第五話「不屈の戦士」その1
時刻は大体二時を回った頃だ。終業式が終わった後に、司が華歩と一緒に買い物に行ってくれと言うものだから、片穂は司と帰れないことを少し不満に思いながらも帰路を歩いていた。
「全く、司さんってば私のことを放っておくことないじゃないですか!」
「でも、珍しいよね。二人が一緒に帰らないなんて」
「なんでも、雨谷さんと、司さんが、二人っきりで、二人っっきりで! 会わなければならない理由が、あるらしいんですけど!」
「そ、そっか……」
一つ一つ言葉を区切って、そして妙に二人きりを強調して頬を膨らませる片穂がぐいぐいと顔を近づけてくるので、華歩は引きつった笑いを浮かべながら後ろへと下がった。
「でもでも! すぐに帰って来てくれるって言ってましたから、美味しい料理を作って司さんを待つことにします!」
「それは……まぁ、いいんじゃない、かな」
「はい! 最近、よく司さんに手伝ってもらってお料理するんですけど、司さん、いっつも美味しいって笑って食べてくれるんです! きっと、今日は一人で作っても美味しくできるはずです!」
「司くんいつも頑張ってるんだね……」
片穂の因果を捻じ曲げる黒料理スキルを知っている華歩からすると素直に頷けなかったが、曖昧な返事をして誤魔化しておいた。
会話をしながら二人が歩いていると、片穂が急に足を止めた。どうやら何かを見つめているようだが、道端の物を見つめるには随分と目が輝いているように見えた。
不思議そうに華歩がその視線の先を追ってみると、そこにいたのは……
「可愛い猫さんです! 華歩さん! 猫さんです!」
そこにいたのは黒猫だった。それも道端で段ボールに入っているという近年の東京ではなかなか見ないような一目で分かるような捨て猫だった。
そして、捨て猫の割には首輪がしてあった。さらにそれには鈴などではなく、何か分からない赤黒い液体が入った瓶がくくりつけてあった。
「捨て猫、みたいだね」
「すてねこ……? この猫さんは、捨てられちゃったんですか?」
「多分、そうだと思うよ。きっと、元の飼い主の人がもうこの猫を飼えなくなっちゃったから、ここに捨てるしかなかったんだと思う」
「そんなっ! 可哀想です……」
見て分かるほどに肩を落として悲しむ片穂。華歩は片穂がこのように悲しむだろうと思っていたので、場所的にも余裕のある自分の家に出来る事なら拾って帰りたいと思うところなのだが、
「ごめんね。片穂ちゃん。私、猫アレルギーだからこの子を拾って帰れないんだ」
「そうなんですか……」
片穂がどうしようかと猫を見つめていると、猫が段ボールから身を乗り出し、可愛らしく「にゃー」と鳴きながら片穂の足に顔をすりすりと擦りつけてきた。ゆっくりと探るように片穂が黒猫の頭に手を当てると、気持ちよさそうにぐるぐると喉を鳴らした。
「はぁああ……! 可愛いですぅ……!」
「そうだね。アレルギーで触れないのが残念だよ」
華歩が微笑ましそうに目を輝かせて猫を撫でる片穂を見ていると、片穂はぐいっと顔を上げる。
「私が拾って帰ります!」
「え……? でも、司くんの家ってペット禁止だったんじゃ……」
そもそも、上京してきた一人暮らしの高校生が借りているワンルームに、ペットの許可などあるわけないのだが、片穂は何かを決意してしまったみたいで。
「大丈夫です! 司さんならなんとかしてくれます!」
「さすがの司くんでも、それは厳しいと思うよ……」
「大丈夫ですぅ! 大丈夫ったら大丈夫ですから、この猫さんをここに置いておくわけにはいかないんです!」
三歳児のような駄々をこねてバタバタと足音をその場で立てる姿を見て、華歩はため息を吐く。司には申し訳ないが、片穂をこれ以上説得できる力が自分にはないと華歩は諦めた。
