第四十六話:さすがに、ちょっと疲れたよ
仄暗い部屋に轟音が響き、頑丈そうなテーブルに大きなひびが入る。マクネスさんが拳を叩きつけたのだ。
《機械魔術師》には精神を安定させるパッシブスキルが存在するはずだが、その顔は完全に引きつっていた。
その双眸が僕に向けられる。純人など片手で捻れるような能力を持っているはずなのに、その瞳には強い恐怖が見えた。
《機械魔術師》は合理を重んじる。だからこそ、こういう手に引っかかるのだ。
人は己の理解できないものに恐怖を感じる。
「あり、えない……お前は、そんなに、愚かじゃない…………それでは、ただの、馬鹿だッ! ならば、なんだ! お前は今、無防備だとでも言うのか!? 何の武器も持たずに、この私の前に出てきた、と!」
マクネスさんが悲鳴のような声を上げる。
いつだって、そうだった。僕は弱い。今も昔もずっと弱い。そして、昔はアリスもいなかったのだ。
恐れていては何も手に入らない。故に、怖れず。これは――マクネスさんが得意とする合理と言う奴だ。
そもそも、アリスがいたって死ぬ時は死ぬのである。ならば、死人は少ない方がいい。
「イかれてる、フィル。貴様は死が――怖くないのか!?」
「もちろん、怖いさ。僕にはまだ未練がある」
アシュリーの元に戻らなくてはならないし、目標であったL等級の探求者にも未だ至ってはいない。
リース代の支払いが滞っているであろう夜月からも小言を受けねばならないし、やりたいことはいくらでもある。
「必要ないなら――こんなリスクを背負う事もなかったんだが――」
正面から戦いができるならばそれに越した事はなかった。もしも、アルデバランが死んでいなかったら――その証拠をこの地の探求者に託して僕は去るという手も使えた。ザブラクがやったように。
僕からここまで譲歩を引き出したのは間違いなく目の前の男の手腕である。
疲れたような僕の声にやや冷静さを取り戻したのか、マクネスさんが鋭い目つきで、未だ腰を下ろしたままの僕を見下ろす。
「君は――状況が、わかっているのか? チェックメイトだ」
心臓が強く打っている。黙り込む僕の前に、そのスレイブが一歩踏み出す。
マクネスさんが、まるでこの状況をできるだけ早く終わらせようとしているかのように早口で言った。
「君は、自ら、武器を捨てた。君を消せば、全て終わるんだ。エトランジュも、そして君の自慢のスレイブも生き残るだろう。だが、そんなのは関係ない――私は、全てを、終わらせられる。何故ならば、この夜の事を知る者は君以外に、誰もいないのだから」
その声には確信があった。
世界は痛い程静かだった。ここには誰もいない。ギルドに雇われた魔導機械は全てマクネスさんの下僕だ。
白夜が僕にSSS等級依頼の解決を頼んだ事から全員がその完璧な支配下にあるわけではないようだが、《機械魔術師》に彼らは逆らえない。記憶だって自由に操作できるだろう。
「たとえアリスが君の死を叫ぼうが、誰も悪性霊体種の言葉など聞かない。エトランジュの言葉だって、封殺できる。何しろ、ここは密室だッ! わかるか、冷静に考えてみろ! アリスもエトランジュも、君がここにいる事を知らないんだッ! アリスが君に憑いていなかったというのは、つまり、そういう事だッ!」
まるで、自分のミスを隠そうとしているような声だった。だが、マクネスさんの言葉には理があった。
アリスを憑けないというのはつまり、アリスから僕の動向を一切探れないという事を意味している。だから、彼は僕がアリスを憑けている事を何の根拠もなく確信し、だから真っ先に僕を『回復』し憑依を解除した。
マクネスさんと僕のやり取りを、アリスは一切知らない。アルデバラン戦の後、僕が何をしようとしていたのかも。
「どうしてだ! 何故、どうして、その表情を、そんな表情が、できるんだッ! 君は、これから、死ぬというのにッ!」
マクネスさんが頭を搔き、僕を糾弾する。そこで僕はようやく、本題に入った。
足を組み直し、とんとんと人差し指で腕を叩く。どうやらマクネスさんはすぐに僕を殺すつもりはないようだ。
納得できないのだろう。これだから理屈で動く者はやりやすい。
僕はため息をつくと、真っ直ぐ目と目を合わせ、マクネスさんに言った。
「マクネスさん、実は僕は戦いに来たわけじゃない。交渉に来たんだ」
§ § §
身体は休息をずっと訴え続けていたが、眠気は一切来なかった。
窓から差し込む日の出の光が眩しい。エトランジュは一睡もせず、不安そうにそわそわするアリスと、ドライと共に地獄のような一夜を過ごした。
侵入者達は全て捕縛してある。ばらばらになった小夜の部品は一つ残らず集めたし、エトランジュの受けた重傷も、アリスの生命操作の力で回復した。
だが、生命エネルギーの譲渡は身体の傷は癒せても心の傷は癒せない。
不安に拍車を欠けているのはアリスの浮かべている表情だ。あれほど信じているとか言っていたのに、エトランジュに負けず劣らず不安げだった。
「……アリス、その辛気臭そうな表情やめるのです! 私も不安になるでしょう!」
「発情娘、うるさい。御主人様を心配して何が悪いの?」
「そ、その発情娘っていうのも、やめるのです!」
全て、見られていた。全て、見られていたらしい。最初にその恋心を受けた時の感情も、フィルの顔を見ただけで赤くなっていたのも、葛藤も、はしごを外されショックを受けていたところも全て――余りの恥ずかしさに、穴があったら入りたい気分だ。
「素晴らしい御主人様に、発情するのは仕方のない事」
殺してやりたい……発情なんてしていない。エトランジュは、ただ少しだけ、いいなーと思っただけだ。こんな事は初めてだったから戸惑ってしまっただけなのだ。
しばらく頭を膝につけ、顔を隠していたが、しばらくすると口からふとぽつりと声がこぼれ出た。
「………………アリス。フィルは本当に…………大丈夫なのですか?」
「………………大丈夫に、決まっている。今まで五回、同じことがあったけど、戻ってきた」
そりゃ戻ってこなかったらレイブンシティにいるわけがないのだから戻ってきたのだろうが――五回もアリスはこんな状態で帰りを待っていたのだろうか?
