第五話「そして、その人物は姿を現す」
散り散りになって消えていく悪魔は、まるで風に吹かれた灰のようだった。
それは、たった一分程度の出来事だった。
言うまでもなく、圧倒的だった。
相手が弱体化していた雰囲気は一切なかった。むしろ、仇を殺すために全快まで息を潜め、完全なコンディションで、こちらが引いてしまうほどの殺意で、あの悪魔はこちらへ向かってきていた。
それなのに。それなのにだ。
腕を横に振れば全身全霊の攻撃が消滅し、拳を握れば渾身の防御が砕かれた。
あまりにも呆気ない強敵の最期に、物足りなさまで感じてしまうほど、彼女の力は強力で、強大で。
その場にいた全員が、声を失っていた。
「何よあの悪魔。殴ったら消えちゃったじゃない。お兄ちゃんの邪魔するならもう少し骨のあるやつ寄越しなさいよね」
軽い文句を言いながら、真穂は呆然と立つ司の前に歩く。
「ほほう! これが例の天使化だね? 格好いいじゃん! うわ! 本当に翼が生えてる! 凄い! 意外ともふもふしてるんだね!」
まるで着ぐるみを前にした子どものように、真穂は司の背に生える白銀の翼を握手するかのように掴み、ぶんぶんと振っていた。
あり得ないという気持ちを特に痛感していたのは、その様子を影から見ていた二人だった。
言葉を選んでいるのか、目の前の光景を見ながら一言一言を文字通り紡ぐように、雨谷朱理は言う。
「悪魔を視認する、そして接触。そこまでは司様の家系です。納得するとしても、悪魔アスモデウスを生身で圧倒するのは…………果たして人間の所業として受け止めていいものなのでしょうか……?」
隣で聞いていた導華も、生唾を飲みながらそれに混じる塩っ気で自分の頬を流れる汗をようやく自覚し、腕でそれを拭ってから、ようやく口を開く。
「間違いなく、人間じゃよ。ただ、あれは例外中の例外。『器』のための家系、佐種家と、悪魔への適性を持つ魔女の一族、初知家との間に生まれた、人の世界に収まる『器』を持たない完成品、サタンの『器』、佐種真穂じゃ」
努力や苦労など一切ない、純粋な才能のみで出来上がった傑作。
例えばプロ野球選手とトライアストン選手の子に生まれた天才野球少年のような、生まれた瞬間から選ばれた側として生きる人間。
彼女はそんな存在なのだと、導華はもはや笑いすら浮かんできそうな顔で言っていた。
「天使に匹敵する強さとは聞いていましたが、これはもう、そんな次元に収まる問題ではないのではないでしょうか?」
「ワシの印象としては、『佐種美佳に匹敵する強さ』じゃ。まあ、あそこまで力を自覚せずに荒削りな攻撃でそれじゃ。訓練によってはワシらの師匠である大天使様とも同格の力を持つじゃろう」
「それなら、悪魔たちへの反撃すら考えてもいいのではないのですか? それだけの戦力があれば、サタンとも互角に渡り合えるのでは……」
「そう思って、佐種勇と佐種美佳を率いて挑んだ戦いで、『サタンが十年近く行動不能になる程度の傷』を負わせることしかできず、さらにはあの二人を失ったんじゃよ。もう下手なことはできん」
司の両親が帰らなくなったきっかけである十年前の戦い。痛み分けという結果にはなったものの、天使側の佐種勇と佐種美佳の損失というものは、時とともに治るサタンの傷とは比べ物にならない痛手であった。
同等の力を持っているとはいえ、佐種真穂という存在の重要性とその価値を考えると前線に送り込むなど愚行中の愚行である。
「とりあえず、片穂の張った【縛魔之神域】を解除して空間を日常に戻すとするかの」
言いながら、導華は姿を天使に変えて両手を上げた。
数秒間のうちに、遊園地を覆っていた半透明の白い結界がまるで弾けたシャボン玉のように消えていった。
