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俺と天使のワンルーム生活  作者: さとね
第三章「不屈の英雄に最高の誉れを」
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その2「なりたいものは、その手の先に」

 彼は、あるマンションの一室を堅く閉ざす扉の前に立っていた。一見、どこにでもあるような普通の扉だ。しかし、どうにも彼にはそれが異常なほど強固な、まるで厳重な警備下の金庫の扉を前にしたかのような感覚がしてならなかった。

 でも、彼はその扉を開けなければならない。


 ついさっき、大切な友人から連絡があった。『片穂が誘拐されたんだ。警察には訳あって通報できないから、俺たちで助けなきゃいけないんだ。だから、助けてくれ』と、そう言った。疑問は多かった。誘拐も、警察に相談できない事も、訊きたいことはたくさんあった。

 でも、親友が嘘をついていないことは、声を聞いただけでわかった。だから彼は、嘉部(かべ)英雄(ひでお)はこう答えた。


「当たり前だ。任せろ」


 そして英雄が司に頼まれたことはもう一つ。

 進撞誉に、協力してもらうこと。これは自分にしか出来ない事だと、英雄自身も分かっている。

 一つ大きめに息を吐いてから、英雄はインターホンのボタンを押した。

 返事はない。しかし、ガチャリという機械音が聞こえた。受話器だけ外している状態なのだろう。

 英雄は何を言おうか色々と考えた挙句、余計なことは必要ないと判断した。


「片穂ちゃんが、さらわれたらしい」


『──‼』


 言葉は聞こえなかったが、驚嘆に息を飲んだ音が機会を通して響いてきた。

 英雄は、続ける。


「事情があって警察は呼べないんだって、司が言ってたよ。誉なら、この意味分かるんだよな?」


 数秒間の沈黙の後、扉の鍵が開く音が聞こえた。そして、インターフォンから声が響く。


『……入りなさい』


 ゆっくりと扉を開き、英雄は部屋へと入る。

 過去に何度かテスト勉強のために入ったことのある誉の部屋。以前抱いた感想としては、女の子の部屋としてはかなり物が少なく寂しいという感じだ。必要最低限のみが揃えられ、ただ生活するだけの空間、という印象だった。

 その印象は今も変わらない。そもそも家具の配置などが変化していないから当たり前なのだが。そして、学校に何日も来ていなかったが、怠惰な生活を送っているわけではないらしく、部屋は自分の部屋よりも整理されていた。


 その空間の中に立つのは、自称天羽片穂のライバル、進撞誉だ。

 その外見は最後に会った時と一切変わらない。

 肩にほんの少しだけ毛先が触れるくらいのセミロングで、滑らかな黒髪は結ばれずに真っすぐ下へ垂れており、若干キツい目つきもその整った顔が美しさにすら変えてしまっている。

 今は部屋着なのか、体のラインが分からないような少し大きめのシャツと緩いズボンを穿いているが、それでも片穂の方が背も高くスタイルも良いと判断出来てしまうような、まだ育ちきってない少女、という印象だった。


「久しぶりだな。誉」


「そんな前置きいらないわ。さっきの話、どういうことなのかしら」


「片穂ちゃんが誰かにさらわれたらしいんだ。詳しい事情は教えてくれなかったけど、多分司の家の近くの廃墟とか使われていない建物に捕まっている可能性が高いからそれらを探してくれって」


「連れ去ったのは誰か、わかっているのかしら」


「教えてもらえなかったんだ。何か事情があるみたいだったけど」


 英雄が説明していることはかなり曖昧で、得ることのできた情報は片穂が連れ去られたことぐらいなのだが、それでも文句があるような素振りは誉からは一切なく、迷わず服を着替えるためにクローゼットへと向かいながら、