もしもそうなのだとしたら――相手が悪性とは言え、余りに哀れな話だった。
せめて、アムがいれば、紋章を通して生きているかどうか確認できるのに……まさかあのアムの不在を悔やむ日が来るなんて。
そもそも、フィルはちょっとどうかしている。アリスを憑けていないという事は、今の彼は無防備だという事だ。
危険な事をするとは聞いていたが、ここまで危険だなんて聞いていない。さすがに完全な無防備で死地に赴くとは思ってはいないが――。
「発情娘が発情なんてして頼りないから…………」
「それは今、全く関係ないのですッ!」
「……………………御主人様、男性でユニコーンは無理です」
「ま、まぁ……きっとフィルも一回遭えば納得するのです」
声を殺して泣いているアリスを慰める。あれ程恐ろしい力を持つ悪性霊体種なのに、御主人様の事となるとすぐにおかしくなるらしい。
もしかしたら、悶々としていたエトランジュも傍目から見たらこうだったのだろうか?
その時、不意に玄関の方で音がした。聞きたくて聞きたくて仕方のなかった声が、耳に入ってくる。
一瞬、夢だと思った。刹那で現実だと確信した。同時に、勢いよく立ち上がるエトランジュとアリスの耳に、続いて無機質な声が聞こえる。
「おかえりなさいませ、フィル様。お待ちしておりました。お二人とも無事です」
「あ、の……木偶、人形ッ!」
憤怒の形相のアリスに、エトランジュはドライに内心謝りながらも同意する。
くだらない話をして集中を切らしていた自分たちが悪いのだが、さっさと出迎えるなんて余りにも酷い。
足を縺れさせながら半壊した玄関に向かって駆ける。そこにいたのは――待ちに待ったフィル・ガーデンだった。
疲れた表情をしているが、負傷などは見られない。アリスとエトランジュを見て、いつも通りの笑みを浮かべる。
「ただいま…………さすがに、ちょっと疲れたよ」
「おかえりなさい、御主人様。責務を果たしました」
「フィル! 無事でよかったのです! まったく、貴方という人は!」
飛びつくアリスを、フィルが抱きとめる。エトランジュも続こうかと迷ったが、ぎりぎりで止めた。
今回はアリスに助けられたし、悔しいがスレイブの特権ということにしておこう。
抱きしめられ、全身で喜びを表すアリスをちらちらと横目に、咳払いをする。
「フィル、話を聞かせて貰うのです。今回の件はこちらも襲撃がありましたし、さすがに看過できないのですよ」
「そうだね……凄く眠いけど……君にも迷惑をかけた。結論から言うよ。一番危険だったところは全て、終わらせた。その辺りについては、もうエティは心配しなくていい」
「…………何、言ってるのです?」
そんな言葉を聞きたいわけではない。必要なのは、真実であり、納得だ。前回のアリスの件ではエトランジュはある意味、部外者だった。だが、今回は当事者だ。
フィルが危険な目にあったのだ。エトランジュだって襲撃を受けた。
屋敷は半壊だし、映写結晶を撮影していた《機械魔術師》にだって襲われたし、小夜まで襲ってきた。さっぱり状況がわからない。
「全て、決着をつけた。悪いけど詳しくは言えない、約束したんだ。年月はかかるかもしれないけど、徐々にこの環境は元に戻るだろう」
とんでもない酷い男だ。ここまできてまだエトランジュに隠し事をしようとするとは……きっと、アリスには話すはずなのに。
口を開きかけるエトランジュに、フィルがどこか優しげな声で言う。
「エティ、僕は何も教えないけど――探求者なら、推理してご覧。ヒントはあるから、SS等級ならできるだろう」
「ッ………………わかった、のです」
確かに、道理だ。エトランジュには方法がある。
捕らえた襲撃者もそうだし、小夜だって修復すれば――何かわかるだろう。スパナで分解したおかげで、記憶装置などもしっかり残っている。
全てを聞こうなど探求者にあるまじき話なのかもしれない。それも、対等でいようと思ったら尚更に――。
体力の限界に達したのか、フィルの身体ががくりと崩れかけ、アリスが慌てて支える。
半分閉じた眼。今にも眠りに落ちそうな表情で、フィルが呟いた。
「アルデバランの――無機生命種の魂は、死んだらどこにいくんだろうな……」
それは機械魔術師達にとっての命題でもあった。
無機生命種は人造の種だ。霊体種の精神攻撃のほとんどを無効化し、一般的には魂を持たないと言われているが、最初の《機械魔術師》は魂の製造を目標としていたのだと言う。
魔導機械の根幹たる魔導コアは未だブラックボックスだ。技術樹の力でエトランジュ達でも作れるが、その構造原理を完全に理解していた者はそれを生み出した原初の《機械魔術師》だけだ。
フィルは――かつて伝説に足を踏み入れかけたという、この《魔物使い》は一体誰の、何のために戦っていたのだろうか?
いや――今必要なのは問いではない。休息だ。エトランジュはため息をつくと、どうしようもなく愛しいソウルブラザーに声をかけた。
「おやすみなさい、フィル」