再び姿を人間に戻すと、導華は好奇心旺盛な妹のおもちゃとなってしまっている天使の姿をした残念な司に視線を移す。
司の背に生えた翼を掴んで持ち上げている真穂は、根元がどうなっているのか気になるらしく下から覗き込むようにしゃがんでいた。
「おおー! 本当に生えてる! すごーい!」
「お、おう……」
どうしたものかと司が戸惑っていると、心の中から同じように困ったような声が聞こえてきた。
『つ、司さん……?』
もう天使でいる必要はないということをようやく思い出して、司は天使化を解除した。
司の体から溢れる光となって再びこの世界に戻ってきた片穂を見て、真穂は目を輝かせる。
「光が片穂ちゃんになった!? 天使の力ってやっぱり物理法則とかも完全に無視しちゃうの!?」
「ぶ、ぶつりほーそく、ですか……??」
聞き慣れない単語に片穂は首を傾げたが、次の瞬間には真穂の興味はまた別のところにいってしまっているようで、今度は司の体をまじまじと眺めていた。
「ちゃんと生えてた翼が消えてなくなるどころか服装まで元通り。やっぱり話で聞くより実際に見る方がすぐに理解できるものだねぇ」
勝手にうんうんと頷いて一人で納得する真穂を前に、司と片穂は目を見合わせた。
導華によって結界が解除されたため、悪魔からの干渉を受けないようにと無自覚にその場を離れていた人たちが元居た場所に戻り始めていた。
一瞬で非日常と化した遊園地に、徐々に日常が戻り始める。
そんな空気には天使の話はそぐわないと思ったのか、仕切り直しのために真穂はパンと手を叩いた。
「うん! じゃあ天使とか悪魔の話はここまでにして、さっそくお兄ちゃんと片穂ちゃんのデートを再開して――」
素晴らしく完璧なタイミングで、司のポケットに入っていたスマートフォンから着信音が鳴り響いた。
途中で邪魔をされてかなり不機嫌そうになる真穂の視線を申し訳なく思いながら、司は誰からの着信かを確認する。
「あれ、誉からだ」
相手はここにはいないもう一人の天使、進撞誉こと天使イドミエルからの着信だった。
「また別の女……?」
まるで浮気の常習犯かのような気分にさせてくれる真穂の言葉をスルーしながら、司は電話を繋いだ。
「もしも――」
『うるさいわね! いい加減黙りなさいよ‼』
「ええ!?」
あまりにも唐突に出鼻をくじかれた司が思わず声を上げると、電話の先にいる誉の取り繕うような声が聞こえた。
『あ、ごめんなさい。別にあんたに言ったわけじゃ……だからとりあえずそこに黙って正座してなさい!』
一体どんな状況になっているのかは予測できないが、穏やかではないことは確かだ。
恐る恐る司は問いかける。
「な、何があったんだ……?」
『あんたの家の前に変な奴がいたの! だから捕まえてやったわ!』
「変な奴……?」
変な奴を家の前で捕まえたと言っても、司の家はマンションである。
もし普通に自分の部屋へと帰ろうとしていた人だったらどうするつもりなのだろうか。そりゃ黙らずにはいられないはずだが。
「えっと……、本当に変な人だった? 第一印象だけで冤罪とかない?」
『あなたの部屋のドアの前で反復横跳びしてるかと思うくらい右往左往してるやつがいても変な奴だと思わないんだったら今すぐこの人解放してあげるけど』
「あ、今から帰るんでもう少しだけまってて下さい」
『さっさとしてちょうだい! こいつさっきから「絶対に司だけは呼ばないでくれ」ってうるさいのよ! 怪しいでしょ⁉︎』
司だけは、ということは『佐種』という標識だけでその部屋に住んでいるのが司だと知っているからだ。
しかし学校の人間なら誉でも名前までは分からずともこんな言い方にはしないはず。
だったら、誰だ。
片穂や真穂には悪いが、これは帰らざるを得ない。
