第二十二話:たまには駄目な子もいいな
まるで泥の底に沈んでいるような気分だった。
身体が重い、頭がずきずきする。指一本動かす事すら億劫だ。もう何も考えたくない。意識が朦朧としている。このまま死んでしまいそうだ。意識を覆い尽くすような揺蕩うその闇を表現する言葉を僕は物心ついた頃から知らず、七難八苦を乗り越え、経験を積んだ今もそれは何一つ変わらなかった。
純人の身体能力は最も種類が多いとされる有機生命種の中でも最弱に区分される。長く活動した後はいつも酷い気分だったが、ここまで酷いのは久しぶりだ。寝具が違うからとかではないだろう。
最低の気分で横たわっていると、ふと遠くでノックの音がした。
「フィル、さん? 大丈夫ですか……?」
誰の声だっただろうか、思い出そうとするが気力が続かない。駄目だ。今は相手を出来るコンディションじゃない。
扉には鍵がかかっている。頭から布団を被り身体を丸めるように耐えていると、
「……お邪魔しまーす」
音一つせずに声が近づく。普通に犯罪である。鍵を開けた音も扉を壊した音もないので『透過』だろう。これだから安宿は危険なのだ。
だが、『透過』対策が万全だったとしてもどっちみち罪を犯す覚悟をしている者の侵入を阻む方法はない。ああ、この世界とはなんと不条理なのだ。
そんなくだらない事を考えると、不躾な侵入者は寝室に入ってきて、言った。
「!? まだ寝てるんですかー? もうお昼ですよ、フィルさーん」
クソが。まだ寝て一時間くらいだ。お昼なわけがないだろ、この駄スレイブが。
……スレイブ? そこで僕の頭はようやく少しだけ動き出した。
魔王との戦い。敗北。新天地。アムとの契約。禁術に手を染めた愚かな後輩。強制的に起こされて胸糞悪い光景を見せられた。ぎりぎりでスレイブが理性を取り戻したので結果は丸く収まったが、最低だった事に違いない。そして、そのせいで僕の寝起きも最低になっている。最低だ。
「フィルさーん、朝ですよー!」
カーテンを開ける音。僕はぎゅっと布団を被った。どうしてこのスレイブは鍵付きの部屋に無断で侵入した上に全く悪気を感じていないのだろうか、不思議でならない。スレイブである以上接触禁止を命じるわけにはいかないのだが、それをわかってやっているなら悪質である。
「フィルさーん、起きてください! もうお昼で――私なんて、もう、朝の特訓もしちゃいました! 起きてくださーい! 色々、計画があるって言ってたじゃないですか!」
呆然とする。拗ねるような声を上げながらスレイブがゆさゆさと身体を揺する。こんな目に遭うのは《魔物使い》人生で初めてだ。しかもとても諦めが悪い。
「フィールーさーん! おーきーてー! はーやーくーどーこーかーいーきーまーしょー」
子供か! 身体を動かそうとするが、まるで全身が石になったように動かない。
こんな僕に何をやらせようというのか。腕だけなんとか伸ばし、布団の外に出す。
「え? 握ればいいんですか? フィルさん?」
「あたま……」
「頭!? 頭を、出せば良いんですか?」
指先に髪の感触が触れる。僕はそれを丁寧に撫でやり、命令した。
「後は……よろしく」
「え!? な、宜しくって――フィルさん!? フィルさーん!」
王国でならばこれだけで全て通じたはずだが、どうやら新しいスレイブには足りなかったようだ。
「フィルさん!? 明日は、忙しくなるって、言ってましたよね!? 予定があったんじゃないんですか!? そんなに寝たら身体に悪いですよ!」
「うる、さい…………よてい……?」
ようやく少しだけ回り始めた頭で記憶を漁る。そこで僕はげんなりした。
思い出した。アムがスレイブになる前にかけた迷惑について謝罪して回るつもりだったのだ。
体調は最低だが、これはアム一人では任せられない事だった。
あまり間を空けるわけにもいかない。マスターができた事により変わった事を周りに認識してもらわねばならないのだ。どれだけ迅速にそれをこなせるのかが、今後の活動に影響する。
「思い、出した。アムの……尻拭いだ」
「!?」
考えてみるとここに来てからソレばかりだな。早くアムの育成に入りたいものだ。
§
「もうッ! まさか、フィルさんの寝起きがこんなに悪いなんて、ほんっとうに信じられません!」
アムがにこにこしながら怒るという珍しい事をやっている。
