵に、顔向けができない。
お前は最弱の女の子の最強を証明するために探求者になった。
だが、今、お前の心の中に残っているのはそれだけではないはずだ。
――そして、僕は目覚めた。
意識が覚醒する。視界がぼやけている。手は未だ縛られていた。
眼は霞んでいるが、僕はどうして意識が戻ったのか一瞬で理解した。
「セーラ、か……ありが、とう。状態回復法、うまく、なったね」
「……フィル。よかった……」
アリスが僕にやったのは憑依による精神汚染だろう。悪性霊体種ならば一般的な手管だ。
しかも、心を壊さないように注意していたように見える。
「でも、手が――」
ああ、わかってる。セーラの力では(恐らく、エトランジュのスキルによるものであろう)拘束は解除できない。
だが、十分だ。大きく深呼吸をして、前を見る。
そして、ショックに心臓が止まりそうになった。
そこでは、アリスとランド達が――スレイブと友人が戦っていた。
戦いはアリス優勢。地力が違うのもあるが、ランド達が悪性霊体種と戦いなれていないというのもあるだろう。
覚悟はしていたが、これは――効く。
セーラが何事かいいかけ、黙り込む。その気遣いがありがたい。
紋章はない。アリスが強すぎて契約を結べなかったからだ。だから、僕は、紋章を通じて彼女を御する力を持たない。
だが、それでも命令が通じている事を確信していたのには、してしまったのには――理由がある。
十分なのだ。紋章など不要なのだ。深呼吸をする。震えは既に収まっていた。
僕は最強の――かつて最強だった《魔物使い》だ。
僕は目を細めると、命令した。
「アリス――『おすわり』」
「ッ!?」
舞うようなアリスの動きが一瞬止まった。美しいルビーのような眼が愕然と僕を見る。
表情が決壊したかのように激しく歪む。
そこにあったのは強い畏れだった。
だが、どうやら……言うことを聞かないようだ。僕はそんな悪い子に育てた覚えはないぞ。
目を大きく見開き、しっかりアリスの眼を見てもう一度、言う。
「アリス……『おすわり』」
「ぐ……う……」
はっきり集中力を失ったアリスの肉体を、ランドの槌が激しく吹き飛ばす。心臓にきゅっと掴まれたような痛みが奔るが、アリスは叩かれても当然の事をやったのだ。他人に迷惑を掛けた以上はいたずらでは済まされない。
アリスが床を数度バウンドし、倒れたまま顔だけを僕に向ける。
潤んだ眼が僕に慈悲を求めている。そうか、僕に三度も言わせるのか。
悪い子だ。とても、悪い子だ。ここまでくると笑えてくる。
ランド達が手を止め、僕を見る。その表情は完全に強張っていた。
僕は今度こそ全身全霊を込めて言った。
「ははははは。これが、三度目だ。アリス………………『お、す、わ、り』」
「ひッ!?」
そこで、ようやくアリスが飛び起きて、その場で両手を膝に置いて正座した。
できるならさっさとやれよ……ん?