「わかった。すぐに戻る。てか、なんで誉ちゃんが俺の家の前にいるんだ?」
『べ、別にカホエルに会いにきたなんて言ってないじゃない! 早く戻ってきなさい‼︎』
なぜこんな些細な質問をしただけで怒鳴られた上に一方的に電話を切られてしまうのか意味が分からなかったが、スマートフォンをポケットにしまうと司は申し訳なさそうに目の前で仁王立ちする妹に声をかける。
「あの、なんか家の前に不審者が現れてそれを誉が捕まえてくれたみたいなので、これからすぐに帰らなきゃいけなくなったんですけど……」
「ふ〜〜〜〜〜〜ん」
「え、えっと……」
腕を組む指にかなり力が入っているのを見て、司は戦慄した。
頬に流れる汗を拭くことなく、司は切り出す。
「片穂と真穂には悪いけど、帰ることになったから……」
鬼のような形相で整った顔が台無しになるほど眉間にぐちゃぐちゃなシワを寄せて、真穂は殺意を剥き出しにした。
「じゃあ私の邪魔をした不審者野郎ってのをさっさと成敗しに行くよ‼︎」
俺より先に踵を返して遊園地の出口まで足早に進んでいく真穂の後ろを、俺と片穂はついていく。
導華と朱理もその会話は聞こえていたらしく、早速出口へと向かっているのが見えた。
「ということで、帰ろっか、片穂。ごめんな」
「大丈夫ですよ、司さん! 遊園地ならまた来ればいいんですから! それに、今日はとっても楽しかったので私は大満足です!」
笑顔でそう言う片穂に感謝をしながら、俺たちは家へと戻った。
「まったくさ! そもそもあんな熟年夫婦と出来立てカップルの要素をどっちも兼ね備えたみたいなわけ分からない距離感やめてくれない⁉︎」
「は、はぁ……」
俺と片穂の遊園地デートを悪魔と不審者に連続で妨害されて不機嫌に不機嫌を重ねる完璧超人な佐種真穂は、遊園地から帰ってからずっとこの調子で、司の部屋がある階に進むエレベーターの中でも文句をずっと口にしていた。
動きの遅いエレベーターにも腹が立つのか、タンタンとつま先で地面を叩いてドアが開くのを待ち構えていた。
そして、階についたエレベーターのドアが開き切る前にエレベーターを飛び出した真穂はその視界に司の部屋の前にいる誉と正座させられている不審者を映した。
「あんたね! 私の計画を水泡に帰しやがった不届き者は! この佐種真穂があんたをけちょんけちょんに…………」
突然、真穂の言葉が止まった。
何かがあったのかと後に続く司たちは真穂の背中を見て、
「どうしたんだ、真穂。てか不審者って…………」
心配そうに近寄った司も、同じように言葉を失っていた。
横にいた片穂と導華も、同じように目の前の状況に理解ができないようだった。
この空間で何もわかっていないのは、誉と朱理だけ。
その理解の差の原因はたった一つだけ。
そこにいる不審者が誰かを知っているか、否か。
その人物は男で。
その人物は、しわだらけのワイシャツと不格好に結ばれたネクタイと、くすんだ茶色のスーツのズボン、そしてくたびれた革靴という疲労のたまったサラリーマンのような服装で。
その人物の髪は黒髪短髪で、その顔立ちは二〇年前に出会いたかったといわれそうな整いながらも年齢を感じさせるまさに味のある中年というような顔で。
その人物は愛する妻と二人の子を持つ男で。
その人物は一〇年前に息子と娘の前から母とともに姿を消した父親で。
その人物は、その、人物は。
「ぁ……ぇ……?」
いまだに言葉に迷う司に対して、男は視線を移す。
「あ、あのさ……」
自分の子どもたちに助けを求めるその男は、息子に似た申し訳なさそうな顔で苦笑いをしながら言う。
「お父さん、足が痺れちゃったから早くこの子にいろいろと説明してもらっていい?」
佐種勇は軽い口調で両手を合わせ、お茶目にウィンクをして頭を下げた。