その言葉の通り、僕がようやく起動した時、既に時刻は昼を回っていた。もしもアムがいなかったら間違いなく一日が潰れていただろう。
「悪かったよ。世話をかけたね。最近はこんなに寝起きが悪いなんてなかったんだけど、疲れかな」
「しっかりしてください。フィルさんはもう私のマスターなんですから!」
ちなみに、アムがとてもご機嫌なのは、彼女に朝の支度を手伝って貰ったからだ。恐らく、僕の役に立つのが嬉しいのだろう。自己評価の低いスレイブにありがちな傾向である。
アムは自尊心が少し低いのでそこも気にかけてあげねばならない。
時間は少し外れていたが、アネットさんは快く昼食を出してくれた。昨日のお礼も言われるが、僕は約束を果たしただけだ。それに、結果論だが手を汚さずに済んだし――珍しいものも見れた。
「仲直りできたんだ、よかったね」
「はい! ちゃんと謝ったら、こちらこそ悪かったって――あの広谷さんも大人しくなりましたし。全てフィルさんのおかげです!」
まだ身体は少し重いが、機嫌のいいアムを見ていると僕も嬉しくなってくる。
「よかったよかった。まぁ、才能あったみたいだしね」
「才能……あるんですか?」
「ああ。天才だね。アムは知らないだろうけど、鬼人転源歌ってかなり難易度が高いんだよ」
少なくとも僕では使えない。鬼人転源歌は忌み嫌われた術である。資料も希少なので、それを探し出し再現したとすれば、有望という他なく、しかもリンはまだ《魔物使い》としては卵なのだ。
たとえ半端であっても夜魔と契約を結べていた事といい、僕とリンは同種だが才能が違うようだ。
ちなみに僕が『鬼人転源歌』を使えないのは魔力が足りないからだが、《魔物使い》は魔力量が少ない者がなる事が多いので、その時点でリンは他の《魔物使い》とも差をつけている。
むしろ今の段階で問題に当たってよかった。ここで経験しておけば、もっと大きなトラブルを避けられるだろう。
あのレベルが間違えた方向に進んだら、次はマスターを処分しなくてはいけなくなる。
「それで、リンが改めてお礼を言いたいと」
「ああ。時間がある時にね」
「? フィルさん、リンを嫌ってないんですか?」
「まぁ、胸糞悪い事をしたとは思っているよ。でも、それとこれとは話は別だ」
彼女の行為は許されざる事だが、《魔物使い》としては非常に興味深い。
そもそも僕にとって鬼人種は一度は契約してみたいスレイブの上位に入っているのだ。
『鬼人転源歌』は使える者も殆どおらず、変容した広谷のデータは《魔物使い》ならば誰もが興味を抱くものだろう。
唯一、使った相手が『ヘルフレッド』なんて低等級の鬼人種なのが惜しいが、術の対象がもっと強力な鬼人種だったらリンは上級探求者にも匹敵する力を得ていたかもしれない。
「仲良くしておくに越したことはない。アムの親友だしね」
「!! は……はい!」
今のリンでは少し不安だが、成長した後なら契約を終えた後のアムを預ける事もできるだろう。
僕の打算も知らず目を輝かせる表情からは、二日前まで纏っていた陰鬱した空気は感じられない。
どうやらアムは……リンのスレイブに戻るつもりはないようだな。
§
観察した限り、アム・ナイトメアはなかなか面倒な性格をしている。
卑屈で自己評価が低く、それでいて中途半端なプライドがあり――だが、一番問題があるのは無償の愛を求めている事だろう。
僕が思うに、彼女は自分は何も与えていないのに与えて欲しいのだ。
アムの性根は悪辣ではないが、彼女の評価が地を這っていた原因も恐らくそこにある。道理を説けば通じるし、与えれば返してくれる。だが、中途半端に純真で賢しい性格は基本的に忌避される悪性霊体種にとっては致命的だ。
最初に向かったのはアムが滞在していた宿だった。道中、アムがもそもそと説明してくれる。
「『白銀の鶏亭』は……ご飯が美味しいです。でも、店主が熊の獣人なのですが、とても怖い人で――多分、嫌われてるんだと思います。リンがいなくなってから、特にそうで――」
これだよ。話を聞いた限り、アムは宿泊費を滞納している。探求者は不定期に大金が入ったり負傷して働けなくなったりする仕事なので宿側も滞納には慣れているだろうが、それだって限度がある。
アムは悪性霊体種じゃなかったら、宿泊費を滞納しても嫌われないと思っているのだろうか?