「…………いや、僕はアリスに言っただけで、他の人には言っていないんだけど」
「あ、いや、つい……な」
何故か皆がその場でおすわりしていた。今まさに戦っていたランドも、満身創痍のエティも、機械であるはずの小夜も、そして――どうして《魔物使い》のリンまでおすわりしているのかわからない。
バツが悪そうな顔をしているがバツが悪いのは僕の方である。
気を取り直してアリスを見る。それだけでアリスが怯えたように身を強張らせた。
予定とは随分違うが、待ちに待った久しぶりの再会だ。何と言うべきだろうか。
「随分弱くなったね、アリス。転移に余程力を消耗したと見える。あの気高い君が、見る影もない」
「も、申し訳、ございませ――」
「怯えとは罪悪感の裏返しだ、とは思わないか? アリス。僕は、謝って欲しいとは思っていないよ。君の馬鹿げた行いの責任は全て僕にある。アリス、いいこだ。ほら、投げたぞ。取ってこい」
僕は大きく手を振りかぶろうとしたが、手が拘束されていて動かなかった。
アリスがまるで迷子の子どものように恐る恐る尋ねて来る。
「な、何をですか?」
「何をって? そりゃもちろん――尊厳だよ」
誰のかって? そんな事、言うまでもないだろう。
誰も何も言わない。小夜達、機械人形ですら息を潜めている。
アリスが正座したままずりずりと近づいてくる。至近距離まで来ると、僕を見上げた。
まだ『憑依』は受けたままだ、繋がりを通じてアリスの昏い感情が流れ込んでくる。
だが、正面から顔をあわせてマスターがスレイブに負けるわけがない。
何が悪かったのだろうか。僕はじっとアリスの眼を覗き込み、許可を出した。
「アリス、言い訳を許可する」
「…………ご主人さまの友達を、傷つけないよう、注意しました」
「…………」
「だ、だって……ご主人さまが、全て悪いんです。私、ばかり、危険な依頼に使って……」
アリスがぽろぽろ涙をこぼし始めた。
散々ひどい目にあったであろうランド達が愕然としている。
「嘘泣きはやめろ。アリス、それは適性だ。それに、君が立候補したんだ」
「あげく、L等級にランクアップして、探求者やめて、いらなくなったらぽいするなんて、酷すぎる」
完全に周りの眼を意識して嘘泣きしている。アムが素っ頓狂な声をあげた。
「!? えええ? やめるつもりだったんですか!?」
ああ、やめるつもりだったよ。シィラを討伐できれば僕は王国でも数える程しかいないL等級になれたのだ。
それは最初に探求者を志した時の目標である。だから、シィラ戦は最後の戦いの予定だった。
だが、それは今は関係ない。アリスにもそれは前々から説明してあった。
「人聞きの悪い事を言うな。ああ、確かに僕は目標を達成したら解放するつもりだったさ。データも取ったし、かつての君の罪を雪ぐだけの実績は積んだ。そっちの方がアリスにとっても幸せだ」
『夜を征く者』はきっと戦いの中でしか生きられない。義理は通したつもりだ。
だが、僕の言葉にアリスは涙を流し叫んだ。
「私の、幸せを、勝手に決めないでください。結婚してくれるって、言ったのに」
これは…………言質を取ろうとしている。本当にずるい子だ。わがままを言われるのは久しぶりだな。
「一度も言ってないよ。アリス、僕の手の拘束を解け」
アリスが僕の後ろに周り、エティのつけた手の拘束を力づくで外す。
物理的に外すのが困難な空間固定による拘束も、空間魔術師とは相性が悪い。
アムは恐らく僕を拘束する事でアリスの動きを封じるつもりだったのだろうが、見当違いの対応だ。
腕をさすり、立ち上がる。ひざまずくアリスを見下ろす。
さて、どうしたものか……アリスを処分するのは難しくないが、スレイブとマスターは一蓮托生。アリスの罪は僕の罪だ。
彼女にだけ罪を被せるというのは……フェアじゃないな。
騙されたとか信じすぎだとかアムは言ったが、僕はそういう風にしか生きられない。
僕はしばらく黙った後、ひきつる頬を叱咤し無理やり笑みを作った。
「一から仕込み直しだ。その根性、しっかり叩き直してあげるよ。後でお仕置きだ」
「ちょ、ちょっと待ってください。フィルさんッ!」
そこで、アムが慌てて声を張り上げた。
「アリスは、憑依でフィルさんの精神を汚染して、死んじゃうかもしれなかったんですよ!?」
「!? 私が、ご主人さまを!? そんな事、してない……」
アリスが心外そうに目を見開く、もう先程まで伝っていた涙は残っていない。
「嘘だッ! 話している途中にいきなり気絶して、死んじゃうかと――」
なるほど、それでアムは僕に何も言わず、エティまで呼び出してこんな事をしたのか。
……申し訳ないが、僕の身体が弱いのは素である。昔から気絶だってしょっちゅうしていた。
アリスが僕を貶めたのは最後だけだ。そもそも憑依の力で意識を落とされたらさすがに気づく。
「あれは徹夜明けで……図書館で脳を酷使させたせいで、普通に落ちただけだよ」
「普通!? 今、普通って言いました!? どこがですか! 絶対アリスのせいですッ!」
アムが顔を真っ赤にしてアリスを糾弾する。アリスは眉を顰めると、僕の方を向いて言った。
「ご主人さま、アムのライフドレインのミスでご主人さまが死ななかったのは、私が守ったからです」