「そう。なら、私だけで探しに行くわ。あなたは帰っていいわよ」


「どうしてそうなるんだ。俺だって探すよ」


「これはあなたが関わるべきことではないわ。ただそれだけの事よ」


「それだけって……俺だって片穂ちゃんの友達だし、何より司の頼みだ! 少しでも力になれるなら──」


「少しも力になれないから、関わるなって言ってるのよ」


 クローゼットを漁りながら、冷たく、それでいて哀れむような声で誉は言った。

 英雄には依然として背を向けたまま、誉は続ける。


「私が天羽片穂に負けたあの日、私はあなたに、『負けて悔しくないの』って訊いたわ」


 それは英雄もよく覚えている。自分が誉と学校で話した最後の瞬間だったのだから。

 あの日、誉の心の動きが全く分からなかった英雄は、どうすればよかったのだろうと考え続けていた。

 だからこの機を逃すまいと、英雄はすかさず返事をする。


「俺は、もちろん悔しいって言ったはずだ」


 誉は嘲るように「ええ、そうね」と呟き、クローゼットから制服を取りだしてようやく英雄の事を視界に移して声を出す。


「じゃあ、あの時自分がどんな顔してたか、あなたは覚えてる?」


「いや」


 言って、英雄は考え込む。しかし、ずっと前の自分の表情など覚えているはずもない。答えられない英雄は沈黙を返事とするが、


「……目が、笑ってたのよ。自分じゃ気付かないほど無意識に、無自覚に」


「どういう意味だよ」


 誉れは笑ったまま続ける。


「一目見た限りなら真剣そうな顔をしていたわ。でもね、あの日の私はほんの少し前に同じ顔を、目をしていた。だから分かった。私もあなたも、同じように最低なんだって」


「わかんねぇよ。もっと分かりやすく言ってくれないと」


 呆れたようにため息を吐くと、誉は侮蔑を視線と声にたっぷりと染み込ませ、言う。


「あなた、佐種司との勝負をしていた時、本当は勝つ気なんてなかったでしょう?」


「そ、そんなこと……ッ!」


「あるのよ。私だって、そうだったんだから」


 誉は手にとった皆が通う学校の制服を懐かしむように見ながら、


「負けることなんて、わかってたのよ。自分は天羽片穂を超えられないと分かっていた。でも、挑み続けることで、自分は頑張っているって思い込めるから楽だったのよ。勝負を挑んでも、どうせ負けるって心の奥で分かってたのよ。あなただって、そうでしょう?」


「俺は……」


 反論が、出来なかった。

 案の定、という顔で誉は話し続ける。


「諦めずに頑張る自分に酔っていた。私も、あなたも。そもそもあの二人は私たちの手の届く所にはいなかったのよ。私たちのなりたいものはずっと、私たちの手の先にあった。勝負を挑んだのは、それがもっと近くにあるんだって思いたかったから。同じ土俵に自分はいるんだって、思いたかったから」


 それはプロのスポーツ選手の試合に素人が参加するようなものだ。同じ試合に参加することで、実力がかけ離れていたとしても自分はプロと同じ場所で戦っているのだと勘違いしてしまうような感覚だ。同じ試合にいたとしても、同じ場所にいるなんてことが全てに当てはまるということなんてあるわけがないのに。

 そんな素人がある日、圧倒的な実力の差を知り、自分の立つ場所はここじゃないと気づいて、それでもなお試合に出ようと思えるだろうか。

 彼女の場合、そんなこと出来るわけないと、そう思ったのだ。


「私が学校へ行かなくなったのは、片穂に負けて悔しいからとか、皆が嫌いになったからじゃないわ。恥ずかしかったのよ。天羽片穂は私のことを真剣に考えてくれていたのに、私はずっと自分のことしか考えてなかったから。皆と同じ場所にいる資格なんて、そもそも私には無かったのよ」


「だからって、諦めるのかよ」


 唐突に放った英雄の言葉に、誉は理解が追いつかず、話しながら行っていた動作全てが停止した。


「今の発言からそんなことを読みとられるなんて、あなた国語は苦手ではなかったでしょう? 私はそもそも諦めるとか──」


「恥ずかしいから家に(こも)ることが、諦める以外のなんだってんだよ」


「なん、ですって……?」


 一心に誉を見つめたまま、英雄は言う。


「だって、誉はどんなに負けたって次は勝つって片穂ちゃんの前に諦めずに立ち続けたじゃないか。ずっと家の中に居続けることは、片穂ちゃんと戦うのを諦めた証拠じゃないか。俺はずっと戦い続ける誉を見てきた。お前はそんな弱いやつなんかじゃないんだよ」