「アム、君はその店主の名前を知ってるか?」
「え……? えっと……」
アムが困惑したように目を瞬かせる。お説教である。彼女は名前も知らないくらい興味を抱いていない相手に譲歩してもらおうとしているのだ。失礼なんてレベルではない。
そもそも、宿泊費を滞納しても追い出されていない時点でアムは温情を掛けられている。僕が店主ならそんな奴は追い出すが、客商売は懐が深くなければやってられないという事だろう。
僕の説明を聞くと、みるみるアムの顔が青ざめていく。彼女は愚かだが馬鹿ではない。
「まさか……私、失礼な事、して、ました?」
「だからこれから謝罪に行くんだよ」
熊人ならば蜂蜜の菓子でも持っていきたい所だが、あいにくこの街には蜂蜜なんて売ってないらしいし、あまりきっちりやっても相手に気を遣わせるだけだろう。
だが、頭は下げさせる。ようやく自覚が出たのか強張った表情で顔を合わせたくない感を全身で表すアムを引きずり、僕はさっさと『白銀の鶏亭』に向かっていった。
『白銀の鶏亭』の店主――ヘルマンさんはアムの言った通り、大柄の熊人だった。
熊人は亜人種の中でも特に大柄になる傾向が強く、眼の前の男の熊人も身長が二メートル半はある。小柄なアムと比べたら大人と子どもだ。顔も普通の探求者顔負けに恐ろしく右目に深い傷跡まで持っているので、アムが怖がるのも無理は……いやいや、君、有機生命種の天敵だろ。怖がるんじゃない!
事情を話している間もずっと黙っていて、こちらを睨んでいるような雰囲気だが、ただ寡黙なだけだろう。
できた人だ。最後に、まだビクビクしているアムの後頭部を抑え、一緒に頭を下げる。
「うちのアムが本当に失礼な事をしました。今までありがとうございました」
「あり、ありがとう、ございました」
完全に萎縮しているアムをじろりと睨めつけ、ヘルマンさんはしばらく黙っていたが、
「ツケを払ってくれるならこっちに文句はない。せいせいする。どこにでも行ってしまえ」
声は乱暴だが、その中にはアムを慮っている雰囲気がある。アムはびくびくしているが、きっとヘルマンさんはアムに怖れを抱いているはずだ。
何しろこの子は種族等級だけは高いわけで。
「いちいち、顔色を窺うな。アム、あんたも――探求者だろ」
顔色を変えるアムに、ヘルマンさんが言う。ごもっともだ。
「ヘルマンさん、貴方――元探求者ですね? アムは本当に人に恵まれている」
「…………ふん」
アムのような礼儀の知らない小娘を置いてくれたのは完全に温情である。初心者支援の一環なのだろう。引退後に宿屋をやるような探求者は気がいいと相場が決まっている。
『白銀の鶏亭』は盛況だった。疫病神みたいなアムが滞在しているのに沢山の客がいるのは、彼の人柄なのだろう。そしてそれに全く気づかなかったアムはどれだけ余裕がなかったのだろうか。
「ちょっと待ってろ」
そこで、ヘルマンさんが引っ込み、すぐに戻ってくる。その手には袋が下げられていた。
「弁当だ。最近、飯に来なかったから、その分だ」
アムはしばらく待っていたが、僕が手を出さない事に気づいたのか、代わりにそれを受け取った。
「ありがとう、ございます」
「二度と戻ってくんなよ」
ヘルマンさんがドスの利いた声でぼそりとつぶやき、アムが涙目で僕を見る。
いちいち真に受けるなと言いたいが、この人、口悪いな。アムと相性が悪すぎる。
「元気にやれよって事だ」
ヘルマンさんは顔を顰め、さっと目を逸らした。
極僅かな荷物を回収し、外に出る。ある程度離れるや否や、アムは叫んだ。
「あんなの、わかりませんッ!」
「わかれ」
アムは愛に飢えている癖に人間不信過ぎる。この世界に悪意を振りまき生きている者など僅かだ。
どうやら実際に穏便だったヘルマンさんを見てもまだ信じられないらしい。