「そ、そっか。じゃあ片穂ちゃんの買い物の荷物は私が持ってあげるから、とりあえず司くんの家まで拾って帰ろっか」
「はい!」
片穂は黒猫を両手で優しく抱きかかえ、落ちないように腕で猫を包み込む。
片穂の買った食材を持ちながら、そして心の中で司に謝りながら、満面の笑みで黒猫を抱えて歩く片穂の横を華歩は歩いていた。
そして、二時半を過ぎた頃だろうか、まだ太陽が上に見える時間帯に、司の家の玄関まで二人は辿り着いた。
「華歩さん! ありがとうございました! 荷物はそこに置いておいてください!」
「うん。わかった。……あのさ、片穂ちゃん」
「はい? なんでしょう?」
「導華ちゃんがいたら、少しお話とか……いいかな?」
もじもじと恋する乙女のように片穂に質問する華歩だが、片穂はそんなのお構いなしに能天気な声で、
「お姉ちゃんは用事があるらしくて今は出かけてます! 用があるなら、伝えておきますよ!」
「えっ!? い、いや、別に急な用事じゃないから、大丈夫だよ」
「?? そうですか。わかりました!」
片穂は先に黒猫を家の中に入れてから、華歩に持ってもらっていた荷物を家の中に入れていく。
「華歩さん! 今日はありがとうございました! また明日です!」
「うん。司くんに色々ごめんってことと、頑張ってって伝えておいて」
「……??? わかりました!」
「それじゃあ、明日から夏休みだから学校では会わないけど、何かあったら呼んでね」
「はい! もちろんです!」
満面の笑みで片穂が答えると、華歩も嬉しそうに手を振って帰って行った。
そして、一人になった片穂は、学校の荷物を整理してから早速買ってきた食材に手を伸ばす。
「今日もおむらいすです! はぁあ……楽しみですぅ…………あ! 猫さんもお腹減ってますよね! 何か用意するので少し待っていてくださいね!」
「──その必要はないわよ」
「──ッ!?」
片穂は返事がこないことなど百も承知で声を出していたが、その予想に反して猫ではない誰か別の女性の声が背後から聞こえた。
瞬間的に背後を振りかえると、そこにいたのは安っぽいシャツにジーパンというなんともラフな格好にも関わらず、その美しさは劣化することなく、素材の味を引き立てた料理を出されたような感覚を抱かせる女性だ。そして、声やその姿が纏う空気は間違いなく、普通の人間にはあり得ない、それはまるで……
「ま、じょ……?」
「あら、ちゃんと覚えていてくれたのね。嬉しいわ」
天羽片穂の目の前で、魔女、初知真理は艶かしく笑った。
「なんで、ここに……‼ ここには私と猫さんしか……」
「魔女って、自分の姿を猫に変えることが出来るのよ。まぁ、色々と条件を整えなきゃいけないからいつでもどこでも変身できるわけじゃないけどね」
余裕のある魔女の立ち振る舞いとは対照的に片穂の警戒度が最大まで上がっているが、警戒心の割には一向に戦闘準備に移行しない、というより、出来ない。
「また……天使になれない……!?」
「ふふふ。前も言ったけれど、私はとっても臆病なの。念には念を……ね?」
魔女の家に来た時と同様に、天使になることができない。というより、自分の力に蓋をされたように力を出すことが出来ない。
「どうしてあなたがここに……!?」
魔女の狙いは佐種司ただ一人のはずだ。以前に話した時も初知真理の目的に天使の打倒は含まれていないはずだ。現れるとしたら、司の前で、片穂の前ではないはずだが。
片穂の疑問に、初知は笑顔で答える。
「前にも言ったけれど、私の最大の目的はサタンの『器』の抹殺。そして、そのためには佐種司とその妹を殺さなければならない」
「ならなんで、私の前に」
