第五十話:何も疑わずにまず与える事だ
ぞくりと、得体の知れない寒気が背筋を通り抜けた。自然と顔が笑みを作る。
「フィルさん、一つ確認したいのですが――転移魔法による脱出は計画に入っていましたか?」
「入ってないね」
「どうしてですか?」
「そりゃ……あまりに不安定だからだ。転移魔法には幾つもの弱点がある」
転移魔法は繊細な術式だ。消費魔力が膨大なのも弱点だが、何より安全に転移するには転移先の座標の指定が不可欠で発動には時間がかかる。とても緊急時に使える魔法ではない。
「ですが、アリスはそんな不安定な魔法で敬愛するマスターを避難させた。何故でしょう?」
「……とっさの判断だったんだろう。あの時はまともに指示する余裕もなかった。アリスの行動は最善ではないけど、最悪でもない」
僕の問いに、アムが笑みを浮かべた。そして、痛いところをついてくる。
「フィルさん。それは、フィルさんが、事前に万が一の時の退却方法を計画していなかった、という事ですか? 百戦錬磨で、知識と経験で、入念な準備を怠らないフィルさんが?」
いや、していたよ。当然だ。煙玉で視界を封じアリスに背負ってもらって、撤退する予定だった。
だから、アリスの行為はある意味では馬鹿げていた。
アムが大きく頷き、断言する。
「私なら、絶対に転移魔法なんて使わない。だって、フィルさんは、弱いです。持ち物がない状態で無差別に転移なんてさせたら、まず死にます。街に転移する可能性なんてほとんどないはずですから」
「……その通りだよ。だから、僕も奇跡だと思った」
ランド達がじっと僕を観察している。
そこでアムは、大きく深呼吸をして、囁くような声で言った。
「もしもそれが、奇跡じゃ――なかったとしたら?」
「…………ありえない。僕はアリスの性能を良く知ってる」
アリスの空間魔法は一流だ。桁外れの魔力も持っている。
だが、空間魔法の転移先の座標計算は距離に比例して難しくなる。あの戦場から、レイブンシティを、一瞬で指定するなど天地がひっくり返ってもありえない。考慮に値しない。
力の多寡だけではどうにもならない。それは最早前提条件だ。
と、そこでアムが大きく手を叩いた。意識が戻ってくる。真剣な表情でアムが言う。
「フィルさん、私はフィルさんとは違う視点を持っています。だから、気づいた。だから、実は――最初から少し疑っていたんです。だから、フィルさんの弱点も――見えている」
弱点? 弱点だって? 怖い。恐ろしい。だが、面白い。面白いぞ。口元が歪む。
無数の視線が突き刺さっている。そして――アムがその致命的な言葉を言った。
「フィルさん、アリスはきっと――最初から、フィルさんを、ここに飛ばすつもりだったんですよ」
何故か鈍い頭痛が奔った。視界がちかちかする。
どこからともなく暗い何かが湧き上がってくる。
「事前にどこで転移魔法を使うか決めておけば、座標の指定さえ済ませて置けば、レイブンシティに飛ばす難易度もずっと下がる」
「だが、シィラが手に負えなかったのはあの時初めて知った事だ」
「そもそも、シィラがフィルさんの想定を越えた力を持っていたというのが、まずおかしい。フィルさんは弱い分、情報処理能力に特化している。アリスが手加減していたのでは?」
「…………」
「一撃でライフストックを七割失った? というのも、所詮は『自己申告』でしょう? いつの間にか『朽ちた聖剣』が消えたというのも――シィラが滅んだからなんじゃないですか?」
アムの声は淡々としていた。だが、一言一言は怒涛のごとく、僕の心に突き刺さった。
心臓が早鐘のようになっている。アムからの情報を元に、脳が再計算を行っている。
僕はいつものように笑った。
「……面白い説だ。だけど、手加減なんて、出来る、わけがない、僕は、確かに、命令したんだ」
「フィルさん――」
静かな声には、深い憐憫が含まれていた。だが、その眼はあくまで冷静だった。
そして、アムがまるで断罪でもするような強い口調で言った。
「フィルさんの弱点はそこです。たった数年でSSS等級探求者に昇格し、友魔祭で史上最強の竜種の《魔物使い》すら破ったフィルさんの一番の弱点は――スレイブを、信じすぎている事なんですよ」
時間が止まった。ぴしりと、何かにひびが入る。
「それがなければ聡明なフィルさんはとっくにこの絡繰に気づいていたはずなんです。同じ悪性霊体種の本質を知る者として真っ先にアリスを疑った私よりも先に」
意味が、わからない。音は入ってきているのに、脳は働いているのに、心が理解を拒む。
一瞬、冗談でも言っているのかと思った。が、アムの眼は真剣だ。エティを見る。ガルドを見る。ランドを見て、白夜を見て、同じ《魔物使い》のリンを見て、そのスレイブの広谷を見た。
反論……しなくては、ならない。
口を開く。だが、その声は僕の意志に反して、震えていた。声を荒げないようにするのが精一杯だ。
「スレイブは……信じるものだ。マスターがスレイブを信じずして、誰がスレイブを信じるんだよ! なぁ、僕はなにか……間違えている事を言っているか? 実際に、リン達は和解したじゃないか」
「!? ま、まさか……フィル。あれは、わざと、だったのか!?」
広谷が目を見開いて愕然とつぶやく。リンが息を呑む。
何を今更な事を――当然だ。
僕は信じていた。僕は、きっかけを作っただけだ。全てが丸く収まると、信じていた。広谷の、リンへの愛が、いや、リンの、広谷への愛が、鬼を払うと。だから、本気で殺す気でいけた。
スレイブを愛せ。ただ愛せ。見返りを考えず溢れるほど満たせ。その心の空隙を埋め尽くす程に。
誰もがそれを求めている。
与える事。何も疑わずにまず与える事だ。それこそが僕の信条。
そう。かつて――アシュリーが、見返りを求めず僕にそうしてくれたように。
「まぁ、種が明かされてみれば簡単な話です。シィラが強かったんじゃない、アリスが手を抜いたんですよ。フィルさんには聞き慣れない単語かもしれませんが、裏切った、とでも言うべきでしょうか」
アムが淡々と言う。世界にひびが入る。脳が計算を完了する。頭が重い。
冷たい後悔が全身を満たす。アムの言う通りだ。僕はもっと早く気づくべきだった。気づくだけの情報はあった。にも拘らず、こうしてアムに指摘されてさえ信じられなかったのは、僕の未熟故だ。
喉がカラカラだった。頭が重い。痛い。足元から強い悪寒が登ってくる。
何か言わねば……。何も考えずに、口を開く。僕の口から出てきたのは、聞き覚えのある声だった。
「YES。アム・ナイトメア。見事な、推測。さすが、ご主人、さまが、眼を掛け、鍛えた、だけの、事は、ある」
そこで、僕はようやくアムがここに全員集めた理由に気づいた。だが、全てはもう遅い。
「でも、短絡的過ぎる。ああ、やはり――その程度では、ご主人さまのスレイブには相応しく、ない」
『憑依』による精神汚染及び、それを元にした転移。全く、全く、気づかなかった。
アリス、やめるんだ。今更声に出さずに命令する。
だが、無意味だった。僕とアリスでは力が違いすぎる。その精神汚染に抵抗する術などあるわけがない。
形容しがたい深い悲しみが精神を満たす。そして僕の意識はゆっくり闇に沈んでいった。
§ § §
世界に闇が訪れる。それは、同じ悪性霊体種であるアムをして寒気がするような気配だった。