 英雄は、ずっと横で見続けてきた。日々の勝負も、文化祭も、テスト勉強も。泥臭く、必死に片穂に追いつこうともがいてきた誉を、英雄は見てきた。

 しかし、自分が司に至らないと思っていたのは事実だと英雄は思っていた。互いに高め合って、負けてしまったならそれでいいと思っていた。でも、誉は違うはずなのだ。自分とは違う。諦めているのではなく、心を折られてしまっただけなのだ。

 だから誉には諦めてほしくないと英雄は思って、そう言った。

 ただ、


「言わせておけば…………ッ!」


 そんな言葉を、誉自身が納得できる訳がなかった。


「何が諦めるなよ! 覚悟も無く、ただ口先だけで諦めないだなんて語って、自分に勝つ気がないのを棚に上げて私に説教だなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある!」


 誉からすれば、子供が大人を諭しているような違和感しかない。簡単に割り切って過ごせるレベルでの悩みでは、自分がここまで思いつめることなんてないはずなのだ。

 それなのに、何をこの男は知った気になって話しているのか。

 憤慨をひたすらに露呈させて、誉は指を突き立てる。


「それだけ言うのなら、それ相応の覚悟を見せて──」


「だったら、俺も悪魔と戦うよ」


「ぇ……?」


 予想外の返答に、誉の思考が再び停止する。

 この男は今、なんと言った? 悪魔と戦う? なぜそんな。いや、そもそも悪魔なんて単語が何故この男から出てくる? だって、だってこの男の記憶は、天羽導華が、天使カトエルが凍結させたはずだ。


「本当はさ、俺、見てたんだ。誉と片穂ちゃんの、屋上での戦い」


「どう、して……?」


「屋上に入る場所ってな、あそこの扉だけじゃないんだよ。別の校舎に扉はないんだけど、人が一人ギリギリ通れるぐらいの窓があって、そこから屋上へ出れるんだよ」


 屋上に上がったのは、どこからか誉の声が聞こえた気がしたからだった。二人きりにしようと思っていたのだが、気になって仕方なかった。見届けたいと思ってしまった。

 そして見てしまったのだ。その背に白銀の翼を宿した天使二人が、戦っている姿を。いや、一人の天使がもう一人の天使を打ちのめす所を。


「天使になってる二人を見た時、最初はめちゃくちゃ驚いたんだけどさ。見ている内に頭の奥で何か違和感があって、本当に俺は今、初めて天使を見たのか分からなくなってきて、悩んでいると片穂ちゃんが斬った誉の大きな波が、俺の所に来たんだよ」


 思い出したのは、その波に手を触れた瞬間だった。天使の力に再び触れたその瞬間、文化祭の日に閉じ込められた記憶の全てが舞い戻って来たのだ。

 言わずとも誉は理解してるようだったので、


「……無理よ。諦めなさい」


「どうして」


「思い出したのなら、分かるでしょう? あなたには天使や悪魔の世界に足を踏み入れる資格がそもそもないのよ。佐種司とは違う、ただの凡人、いや、天使が見えただけでも自分を誇っていいくらいだわ。それなのに、こちら側に足を踏み入れようだなんて無意味よ」