「あんなに、怖い顔で睨みつけてたのに――もしかしたら、フィルさんの勘違いの可能性だって――」
「アム、貰ったお土産を確認してみなよ」
「……え?」
アムが戸惑いながら、貰った袋を確認する。中には二つの弁当が入っていた。
僕の分とアムの分だ。食事は美味しいと言っていたので、アムの好みを知るチャンスである。
「アム、食事付きなのに食事を取らなかったのは君の勝手だ。ヘルマンさんに弁当を作る義務なんてないし、僕の分までくれるなんて、ヘルマンさんのご厚意以外に考えられない。違うか?」
「…………はい」
ようやく、アムがしおらしい表情で頷く。いい人だったし、怖い顔の探求者に慣れておくためにも、これからもたまに顔を出すべきかもしれない。だが、まだこれからだ。
アムはこの街に長く住んでいるのだ、謝る相手はもっと沢山いる。アムが嫌われる種族なのは事実なわけで、今回のように勘違いばかりではないはずだ。
だが、それは彼女の持つ宿痾のようなもので……このままずっと苦手意識を抱き生きていくわけにもいくまい。
記憶した地図との齟齬の確認も兼ね、アムの告白に従い順番に謝罪周りをする。一通り終えた時には日が落ちかけていた。最初から気乗りしなさそうだったアムはもうぐったりしている。
もうちょっとやる気を上げてからやればよかったが、速度が重要だったので仕方がない。
「もう疲れました……」
「次で最後だよ」
「でも……思っていたよりは、悪くなかったです」
アムがぽつりと漏らす。謝罪に対する反応は様々だった。
嫌味を言ってきた者もいたし、祝福してくれた人もいた。ヘルマンさん程気のいい人はいなかったが、上々だろう。そもそも、自ら謝罪をしてきた者を跳ね除けるのは難しい。それも傍らに全く見たことのないマスターがいるのだから尚更だ。
アムは周囲に致命的な被害を与えてはいないのだから、ここで絡んでくる者がいるならばそれはそれで要注意リストに加えることができる。そして、一度謝罪すれば次に絡まれる可能性も下がる。
「でも、次の人は、絶対、私の事嫌ってますよッ! 何もしていないのにずっと冷たかったですし」
何故か自信満々にアムが宣言する。何と張り合っているんだか……。
「ありえないね。アムはコミュニケーションが足りなすぎる」
「へー……賭けますか?」
アムがしたり顔で面白い提案をしてくる。
「いいよ。僕が勝ったら、予定より少し早いけど君の能力を計測――データリングをさせてもらう」
「へ……? それは…………」
賭けにはならないのでは? 別に能力計測くらい付き合いますけど、みたいな顔でアムが僕を見る。
甘い。僕のデータリングはかなり仕込んだスレイブでも嫌そうな顔をするレベルで徹底的なのだ。
リンがアムに行ったであろうものと一緒にして貰っては困る。
「では、私が勝ったら……勝ったら……」
どうやら、欲しい物がないらしい。満たされているからだろう。自分で言い出したことなのに困っているアムはとても駄目な子で写真に撮って残しておきたいくらい可愛らしい。
戦闘でこれを出されたら堪ったものじゃないが、たまには駄目な子もいいな。
「後で勝った時にじっくり考えていいよ」
「で、では、それで。後で後悔しても、遅いですよッ!」
「後悔するのはアムの方だよ」
「え……?」
今日、僕はアムの告白を聞いて謝罪回りをしたが、別に適当な順番で謝罪していたわけではない。
大切なのは最初と最後だ。僕はアムの心境を変えるために明らかに気のいいであろうヘルマンさんを最初に持ってきた。そして、最後についても――今日一日で精神的にぼこぼこにされる可能性もあったアムのために、一番堅い人を持ってきたのだ。
機械人形は公平だ。機械人形でおまけに、ギルド職員ともなれば、特定の探求者を好くことはあっても嫌って差別するなんて事はありえない。




