その5「欠陥品」
司の言葉を聞いて、朱理は心底驚いたようで、
「私を、悪魔から……?」
「そうだ。俺は雨谷さんを悪魔から救ってみせる」
躊躇うことなく、司は頷いた。
理由は簡単だった。
悪魔の手から、彼女を救いたかった。間違った考えを植え付けられて、間違った人生の理由を信じ込んで、悪魔の為に死んでいいと、そんな結末でもいいと思ってしまえるようなことなんて、あってはいけないと思ったからだ。
「くだらない。くだらな過ぎますわ。滑稽過ぎて笑みすら浮かんできましたの」
「違うだろ! 間違っているんだ! 誰かのために自分を捨ててもいいなんて、間違ってる!」
「いいえ。正しい、ですわ。正確に、明確に、寸分の狂いの介在する余地などあり得ないほどに、アスタロト様が正しく、正しい。この事実は揺るぎませんわ」
司の持つ【灮焔之剣】の切っ先は、未だに朱理へ向き続けている。それでも、朱理の表情は一切として動かない。
むしろ彼女は笑って、悪魔を心から肯定した。司は納得などできない。
「どうして……! 悪魔は君の人生を物みたいに扱って、使い捨てにすらしようとしているんだぞ!」
「物わかりの悪い人ですわ……」
「なんだって……?」
「私はアスタロト様に救われた。私のこの人生は一度終わり、再び始まった。この第二の人生は全てアスタロト様に捧げると、私は誓った。使い捨てでも、構わない!」
愛国心溢れる戦士が祖国の繁栄を願い戦場に赴くように、悪魔のために死にゆく自分を誇って、朱理は叫んだ。
目を丸くする司を見て、朱理は嘲るように口を開く。
「ところで、司様も私を諭せるような立場ではないのではありませんこと?」
「え……?」
「天羽片穂の存在は、あなたにとってどんな存在なのですか?」
「どうって、そりゃあ……」
──捧げよう。佐種司の一生を。
思い出すというよりも、驚くというよりも、予想外というよりも、腑に落ちたと、表現するべきだろう。
だからか。だからこの子を助けたいのか。
「なぜ、あなたは笑っているのですか」
言われて、初めて司は自分が笑っていることに気付いた。
自覚しても、上がった口角は下がらない。
「俺は、片穂の事が好きだよ。俺の人生を捧げるって、自分の心に誓ったよ」
朱理の嘲笑はさらに強くなる。
「だったら、何も違わないではありませんか。司様に私を否定する権利なんて──」
「俺と片穂の関係は、そんなものじゃない。片方のためにもう片方を捨てるなんてこと、俺たちは絶対にしない」
「──」
「俺は何度も片穂に命を救われた。この恩は一生かけても返せるものじゃない。でも、そうじゃない。返すとか返さないとかの前に、俺は片穂が好きで、片穂も俺を好きだって言ってくれた。だから、俺たちは一緒にいる」
司の言葉は、止まらない。
「支え合うって、決めたんだ。どんな時だって一緒に歩くって、誓ったんだ。捨てるなんて、あり得ない」
「──」
朱理の顔に触れてしまいそうな切っ先を司はほんの少しだけ引いて、朱理の目を見つめる。
「だから、自分のために生きるべきだ。そんな関係、間違っている」
「それが……なんだって言うのですか」
朱理の手は、触れていた。全身に少しずつ力が入っていく。
燻ぶる火種が、再び燃え上がる。
「私はあなたたちとは違う! 私には、そんな道は選べない!」
さらに、叫ぶ。心の底に溜まる何かを、吐き出すように。
「何も私には何の価値もない! 自分のために生きられるほど、私には価値なんてない! あなたには分かる訳なんてない! 選ばれなかった側の人間の気持ちなんて!」
「──わかるよ」
「は……?」
「同じなんだよ。だからきっと、俺は君を助けたいんだ」