「だって、佐種司にとって、あなたは命に変えても守りたい存在でしょう?」
「──ッ!?」
魔女にとっては、片穂の生死など関係ないのだ。むしろ、悪魔を代わりに倒してもらえるのだから生かしておいた方がいいくらい。
しかし、天羽片穂ならば話は違う。司と片穂の関係を知れば、片穂を人質として捉えるのも作戦の内だろう。
天羽片穂は佐種司にとって命に変えてでも守りたい存在だ。なら、天羽片穂を命に変えてくれれば、この魔女の狙いは完了する。
「させない! 司さんは、絶対に殺させない!」
天使になれない状態でも、片穂は闘志をむき出しにして初知と向かいあう。
しかし、
「なんども言ってるでしょう? 私はとっても臆病なの。勝ち目のない勝負なんて、私は挑むつもりはないわ」
不敵な笑みを浮かべて、初知は自分の胸元に手を移す。そこにあるのは、片穂が黒猫だった魔女を発見した時に見た、赤黒い液体の入った瓶。それを手の中で弄びながら、魔女は口を開く。
「たくさんの準備をしてきたのよ。ここはまだ計画の一歩にも満たない。さぁ、舞台を移しましょう!」
魔女は瓶を床に叩きつけた。何をやっているのか片穂は理解が出来なかったが、瓶が割れて液体が飛び散った瞬間だった。
「【魔女の闇路】‼」
魔女がその言葉を唱えた途端、闇が割れた瓶から放出され、司の小さなワンルームは瞬く間にその闇に包まれる。その闇が魔女を、さらに片穂を覆い、彼女の視界は黒一色となった。次の瞬間に訪れるのは、静寂。
そして、天使たちと幸せに暮らしていた佐種司のワンルームには、台所に並べた食材と魔女の割った瓶以外、何も残っていなかった。
魔女が片穂を連れ去ってから三〇分後、無人の自室と魔女の痕跡を確認した司たちは戸惑いを隠せずにいた。
「どうして……魔女の気配がこんなガラスに……?」
「わかりません。ですが、ここに片穂さんがいない事とこの魔女の残した痕跡の関係は明らかかと」
「つまり、誘拐ってことか?」
朱理は自分の手に持ったガラスの破片を手のひらで物色しながら頷いた。
「現状、それが一番可能性の高い結論かと」
「でも、どうして片穂が」
魔女、初知真理の狙いは佐種司及び佐種真穂の殺害だ。天使と無理に敵対する必要性などありえないと思っていた。しかし、結果的に狙われたのは片穂だ。これは一体どういうことなのか。
「魔女の狙いは、司様の身柄でしょうか? それとも、その命でしょうか?」
真剣な眼差しで、朱理は問いかけた。
「俺の命のはずだ。母さんと父さんがサタンを倒せなかったから、世界を救うためにもサタンの『器』をこの世から消すつもりなんだって」
「なるほど。確かにそれが一番確実で単純な結論ですわね。そして、そうなりますと片穂さんを狙った理由も分かりますわ」
「どうしてそれで片穂が……?」
朱理は司の顔を見た。どこか愛おしそうな、それでいて少し悲しそうな表情を浮かべて。
「司様。あなたは天羽片穂を助けるためにその命を懸けれますか?」
「それは……」
言葉を選ぼうとした司に代わって、朱理が続ける。
「懸けれます。あなたはそういう人ですから。天羽片穂を守るためなら、きっと命を投げ出すこともいとわないでしょう」
「……だから、片穂を」
「そうでございます。天羽片穂が生きていようといまいと、彼女を守るために司様が死んでしまえば、魔女はそれでいいと考えているのでしょう」
以前魔女と会話した時にも感じた、異常な情報量。きっとその中には司が片穂を守って死の寸前まで陥った情報もあるのだろう。そして、司の飛びぬけた天使への適性のせいで、生身の肉体でも天使や悪魔に干渉できることも。
「でも、だからって片穂を探さないわけには……!」