 本来、簡単に人間と天使は交流を持たないものだ。気軽に足を踏み入れていい場所ではないし、そもそも近づこうと考えること自体が無謀なのだ。

 だが、


「わかってるんだ。そんなこと」


 知っている。自分が彼らに遠く及ばないことなんて。知っているのだ。手の届く場所に彼らがいないことなんて。

 でも、それでも、


「俺は、あいつらみたいになりたいんだ」


  誉は、何も言わない。ただ、彼女の目がほんの少しだけ揺れているような気がした。


「俺に資格がないことも、もしかしたら死ぬかもしれないってことも、ちゃんと分かってるんだ」


 自分に言い聞かせるように、英雄は言う。


「でも、そんな場所に、司はいるんだよ。司だけじゃない。片穂ちゃんも、誉も」


 諦めたくない理由は、それだけだった。負けるとわかってても勝負を挑んだのも、自分に、誉に嘘をついてまで、譲れなかったことも。全て理由はたった一つだけ。


「なりたいんだよ。お前らみたいに。司や片穂ちゃんや誉みたいな、俺がずっと憧れ続けた、格好良い『英雄えいゆう』に!」


 憧憬が、願望が、ずっと英雄の心にまとわりついて離れなかった。憧れた『英雄えいゆう』が、すぐ手の先にあるのだ。

 止まれないと、そう思った。


「俺の届く場所に、お前たちはいない。でも、確かに手の先にいるんだ」


 無意識に、英雄は手を伸ばしていた。真っ直ぐ、目の前にいる誉に向かって。

 しかしその手は、指は、僅かに誉には届かない。まるで、今の彼らの関係を表すような、そんな距離。


 目の前にある英雄の手を見て、誉は、


「……バッカみたい」


 絞り出すように、そう言った。

 視線は英雄が伸ばした指先のまま、誉は言う。


「一度諦めたくせに、無様に負けたくせに、遠く及ばないくせに憧れだけで立ち上がって。本当に馬鹿よ。これ以上程ない馬鹿で、救いようのない身の程知らずで、それでいて」


 一つ呼吸を入れてから、誉は静かに笑って、



「……私にとてもよく似てる」



 様々な感情がぐちゃぐちゃに混ざる。

 そして、誉は泣きそうな笑みを浮かべて、自分の目の前にある行き場のない手をそっと掴む。


「だから、私はあなたが嫌いになれないのよ」


 誉の小さな手に包まれた英雄の手は、そっと誉に近づけられる。


「佐種司や天羽片穂が遠くたって、私はここにいるわ。ちゃんと届いて、ここにある。あなたとそっくりな私の心は、遠い場所になんかないわ」


 指先が誉の胸にそっと触れた。

 温かい。温かくて堪らない。赤子が母親の子宮の中で安らぐように、温かい何かが心の中に染み込んでくる。


 愛しい。愛しくて堪らない。指先が触れただけなのに。こんな時に安心していちゃいけないのに。


「誉……?」


「あ、れ……?」


 二人の目から、同時に一滴涙が流れた。互いにその事実に気づいて、慌てて二人は顔を隠す。


「な、泣いてなんかないわよ! 最近すこぶるドライアイが酷いだけよ!」


「もっとマシな言い訳思いつかなかったのかよ……」


「う……うるさいわね! 別になんだっていいじゃない! 何⁉︎ 文句があるならいくらでも聞いてやろうじゃない!」


 ふんっ、とそっぽを向いてしまった誉を見て、英雄は可笑しそうに、


「文句なんてねぇよ。ただ、俺の前では泣くのを我慢なんかしなくなっていいんだ。強がらなくたっていいんだよ」

 

「な、ななな……っ!」


 誉は白い肌を熟れた桃のように濃いピンクに染める。


「強がってない! 断じて強がってないわ! これが私の等身大よ!」


「ははっ。それもそうだな。その方が誉らしいや」


「ちょっと! そこは笑うところじゃないわよ! ……って、それ以上に余計に笑う必要ないじゃない!」


 ゲラゲラと笑う英雄にポコポコと打撃を与え続ける。しかし、抵抗を続ければ続けるほど笑う英雄に嫌気が指した誉は全力で英雄を殴りつけて、玄関へと向かう。


「ほら! さっさと行くわよ!」


「あぁ!」

 

 誉は靴を履いてつま先をトントンと叩きながら英雄に笑いかける。


「証明してちょうだい。身の程知らずが『英雄えいゆう』になれることを」


「もちろんだ! 任せろ!」


 凛とした表情で、ちっぽけな二人は堂々と胸を張って大切な仲間を取り返すために走り始めた。


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