思考が巡れば巡るほど、腑に落ちた何かの輪郭が鮮明になる。明確になる。
あぁ。やっぱり同じだ。自分たちと同じなんだ。この子は。
何も出来ない自分を恥じて、自分を必要としてくれた人のために精一杯努力して。一途に大切な人のことを思い続けて。
天羽片穂と、同じだ。
片穂が司の前に現れたのは、司との約束を果たすため。そのために、いつか再会する記憶を失った司を想い続けて、血の滲むような努力を重ねた、片穂と同じだ。
ただ、関わったのが天使か悪魔かの違いだった。司も、片穂も、一つ道を間違えればこんなふうになっていたかもしれない。
そして、同じなのは片穂だけじゃない。
「何を言っているんですか。一体、何が同じだと……」
「欠陥品なんだ、俺も」
今にも壊れそうな、脆く、淡い笑みを、司は浮かべた。
「俺は、サタンの『器』なんかじゃない。『器』に成り損なった。欠陥品なんだよ」
司の手に握られた【灮焔之剣】が、音もなく崩れていく。朱理に最も近い切っ先からボロボロと、砂のように崩れていく。
朱理の鎌を受け続け、【灮焔之太刀】を使った司には、もう力など残っていない。使用限界の三〇分よりも、ずっと早く、黄金の剣は崩れ去った。
これが佐種司なのだ。
力は使える。天使カホエルを共用できるほどの『器』を持ちながら、しかしサタンを受け止めきれるほどには至らなかった、出来損ないの欠陥品。
同じだ。なんの才能も持たずに、悪魔との関係を持つことだけしか出来なかった朱理と。
司は、笑って続ける。
「俺にも、何もないんだよ」
剣の消え去った空っぽの手を朱理に向けたまま、司は告げた。
朱理は再び理解の出来ない状態に陥り、言葉を失っていた。口を動かそうにも、何を言えばいいのか分からず、ただ茫然と司を見つめる。
十秒ほどの沈黙の後、ようやく朱理は口を開いた。
「これは、どういう……」
「勘違いなんだよ。確かに俺は父さんや母さんから受け継いだ天使の力への適性のおかげで、片穂を許容して天使化できる。でも、それだけ。魔女と話した時にわかったんだ。サタンの『器』には起こらない現象が、小さかった俺に起こっていたから」
片穂と司が出会ったあの日、妹であり、サタンの『器』である真穂に命を吸収されて司は死ぬはずだった。運命的な出会いと母親の美佳の行動により片穂が司の死を掻き消したわけだが。
「では、私は一体……なんのために、今まで……」
朱理は理解した。自分がアスタロトから命じられたサタンの『器』との接触とその回収、そのために行動してきた全てが、無駄であったということに。
そしてそのことを、佐種司は、
「無駄じゃ、ない」
肯定、しない。
「無駄なんかじゃない。たった半月ぐらいだけど、文化祭も、テスト勉強も、どれも楽しかったし、大事な時間だった。天使や悪魔なんて関係なしに、俺は楽しかった。無駄なんて、思わない」
「違う……ッ! 違う違う違う!」
朱理にとっての問題は、楽しいか否かではない。
「アスタロト様のお役に立てない私なんて、生きている意味など……ッ!」
今、雨谷朱理が生きているのは、アスタロトに変えてもらった人生を捧げるため。しかし、司がサタンの『器』ではない以上、今の朱理にとって価値はない。そう、彼女は考えている。
そしてそのことを佐種司は、
「意味がないわけ、ないじゃないか!」
全身全霊で、否定する。
「悪魔なんて関係なく、俺は雨谷さんにいろいろな事を助けてもらった。あの時間に、価値がないなんて俺は思わない。俺の人生の、大切な一瞬だ。雨谷さんが命令で俺の隣にいたと知っても、これだけは胸を張って言えるよ」