「ええ。もちろんですわ。私だって助けるつもりです。ですが、あまりにも情報が少なすぎますわ。足取りがつかめない今、むやみに走り回っても意味がありません」
「なら、俺たちはどうすればいいんだ」
「まずは、助けを呼ぶのが確実かと。頼りになる天使が、この部屋にはもう一人住んでいるのでしょう?」
そうだ、と司は思わず声を上げた。混乱していて忘れていた。自分たちを助けてくれる頼りになる天使がいたではないか。
司は急いでスマートフォンを取りだし、導華へと電話をかける。
一〇秒ほどで、電話は通じた。
『どうした、司よ。何かあったか?』
「導華さん! 大変なんです! 片穂が……片穂が……ッ!」
『落ち着け。問題が発生したのはわかった。冷静に説明しろ。慌てても意味がない』
「は、はい……。実は──」
導華の落ち着いた声で、司の感情の波も静かになってきた。大きく深呼吸をしてから、細かく事情を説明した。その説明を、導華は黙って聞いていた。そして、落ち着いた声で返事をする。
『そうか。なら、警察に通報することもできんのぉ』
「えっ……?」
『大前提として、これは天使と魔女の戦いじゃ。関係のない者どもを巻き込むわけにはいかんじゃろう。それに、たとえ通報したところで、同居している彼女が連れされた、なんて言ってまともにとりあってもらえるとは思わんからのぉ』
司は引きつった笑顔で、そうですか、と答えてから続ける。
「そうなると、俺たちだけで片穂を探すってことですか?」
『うむ。じゃが、ワシも片穂がどこに連れ去られたのか見当もつかん。とりあえずは別々に探したほうがいいじゃろうな』
「でも、闇雲に探すのはさすがに非現実的じゃ……」
司は思考を巡らせながら導華へ問いかける。魔女がどのようにして片穂を連れ去ったかは知らないが、あの魔女のことだ。簡単に見つかる場所に隠れているなんてことはないはずだ。
別々に探すことには賛成だが、それからどこを探せばいいのか。
『魔女は決して一般人に危害を加えないように動くはずじゃ。なんせ目的は世界を救うことらしいからのぉ。じゃから、一目に着かない場所、それでいて本来の目的である司を攻撃できる場所。……廃墟とかが最適かのぉ』
「なるほど。なら俺たちは近くにある廃墟や使われていない建物を探していけばいいんですね」
『そうじゃな。ワシは一応魔女のいた喫茶店を調べてみようと思う。そっちは任せたぞ。何かあったらすぐに連絡しろ』
「はい! わかりました!」
司は電話を切ると朱理の方へ視線を移す。どうやら会話は聞こえていたようで、言葉もなしに朱理は理解を伝えるために頷いた。
「して、司様。三人目の天使には、連絡をしないでもよろしいのですか?」
片穂、導華に続く三人目の天使、進撞誉。彼女は一学期末テストの後に片穂に負けてから一度も司たちの前に現れていない。しかし、今は喧嘩したからとかそういった理由など関係の無い緊急事態だ。
朱理の提案を聞いた時には、司は既に別の電話番号に電話をかけようとしていた。
「残念ながら誉ちゃんの電話番号は知らないんだ。だから、全てあいつに任せようと思う」
「よいのですか? 彼は確か……」
英雄は、文化祭の日に天使である誉を見て、司や華歩が天使との関わりを持った人間だと知ってしまったが故に、導華による記憶操作で天使に関する記憶を封印された。
本来は天使に関係のない英雄を巻き込むべきではないし、そもそも天使や悪魔という前提を知らない以上、今回の件も理解が出来ないまま協力を要求されることとなる。
そんなことは承知の上だ。知っていても、それでも司は迷わない。
司はスマートフォンを耳元に運びながら笑って、
「大丈夫だ。凄い奴なんだぜ? あいつって」