「違う。私は、出来損ないだから……。何も出来ないから。だから、役に立てないと、捨てられる。だから私は、役に立たないといけない。じゃないと、私に居場所なんて……」
過去のトラウマが、悪魔と出会う前の悪夢が、蘇る。何も出来ないだけで皆から蔑まれ、居場所を失くした小さい頃。努力は実らず、他者から認められない人生。自分に意味を持てる場所を、悪魔と出会ってようやく見つけたのだ。だからそれを捨てたくない。
感情が、揺れる。その揺れが震えとなり、その震えが恐怖となり、その恐怖が涙となり、朱理の目から、零れ落ちた。
「いいじゃんか、できなくて。いいじゃんか、出来損ないで」
「なんっ……なんで……!?」
「俺だって、一人じゃ何も出来ない。悪魔と戦うのも、さっき雨谷さんの攻撃を防げたのも、片穂や導華さんがいたからだ」
未熟で、不完全で、一人では何でも出来ない。しかし、それでいいと、手を取り支え合えばいいと、かつて司は天羽片穂の手を取った。
出来ないから、居場所がない。役に立てないから、価値がない。
そんなこと認めてやるものかと、司は拳を握りしめる。
「悪魔のために生きなくていい。自分のために、生きればいい。出来ないことは、頼ればいい。一人で完璧である必要なんて、ないんだから」
力強い司の視線に、朱理の心が動き始める。しかし、それと同時に生まれるのは、一つの疑問。
「なぜ、敵である私に、あなたはここまで」
そんな朱理に、司は笑って答える。
「俺は、君の心を救いたい」
「──」
「片穂ってな、凄いやつなんだよ。優しくて、誰よりも他人の気持ちを考えて、それで考えすぎて自分が傷ついて泣いたりもするんだよ。頑固で負けず嫌いな友達のためにさ、考えて考えて、空回りして」
司は周りを見渡す。自分が通う学校の屋上。思えば、全てがここで起こっていた。文化祭で朱理が初めて力を見せ、英雄が記憶を失い、魔女と出会い、誉と片穂が戦い、そして今は朱理と司がここに立っている。
そしてここに司が立っているのは、救われたから。だから、
「俺は片穂に救われたからここにいる。だから、同じように苦しむ雨谷さんを、俺も救いたい。理由なんて、それだけだよ」
朱理の涙はさらに勢いを増していく。
「でも、そんなことできません。もしここで私が命令を無視してしまえば、アスタロト様に捨てられるどころか、この命すら消されてしまいます……。私は、生きられない……ッ!」
「俺が、守るよ」
「ぇ……?」
「自分のために生きる君を、俺が、俺たちが必ず悪魔から救ってみせる。片穂も導華さんも華歩も誉ちゃんも、みんな同じ気持ちのはずだ。君が助けを求めるなら絶対に悪魔から護ってみせる」
目を真っ赤に腫れあがらせ、呼吸を乱し、嗚咽を漏らし、朱理は声を絞り出す。
「……の、ですか?」
朱理は、問いかける。
「こんな私でも、自分のために生きてもよいのですか……?」
分からなかった。本当に、こんな自分が生きていていいのかと。価値がないと思い続けてきた自分が、悪魔という自分を肯定してくれる存在無しに、自分はこの場所にいてもいいのかと。
佐種司は笑う。笑顔で言う。
「もちろん」
朱理は問いかける。
「私に司様たちと共に生きる価値があるのですか……?」
分からなかった。今まで皆を騙し、司をサタンの『器』として腕を斬り落としてでも捕らえようとしていた自分に再びあの輪に入る権利があるのかと。
「当たり前だ。だって──」
笑って、佐種司は答える。
「雨谷朱里は、俺たちの大切な友達だから」
今回は来週投稿の五話の前に行間を投稿します。今回で雨谷朱里のくだりが終了し、三章終盤へ。魔女、そして英雄と誉の話になります。だらだらと続いた三章をここまで読んでくださった方。絶対に面白く書いてみせます。




